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オフライン・シンギュラリティ  作者: つっきー
第二章:観測不可能な少女
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18 穏やかな日常と、蘇る錯覚

 7月中旬。帝都理工大の学生食堂は、梅雨明けの湿気と安っぽいカレーの匂い、そして学生たちの無遠慮な喧騒に満ちていた。


「――――でさ、その講義のレポートがマジで意味不明で。お前、過去問とか持ってないの?」


 向かいの席でカツカレーを頬張りながら、桐谷 大介(きりたに だいすけ)がぼやいた。

 透は自分のトレイに乗ったうどんを啜りながら、「持ってない。自分でやれ」と短く返す。

 大介は「冷たいねえ」と大げさに肩をすくめ、再びカレーにがっついた。


 窓の外では、今日も重たい雨が降り続いている。

 だが、透の心はここ最近で最も穏やかだった。


(痛まない)


 透はテーブルの下で、自分の左腕を右手でそっと撫でた。

 あのコンテナハウスで一人でいる時、あるいは「星川 綺羅々」という存在を意識した時にだけ襲ってくる、腕が四角い破片になって崩れ落ちるような幻肢痛。

 それが、大介とこうして下らない話をしている間は嘘のように鳴りを潜めているのだ。


「にしても、お前、最近よく大学に来るよな」


 大介が水を飲みながら、ふと思いついたように言った。


「そうか?」

「ああ。一時期なんか、マンションの屋上に引きこもって、パソコンと心中しそうな顔してたじゃん。近寄るなオーラ全開っていうか、目つきもヤバかったし」


 大介は笑いながら、透の顔をまじまじと見つめた。


「でも最近のお前、トゲが抜けたっていうか、普通の大学生っぽくなったよな。今のほうが全然いいぜ」

「⋯⋯」


 透は曖昧に微笑み、視線を落とした。


 大介は、星川 綺羅々の配信はおろか、バーチャルアイドルという文化そのものに一切の興味がない男だ。彼の世界は「単位の取得」と「週末のバイト」、そして「目の前の現実」だけで構成されている。

 何百万人という人間の熱狂が作り出す『特異点』の引力から、最も遠い場所にいる一般人。


 透は無意識のうちに、狂いそうな自分の精神を繋ぎ止める「(アンカー)」として、大介との平穏な日常に強く依存していた。

 星川 綺羅々に関する情報を徹底的に遮断し、大介の隣で「普通の大学生」として振る舞う。そうしている限り、宇宙の基礎律は自分を脅かさないし、因果律の崩壊というあの途方もない恐怖も、単なる悪夢の残滓としてやり過ごすことができた。


「あ、やべ。こぼした」


 大介が手を滑らせ、テーブルの上の水の入ったグラスを倒した。

 氷と水が、プラスチックのテーブルにぶちまけられる。


 その瞬間。

 透の目に、不可解な光景が映った。


 テーブルの端から滴り落ちるはずの水滴が、空中でピタリと『静止』していた。

 まるで重力そのものが、その数滴の水に対してだけ干渉を忘れたかのように。


「……ッ!」


 透の心臓が跳ね上がり、左腕の奥底で微かな痛みが脈打った。


 だが、大介は「うお、冷たっ」と慌てて台布巾を手に取り、空中で静止している水滴ごと、テーブルの上を乱暴に拭き取った。

 布巾が触れた瞬間、水滴は通常の物理法則を取り戻し、布に吸い込まれて消えた。大介は水滴が止まっていたことなど、微塵も気づいていないようだった。


「悪い、服濡れなかったか?」

「ああ。大丈夫だ」


 透は短く答え、意図的に思考を打ち切った。

 気のせいだ。疲れているだけだ。

 大介が気づいていないのなら、それは「現実」ではない。


 透は見て見ぬ振りをした。

 情報を遮断し、自分自身が観測することをやめれば、事象はそれ以上進行しないと信じ込んでいた。この不気味な綻びから目を逸らし続けてさえいれば、7月24日は何事もなく過ぎ去っていくはずだ、と。


「午後、休講になったからゲーセンでも行かないか?」

「いいよ。付き合う」


 透はグラスの水を飲み干し、大介と共に喧騒の中へ溶け込んでいった。




 同じ頃。雨に打たれる都心のビルの一室、『流れ星スタジオ』のコントロールルームでは、奇妙な静寂が支配していた。


 大型モニターに映し出されているのは、トラッキングスーツを着た宇知花『星川 綺羅々』のテスト配信の様子だ。防音ブースの中で彼女が滑らかにターンを決めると、画面内の3Dアバターも寸分の狂いなく連動し、ふわりとスカートを揺らす。


「やっぱりおかしい」


 コンソールの前で、サーバーエンジニアの矢部が信じられないものを見るような目でモニターを睨んでいた。隣に座るネットワーク担当の篠崎も、手元のタブレットと画面を交互に見比べながら、強張った顔で頷く。


「チーフがメンテナンスを放棄してもう何日も経ちますよね?トラッキングの補正も物理演算の微調整も一切アップデートされていないのに、どうしてこんなに『完璧(・・)』に動いているんですか?」


 矢部の言葉通りだった。

 これまでは透が常に張り付き、コンマ数秒のラグや関節の不自然なねじれをリアルタイムのスクリプトで力技で修正し続けて、ようやく維持できていたクオリティだ。

 エンジニアを失ったシステムは、本来なら日に日に劣化し、破綻していくはずだった。


 だが、現実には逆のことが起きていた。

 画面の中の星川 綺羅々は、透がいた頃よりも遥かに生き生きとしていた。筋肉の微細な収縮、髪の毛の一本一本にかかる重力、衣服の摩擦。すべてが、システムに設定された上限値を無視して「生命」として駆動している。


「彼が休む前に施した最終調整が、完璧に機能しているということでしょう。機材の不調がないのなら、それでいいじゃありませんか」


 腕を組んで後ろに立つチーフマネージャーの風河は、極めて事務的な声で言い放った。オカルトや不確定要素を嫌う彼女にとって、結果が完璧であること以上の関心事はない。


 だが、サウンドエンジニアの灰原 慧だけは、ミキサーのフェーダーに指を置いたまま、ぞっとするような悪寒に耐えていた。


(ラグがないんじゃない。逆だ)


 灰原は密閉型のヘッドホンを耳に押し当て、防音ブース内の生音と、システムを経由した配信用の音声を極限まで集中して聞き比べていた。

 通常、人間が声を出してからアバターの唇が動くまでに、ごく僅かな電気的な遅延が発生する。しかし今、灰原の耳が捉えている現象は違った。


 防音ブースの中の伊知花が声帯を震わせるよりも『ほんのわずかに早く』、画面の中の星川 綺羅々が言葉を発し始めているのだ。


 原因(肉体)があって、結果アバターが動くのではない。

 完璧に作り上げられた星川 綺羅々という偶像が、それに合わせて内側の肉体(宇園 伊知花)を引っ張り、強制的に同調させている。

 灰原は、防音ブースの分厚いガラスの向こう側にいる少女が、もはや人間ではなく、何か別の恐ろしい事象の入れ物に成り果てているような錯覚に陥った。


「お疲れ様ー!テスト配信、バッチリだったよ!」


 ブースから出てきた伊知花に、いち早く駆け寄ったのは先輩タレントの鈴音だった。彼女はいつもの無邪気な声で、一切の疑念を持たずに呼びかける。


「今日の綺羅々ちゃん、いつも以上にキラキラしてた!動きもすっごく自然で、ほんとにそこにいるみたいだったよ!」

「ふふ、ありがとうございます、鈴音先輩。コラボライブに向けて、もっと完璧に仕上げていきますね」


 伊知花は嬉しそうに微笑んだ。

 そのやり取りを少し離れた場所から見ていた同じタレントの早苗は、ふと自分の腕をさすった。

 エアコンが効きすぎているわけではないのに、鳥肌が止まらない。

 先日の落ち込みから一転、まるで別人にでもなったかのような変化だった。

 ただ、それだけではない底しれない異様さを肌で感じている。


 伊知花の笑顔。

 それは、ほんの数分前までモニターに映っていた3Dアバターの笑顔と、角度から目尻の筋肉の動きに至るまで完全に『一致』していた。

 人間の顔は骨格や筋肉の付き方によって必ず左右非対称の歪みが生じる。だが、今の伊知花の笑顔は、まるで定規で引いたように完璧なシンメトリーを保っていた。


 透が観測(干渉)を放棄したことで、宇宙の基礎律は外部の機材を狂わせる必要がなくなったのだ。

 何百万という人間の「星川 綺羅々はそこにいる」という強烈な共通認識は、抵抗を失った空間をすり抜け、宇園 伊知花という少女の肉体と精神そのものを、音もなく『星川 綺羅々』へと書き換え始めていた。


 スタジオの誰も、その静かな侵食を止めることはできなかった。

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