14 不気味な凪と、剥がれ落ちる人間性
大型コラボライブ当日、午後6時。
配信開始を2時間後に控えた『流れ星スタジオ』のコントロールルームは、拍子抜けするほどの、いや、鼓膜が痛くなるほどの「無音の張り詰め」に支配されていた。
数十台のサーバーラックが唸りを上げているはずなのに、その排熱音すら遠くの波音のようにくぐもって聞こえる。
矢部 良太は、メインモニターに表示されたトラフィックグラフを見上げ、幽鬼のような顔で固まっていた。
「信じられない⋯⋯。エッジサーバーの負荷が完全にフラットです」
昨日までテスト接続だけで異常なスパイクを描き、未来からの逆流パケットで真っ赤に染まっていたログ画面が、今は嘘のように澄み切った青色を保っている。同期遅延は驚異の0.1ミリ秒で固定され、微塵の揺らぎもない。
それは「安定」などという生易しいものではなかった。嵐の前の静けさというより、巨大な肉食獣が獲物を丸呑みする直前、大きく息を吸い込んで『停止』しているような、暴力的なまでの凪だった。
「宇園チーフとはまだ連絡がつかないの?」
腕を組んで背後に立つチーフマネージャーの風河 薫が苛立ちを隠さずに問う。
「はい。スマホもチャットも応答がありません。大学の深層計算層へのバイパスは最大帯域で開いたままなので、チーフがあのコンテナハウスでマスターノードを操作しているのは間違いないんですが⋯⋯」
篠崎が、自分の震える両手を両膝に押し付けながら答えた。
「風河さん、この安定は異常です。まるでシステム全体がこれから来る数百万人のトラフィックを『AIが完全に予測して準備を終えている』ような、これ以上は人間の扱うインフラじゃありません!」
「結果オーライです。宇園さんが徹夜で完璧な環境を構築してくれたんでしょう」
風河は篠崎の怯えを冷酷に切り捨て、バインダーを閉じた。
「配信の準備を進めてください。今日は絶対に失敗が許されない日です」
風河のヒールが床を叩く音が、コントロールルームに異様に響く。システムが安定している。その事実がかえってエンジニアたちの首を真綿で絞め上げていることなど、現場の最高責任者には届かなかった。
同じ頃、タレント専用の控室。
「おはようございます。早苗さん、鈴音先輩」
トラッキングスーツに着替えた伊知花が、静かにドアを開けて入ってきた。
その顔には昨日までの血走ったような焦燥感や、兄に対する病的な執着は見られなかった。ひどく穏やかで透き通るような表情だった。
「あ、おはよう、伊知花ちゃん。今日はよろしくね」
早苗が笑顔で振り返る。ソファの隅で膝を抱えていた鈴音も、ビクッと肩を震わせながら顔を上げた。
「⋯⋯おはよう、伊知花ちゃん」
いつものように「綺羅々ちゃん」と呼ばない鈴音の挨拶に、伊知花は鈴音を見てふわりと微笑んだ。
「うん。よろしくね、ねこねちゃん」
その瞬間、早苗の背筋がゾワリと悪寒が走った。
伊知花の笑顔が、あまりにも『完璧』すぎたのだ。
人間の表情筋が作る、微細な歪みや非対称性が一切ない。左右の口角がミリ単位で同じ角度に上がり、瞬きの速度すらコンマ数秒の狂いもなく一定のインターバルを刻んでいる。まばたきをするたびに彼女の瞳孔の奥で、無機質なリング状の光がチカチカと瞬いているように錯覚する。
それは、画面の向こう側で数百万人に愛されるアイドル『星川 綺羅々』の待機モーションそのものだった。
「⋯⋯綺羅々、ちゃん⋯⋯?」
鈴音もその違和感に気づき、ソファの背もたれに張り付くように後ずさる。
伊知花はそれに答えることなく、ただ鏡の前に座り自分の顔をじっと見つめ始めた。
配信までのカウントダウンが減るにつれて、彼女から「宇園 伊知花」という17歳の少女の人間性が、古い皮膚のようにボロボロと剥がれ落ちていく。
控室の空気が、じっとりと重くなった。
壁掛け時計の秒針が、カチ、カチ、と鳴るたびに部屋の気圧が下がっていく。鈴音は自分の喉をかきむしりたくなった。隣に座っているのはもう人間ではない。数百万人の狂信的な祈りが泥のように固まってできた、恐ろしい『虚像の抜け殻』だ。




