15 Xデーと、事象の地平面
土砂降りの雨がマンションの屋上を叩きつけている。
電磁波シールドで完全に密閉されたコンテナハウスの中で、宇園 透の口からは壊れたレコードのような笑い声が漏れていた。
「ははっ、ふざけるなよ。こんなことが、あってたまるか⋯⋯!」
透は血の気の引いた顔で、ひび割れたキーボードを叩き続けていた。
エンターキーを叩くたびに、指先から滲んだ血がキーの隙間にこびりつく。だが、痛みなどとうに感じていなかった。彼の眼球は極限まで見開かれ、毛細血管が破裂したように赤く染まっている。
昨夜、リビングで『星川 綺羅々』に乗っ取られかけた妹を見た瞬間から、透は一睡もせずにコードを書き続けていた。
目的は一つ。伊知花の肉体と、「星川 綺羅々」の演算データを強制的に切り離すための『分離パッチ』の構築だ。
システムは今、数百万人の「観測(期待)」という情報質量を触媒にして、虚像である星川 綺羅々を、宇園 伊知花という現実の物理座標にプリントしようとしている。丹羽教授は宇宙の自浄作用だの、事象の地平面だのとオカルトめいたことを言っていた。
「知るか。宇宙の処理落ち?物理法則のバグ?上等だ」
透は歯軋りしながら、バイナリエディタに神をも恐れぬコマンドを次々と羅列していく。
「宇宙のメモリが足りないなら、俺が解放機能を回してやる。現実のレンダリングが追いつかないなら、俺が『Unisonエンジン』でこの世界ごと上書きして演算し尽くしてやる!俺が作ったシステムだぞ!俺の妹だ!!外野の観測データごときに書き換えられてたまるか!!」
透の目は完全にエンジニアとしての傲慢と狂気に支配されていた。
彼は今、広大な宇宙そのものを「最適化不足のポンコツOS」だと見下し、己の力技だけでその論理破綻をねじ伏せようとしていた。
伊知花の肉体から星川 綺羅々のデータを剥がし、同時に妹の精神も殺さない完璧な切断手術。
モニターには、大学のメインフレームから引き出した莫大なリソースが、激しい波形となって表示されている。コンテナハウスの冷却ファンが悲鳴を上げ、サーバーラックからは焦げたような匂いが立ち込めていた。
午後7時59分。
「⋯⋯できた」
透は血まみれの指を、エンターキーの上で止めた。
分離パッチのコンパイルが完了した。実行のタイミングは、もっともシステムに負荷がかかる「配信開始の瞬間」しかない。
そして午後8時00分。
『流れ星スタジオ』の収録ブースで、コラボライブの配信がスタートした。
画面の同接カウンターが異常な速度で跳ね上がる。
10万人、30万人、50万人――そして、開始わずか数秒で100万人を突破した。
『――みんな、待たせたね!星川 綺羅々だよ!』
ブースの中央で伊知花が完璧なステップを踏み、声を上げた。
その瞬間。
コンテナハウスの透は、血に染まったエンターキーをキーボードが砕けるほどの力で叩き込んだ。
「切り離せ!!」
透の狂気じみたコマンドが光回線を走り、大学の深層計算層を突き抜け、スタジオのエッジサーバーへと到達した。
分離パッチが実行され、システムが伊知花から『星川 綺羅々』の定義を剥奪しようとした、まさにその時。
コンソールに、無機質な赤い文字が、画面を埋め尽くすように滝のように流れ出した。
『OverrideDenied』
『OverrideDenied』
『OverrideDenied』
――上書き拒否
「なッ⋯⋯なんだと!?」
システムが透のパッチを拒絶した。
数百万人の「星川 綺羅々はそこにいる」という圧倒的な情報質量が、透の管理者権限すらも紙屑のように握り潰したのだ。
宇宙そのものが、一人のエンジニアの傲慢な修正パッチを「不正なバグ」とみなし、星川 綺羅々の顕現を「正常な現実」として選択した。
その矛盾した二つの命令が激突した瞬間。
世界を構成する演算エンジンは、ついに致命的な論理破綻を起こした。
「ああああああっ!!」
スタジオのコントロールルームで、矢部と篠崎が絶叫する。
モニターのガラスが内側からの圧力に耐えかねたように次々とひび割れ、トラフィックを示すグラフは上限を突き破って真っ黒に染まった。
「嘘でしょ⋯⋯綺羅々ちゃん、体が⋯⋯!」
ブースの外で早苗と鈴音が悲鳴を上げる。
踊っていた伊知花の輪郭が突如として激しくブレ始めた。現実の伊知花の肉体がデジタルノイズのように四角いブロックノイズ、ポリゴンの欠片となって空間にボロボロと崩れ落ちていく。
スタジオ内のマイクスタンドが重力を失って宙に浮き、割れた照明のガラス片が空中で静止したままキラキラと輝いている。
同じ現象が、コンテナハウスにも襲いかかっていた。
「伊知花⋯ッ!動け、動けよポンコツシステム!!」
透がキーボードを乱打した瞬間、コンテナハウスの分厚い鉄の壁が、見えない巨大な手に握り潰されたように「メシャァッ」と内側へとひしゃげた。
強烈な重力異常。床が天井になり、時間が、空間が粘土のように引き伸ばされていく。
『負荷が臨界点を超えれば、世界はその場所を存在しないものとして切り捨てるだろう』
丹羽教授の言葉が透の崩壊していく意識の底で反響した。
モニターの光が消える。
サーバーの爆音が消える。
そして透の視界の端から、現実の景色が「黒い虚無」へと塗り潰されていく。
これが情報の質量が現実を圧し潰した果てに生まれる、絶対の境界線。
――『事象の地平面』。
「いやだ⋯⋯俺が、俺が作ったんだぞ⋯⋯俺の妹を、返せ⋯ッ!」
透が最後に見たのは、ポリゴンとなって崩壊していく自分の血まみれの手と、すべてを飲み込む深い底無しの闇だけだった。
星川 綺羅々という完璧な偶像を生み出した代償として、世界は今、致命的なクラッシュを引き起こし、深い沈黙へと落ちていった。
第一章 完です。




