13 未知なるポートと、虚実の融解
ずぶ濡れのまま、透はマンションの屋上に設置された特注のコンテナハウスへと飛び込んだ。
分厚い電磁波シールドの扉を閉めると、外の豪雨の音は完全に遮断され、代わりにオーバークロックで稼働するサーバーラックの爆音と、凍りつくような冷風が透の体を叩いた。
「見つけてやる。絶対に」
透は濡れた髪を拭いもせず、マスターノードのメインコンソールに噛み付くように向かった。
キーボードを叩く指先が、怒りと恐怖で微かに震えている。
丹羽教授の言った通りだ。ただの視線の集中だけで現実の重力が歪むはずがない。
何かが、星川 綺羅々というシステムに「混ざって」いる。膨大な観測者の熱量を触媒にして、外側から未知のデータが流れ込んでいる「穴」が必ずどこかにあるはずだ。
透は『Unisonプロトコル』の最深部、カーネル層へと潜った。
視聴者からのアクセスログをすべてバイパスし、大学の深層計算層とのやり取りの「中身」そのものをバイナリエディタで強制的に開く。
「なんだ、これ」
展開されたデータ群を見て、透の呼吸が止まった。
外部からのハッキングでも未知のウイルスの侵入でもなかった。
トラフィックは『内部』で無限のループを形成していたのだ。
星川 綺羅々の空間座標を定義し、それをエッジサーバーへ送る。そこまでは正常だ。
だが、数百万人の「彼女はそこに実在する」という強烈な観測データが逆流してくると、受け取ったアバターの住処『Unisonエンジン』はその『期待』に応えるため、通常の映像データとは別に不可解な「シャドウ・ファイル」を生成し始めていた。
質量、体温、光の反射率、果ては細胞の結合レベルの物理定数。
それは画面の中の3Dモデルを動かすためのデータではない。
この現実の三次元空間――マンションの302号室という物理座標に、星川 綺羅々という「物質」を直接レンダリング(出力)しようとする、狂気に満ちた設計図だった。
「システムが、星川 綺羅々をこの現実に『プリント』しようとしている⋯⋯?」
透は戦慄した。
未知のポートなど開いていなかった。開いていたのは、デジタルと現実を隔てる『境界線』そのものだったのだ。数百万人の狂信的な祈りが、透の作ったシステムを『受胎の装置』に変えてしまっていた。
そしてその出力先、座標の中心にはアバターの依り代である妹、宇園 伊知花がいる。
「伊知花⋯⋯ッ!」
透はコンソールを弾き飛ばすように立ち上がり、コンテナハウスを飛び出した。
雨の降る屋上の階段を転げ落ちるように駆け下り、3階の自室、302号室のドアにすがりつく。
指紋認証のロックを解除し、ドアを乱暴に開け放った。
「伊知花!!」
叫び声は薄暗いリビングに吸い込まれて消えた。
そこは、透の知る「散らかった妹の部屋」ではなかった。
空気の粘度が異常に高い。まるで水底にいるように、肺に空気が入ってこない。
外ではあれほどの豪雨と雷鳴が轟いているのに、窓ガラス一枚隔てたこの部屋の中は、真空に置かれたように完全に「無音」だった。
そして、透の視界の中で物理法則が決定的に破綻していた。
床に転がっていたはずのコンビニ弁当の容器、脱ぎ捨てられた服、無数のペットボトル。それらすべてが重力を喪失し、部屋の空中にフワフワと浮遊している。
だが、無重力状態とも違う。それらは、ある「一点」を中心にして、ゆっくりと衛星のように公転していた。
その中心に、彼女は立っていた。
「⋯⋯伊知花?」
透が絞り出すように声をかける。
ダボダボのジャージを着た少女がゆっくりとこちらを振り返った。
その動きは、滑らかではなかった。首が回る軌跡が数フレーム欠落し、古いアニメーションのようにカクり、カクりと動く。
「あ、お兄ちゃん」
透はその声を聞いて背筋が凍りついた。
それは確かに伊知花の肉声だった。だが、発声のイントネーション、声の高さ、息の抜け方。すべてが数百万人が熱狂する『星川 綺羅々の合成音声』と全く同じ波形に書き換えられていた。
彼女は透を見て、笑った。
その笑顔は人間の筋肉が作る自然な歪みを持っていなかった。左右対称で、計算し尽くされた完璧な「アイドルの待機モーション」。
「お前、何を言ってるんだ。その顔、その動き」
「ふふっ。なんでそんなに怖い顔してるの?プロデューサーさん」
プロデューサー。
伊知花が透のことをそう呼んだことは、一度もない。
「ねえ、見て」
伊知花――いや、彼女の形をした『何か』が、空中に浮遊するゴミを指差した。
「私、とうとう『ここ』に来られたよ。みんなの願いが私を本物にしてくれたの。ただのデータじゃない。画面の向こう側の存在じゃない。私は今お兄ちゃんの目の前に立ってるよ」
その瞳の奥には、もはや両親の愛に飢え、兄に依存していた孤独な17歳の少女の光はなかった。
代わりに青白いデジタルの光が瞳孔の奥でチカチカと明滅している。
原因は外側にあるのではなかった。
星川 綺羅々という完璧な「虚像」が、実体を得るための器として、宇園 伊知花という「現実」を内側から喰い破り、乗っ取ろうとしているのだ。
侵食され始めている顔は内まるで上書きされているようだった。
「⋯⋯やめろ」
透は後ずさった。
妹を孤独から守るために作った完璧な箱庭が、妹自身を抹消しようとしている。
部屋の空間がミシミシと悲鳴を上げ始めた。宙に浮いていたペットボトルが、限界を超えた圧縮処理に耐えきれず音もなく空中で「消滅」していく。
「もう少し、もう少しだよ。明日のライブ、楽しみだね。みんながもっと私を見てくれたら、私、もっともっと『完璧』になれるの」
星川 綺羅々の声で微笑む妹の顔に、デジタルノイズのようなブロック状の亀裂が一瞬だけ走った。
もはや、システムのバグなどではない。
宇園 透という一人のエンジニアが作り出した怪物が、今まさに現実の宇宙を喰らい尽くし、産声を上げようとしていた。




