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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
17/28

16 忘却の螺旋と、脳裏の既視感

『――私はここにいるの』


 絶対的な暗闇。上下の概念も、時間の流れも存在しない黒い虚無の底。

 すべてがノイズとなって溶け落ちていく中で、

 果たしていつの記憶だったか、雨の匂いだけがそこにあったような気がした。


 直後、内臓を直接鷲掴みにされて引きずり上げられるような、強烈な吐き気が襲ってきた。


「……っ、が、あぁぁッ!」


 激しい嘔吐感と共に、透はコンテナハウスの硬い床の上で跳ね起きた。

 全身が脂汗に塗れ、過呼吸のように喉がヒューヒューと鳴っている。必死に空気を求めて口をパクパクとさせながら、透は自分がうつ伏せに倒れている床の冷たさにすがりついた。


 床がある。重力がある。

 鼓膜を打つのは、分厚い鉄板を叩くような激しい雨音だ。


「はっ、あ⋯⋯夢、か?」


 透はゆっくりと身を起こした。

 見慣れたマルチモニターの青白い光。乱雑に積まれたサーバーラック。すべてがいつも通りの「現実」だ。

 だが、透は自分の左腕を右手で強く押さえ込み、歯を食いしばった。


(痛い⋯⋯なんだ、この痛みは)


 骨折や火傷などではない。左腕の細胞が、空間ごと四角い幾何学的な破片となってボロボロと崩れ落ちていくような、おぞましい「幻肢痛」が神経を焼き切るように暴れている。


 透は震える手でスマートフォンの画面を見た。

 日付は『7月5日午前10時00分』。

 大手バーチャルアイドル事務所『流れ星スタジオ』との、あの大型コラボライブ、7月24日までまだ20日近くある。


 その文字を見た瞬間、透の脳髄に、強烈な既視感(デジャヴ)と、理由のわからない莫大な「絶望」がフラッシュバックした。


 暗黒。

 空間の崩壊。

 そして、妹の絶望的な笑顔――。


 具体的なプロセスは何も思い出せない。自分が一度死んで時間を巻き戻ったなどというSFめいた発想は、合理主義者である透の頭には微塵も浮かばなかった。

 ただ、「7月24日の配信を行えば、取り返しのつかない破滅が訪れる」という直感だけが、吐き気を催すほどの絶対的な質量を持って脳にこびりついていた。


「少し、働きすぎたか」


 透は荒い息を吐きながら、自身の異常な精神状態を「過労によるパニック障害」だと結論づけた。


 今までの透であれば、この不調すらもカフェインと栄養ドリンクでねじ伏せ、完璧なインフラ構築のためにキーボードを叩き続けていただろう。

 だが、左腕の幻肢痛は、彼から「星川 綺羅々」へ向き合う気力を根こそぎ奪っていた。


 透はコンテナハウスを出て3階のリビングへと向かった。

 そこでは伊知花がトラッキングスーツを試着して、嬉しそうにコラボ配信の準備を進めていた。


「あ、お兄ちゃん!見てよこれ、コラボ用の新しい――」

「伊知花」


 透は、かつてないほど静かな、そして冷たい声で妹の言葉を遮った。


「今回のコラボ配信、俺はインフラの監視から外れる」

「⋯⋯え?」

「サーバーの自動スケール設定は済ませてある。トラッキングの微調整も、これ以上俺が手を入れる必要はない。お前はスタジオのスタッフの指示に従って好きにやれ」


 伊知花は目を丸くし、やがて不満そうに唇を尖らせた。


「なにそれ。お兄ちゃんが完璧に見ててくれないと、私、不安なんだけど」

「俺は少し休む」


 突き放すように言い捨てて、透は部屋を出た。


 外階段を上り、コンテナハウスの重い扉を閉めると激しい雨音がわずかに遠のいた。

 サーバーラックの冷却ファンが放つ無機質な低周波音だけが、薄暗い室内に響いている。


 透は濡れた衣服もそのままに、パイプ椅子に深く沈み込んだ。

 荒くなっていた呼吸が、少しずつ平熱を取り戻していく。左腕を焼き切るような幻肢痛も、今は奥底で脈打つ鈍い痺れへと変わっていた。


(俺は、何を怯えているんだ)


 両手で顔を覆い、透は暗闇の中で自身の異常な振る舞いを反芻した。

 理路整然としたエンジニアであるはずの自分が、論理も証拠もない「漠然とした破滅の予感」に支配され、妹を突き放して逃げ出してしまった。


 だが、先ほどリビングでトラッキングスーツを着た伊知花を見た瞬間、本能が確かに警鐘を鳴らしたのだ。

 彼女のあの完璧すぎる笑顔。人間の筋肉が作る自然な歪みを持たない、無機質な表情。

 その背後に、何百万という人間の視線が、どす黒い重力となって渦巻いているのを感じた。


『星川 綺羅々』という架空の存在に、世界中の人間の意識が集中し、強烈な共通認識を与えていく。

 その熱狂が、宇園 伊知花という一人の少女の情報質量を限界まで膨張させ、やがて彼女の周囲の空間そのものを圧し潰してしまうのではないか――。


「馬鹿げてる。ただのプレッシャーだ」


 透は乾いた声で呟き、頭を振った。

 コラボライブでの100万人規模のトラフィックを支えるインフラ構築。その異常な重圧と疲労が、脳に幻覚を見せているだけだ。物理的な質量を持たない人間の「感情」や「視線」が、現実の空間を歪めるなどあり得ない。


 そう論理でねじ伏せようとしても、皮膚の裏側を這うような悪寒は止まらなかった。

 あの日に向けて、見えない『収束』が始まっている予感。

 これ以上、あの「特異点」を中心とした熱狂の渦に自分まで観測者として加担すれば、やがて自分の自我も完全に崩壊してしまう予感。

 目に見えない恐怖がジリジリと背後に迫ってくる嫌な感覚があった。


 デスクの上のスマートフォンを手に取ると、星川 綺羅々の名前が飛び交うSNSアプリを次々と消去する。

 さらにコンテナハウスのメインモニターの電源を落とし、ルーターの管理画面を開いて『星川 綺羅々』に関連するトラフィックや検索結果をすべて弾くよう、強固なフィルタリングを設定をする。

 気のせいか、左腕の幻肢痛が和らいだ気がした。

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