幕間 孤独な特異点と、過去の記憶
事象の地平面――絶対的な重力と情報の特異点が作り出す、光すら逃れられない暗黒。
空間の概念が歪み、時間の流れが意味を失っていく虚無の底へと落ちていく刹那。
宇園 伊知花の意識は、押し寄せる数百万の「観測」の暴力から一瞬だけ切り離され、ふと静寂な記憶の底へと沈んでいった。
――カチャ、カチャ、ターン。
物心ついた頃から宇園家の広いリビングに響いていたのは、両親の笑い声ではなく兄が叩く無機質なキーボードの音だった。
海外の研究所に勤める両親は、優秀すぎるがゆえに物理的な家族の接触を必要とせず、「生活費という名の数字」を定期的に振り込んでくるだけの存在だった。
そして、兄の透もまた彼らの血を色濃く継いだ異才だった。
幼い頃の伊知花にとって、兄の背中はいつも遠かった。
透は不確定で面倒な人間の感情よりも、数式が導き出す美しい法則や、最適化された物理演算の箱庭を愛していた。
『お兄ちゃん、遊ぼうよ』
『後にしてくれ。今、重力波のシミュレーションを回しているんだ』
振り向かずに答える兄の横顔を見るたび、伊知花は自分がひどく不確かな存在のように感じられた。
誰の目にも留まらない。天才の兄の意識すら自分を向いていない。まるで、観測されないことで状態が確定しない量子のように、自分はただの「背景」に溶けて消えてしまいそうだった。
だから、考えたのだ。
どうすればあの兄が、自分という存在の座標を「確定」してくれるのかを。
答えは簡単だった。最も手のかかる、厄介な障害物になればいい。
服を脱ぎ散らかし、ゴミを放置し、昼夜逆転の生活を送る。そうすれば、透は必ずため息をつきながら部屋にやってきて、伊知花を取り巻く無秩序な空間を整えようとする。怒った顔であっても、その瞬間だけは間違いなく兄の目は「宇園 伊知花」という一点に強固に固定されていた。
『星川 綺羅々』というバーチャルアイドルを始めたのも、元を正せばそれが理由だった。
『私、こういうのやりたい。お兄ちゃん、私のために作ってよ』
無理難題を押し付けた。現実の物理法則と寸分違わない、完璧なアバターの設計。兄なら絶対にできると知っていたし、これを運用し続ける限り透は自分から目を離せなくなる。
コンテナハウスという要塞にこもり、兄が自分のために汗水垂らして数式を組み上げている。自分がわがままを言えば言うほど、透は「星川 綺羅々」という虚像を通して、伊知花という人間に縛り付けられるのだ。
(私、ほんとに嫌な妹だよね)
重力の底で、伊知花の意識は自嘲するように笑った。
「お兄ちゃんがいなきゃ、私は形を保てないんだから、絶対に見捨てないで」。その惨めで狂信的な依存の形が、星川 綺羅々という最も美しく、強固な檻だった。
けれど、星川 綺羅々は質量を持ちすぎた。
何百万人という人間が、彼女を「観測」するようになった。
最初は、承認欲求が満たされる心地よさだった。
しかし、コラボライブが近づくにつれ、その感覚は絶対的な『宇宙の暴力』へと変わっていった。
数百万人の脳が放つ強烈な「星川 綺羅々はそこにいる」という共通認識。それは純粋な情報質量の巨大な渦となり、伊知花の周囲の空間そのものを歪め始めた。
『綺羅々ちゃん今日も可愛い!』
『ずっと見てるよ』
『綺羅々がいないと生きていけない』
言葉を交わす必要すらない。
それは、幼い頃から空っぽだった宇園家のリビングの寒さを完全に忘れさせてくれるほどの、甘く、恐ろしい熱量だった。
と同時に、数百万人が作り上げた「完璧な偶像のイデア」は、宇園 伊知花という不完全な炭素の塊(肉体)を許容しなくなっていった。
控室で、親しいはずの鈴音に怯えながら「綺羅々ちゃん」と呼ばれた時。
鏡の中の自分が、肉体の限界を超えた「完璧なアイドルの笑顔」を作った時。
伊知花は理解した。世界中の視線が重力となって自分を圧し潰し、星川 綺羅々という一つの巨大な「特異点」へと強制的に作り変えようとしているのだと。
(もう二度と、一人ぼっちで兄の背中を見つめる必要はなくなる)
そう信じ込もうとした。自分という不確かな存在を捨ててこの絶対的な引力に身を委ねてしまえば、永遠に愛されるのだと。
――でも。
事象の地平面に体が飲み込まれ、スタジオの現実が素粒子レベルでほどけようとするその直前。
因果律の崩壊を強引に切り裂くように、一条の鋭いコマンドが暗闇に突き刺さった。
『切り離せ!!』
それは、コンテナハウスの鉄壁がひしゃげ、自らの手が崩壊していく絶望の中でも、透が最後に放った狂気にも似た「祈り」だった。
世界を歪めるほどの情報質量は、一人のエンジニアの抵抗など、無慈悲に押し潰した。
だが、そのコマンドに込められた血を吐くような意志は確かに伊知花に届いていた。
数百万人の狂信的な祈りから妹を引き剥がし、ただの不完全な「宇園 伊知花」として世界に繋ぎ止めようとした、不器用な兄の意地。
宇宙の法則に喧嘩を売ってまで、自分だけを真っ直ぐに「観測」してくれた、唯一の存在。
(⋯ああ、なんだ)
空間の歪みに肉体が侵食され意識が原始の混沌へと還っていく中で、伊知花は一粒だけ涙をこぼした。
(数百万人の声なんか、いらなかった)
私が本当に欲しかったのは。
私のことを確かに観測し、この宇宙に繋ぎ止めてほしかったのは、世界中の誰でもなく、たった一人――。
『ごめんね、お兄ちゃん』
その微かな謝罪の言葉は音波として空気を震わせるより早く、事象の地平面の絶対的な暗闇の中へ完全に飲み込まれて消えた。
幕間抜けてたので追加しました




