第二章
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晴明は、まだ少しだけ夢を見ているような顔で李丁を見ていた。
本当にいる。
ちゃんと目の前にいる。
その事実を、見て、また見て、何度も確かめているのがわかる。
李丁はベッドの端に座ったまま、そんな兄の顔を見返した。
兄さんだと言われた。ほんとうにそうらしい。花丸も、いのりも、昌親も、そのことを当たり前みたいに受け入れている。だから嘘ではないのだろう。
でも、記憶はほとんどない。
二歳のころのことなんて、夢よりあいまいだ。
たまに夜の中で聞く声や、名前のないぬくもりみたいなものがあるだけで、それが誰だったのかはわからない。だから“兄さん”と聞いても、胸の奥が急にいっぱいになるようなことはなかった。
それでも――この人がこんなにうれしそうなら、それは少しうれしい。
そのくらいの、まだ小さな気持ちが李丁の中にはあった。
「……そこ、立ってるの、つかれない?」
気づいたら、そう聞いていた。
晴明は目を丸くした。
まさか最初にそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「えっ、あ、いや、全然、疲れないけど……」
「じゃあ、なんで立ってるの」
「……」
部屋の中が一瞬だけ静かになって、それからいのりが小さく笑った。
「たしかに、そうですねえ」
「座ったらどうですか、晴明くん」
花丸が言う。
「落ち着かないなら、なおさら」
「す、すみません……!」
晴明はようやく我に返ったように、部屋の隅にあった椅子へ慌てて腰を下ろした。
けれど座ったところで落ち着くわけではない。背筋は妙にぴんと伸び、膝の上の手はそわそわ動いている。嬉しさを抑えようとして、逆に全部顔に出てしまっている。
李丁はそんな様子を見て、少しだけ目をぱちぱちさせた。
児童院の子どもたちでも、もっと平気な顔をする子はいる。
この人は大人に近い年なのに、なんだか不思議なくらい隠せていない。
「晴明くん」
花丸が穏やかに声をかける。
「少しだけ、息を整えてください」
「は、はい」
「嬉しいのはわかりますが、李丁くんが驚いています」
「……はい、すみません……」
しゅん、とした返事だった。
さっきまであんなにうれしそうだったのに、今度は本気で反省している顔になる。感情が全部そのまま表へ出る人なのだと、李丁にもなんとなくわかった。
「べつに、いい」
李丁が小さく言うと、晴明はまた顔を上げた。
「え」
「……おこってない」
「……っ」
たったそれだけで、晴明の顔がまた明るくなる。
忙しい人だ、と李丁は思った。
花丸はそのやり取りを見ながら、心の中で小さく息をついた。
移送前に想像していたより、ずっと悪くない。
李丁は晴明を覚えていない。そこは記録どおりだった。だが、拒絶もしていない。兄という言葉を無理に受け入れようともしていない代わりに、今ここにいる人として見ている。その距離の取り方が、かえってこの子らしい気がした。
「李丁くん」
いのりが、ベッドのそばへ少しだけ身を寄せた。
「晴明くんは、ずっと李丁くんに会いたかったんですって」
「……うん」
「だから少しだけ、気持ちが大きくなってしまったんでしょうねえ」
「……おおきく」
李丁は晴明を見た。
たしかに“大きい”。声も顔も、うれしいが全部大きい。
晴明は慌てて首を振った。
「ご、ごめん。うるさかったよね」
「……ちょっと」
「ごめん……」
「でも」
「でも?」
「……ちょっとだけ、へんなだけ」
「へ、変……?」
晴明が傷ついた顔をして、いのりが口元を押さえて笑いを堪えた。
昌親も壁際で目を伏せたまま、ほんのわずかに肩を揺らしている。
「李丁くん」
花丸がやわらかく言う。
「そういう時は、“びっくりした”の方が、晴明くんの心には優しいかもしれません」
「……びっくりした」
「うん、それなら大丈夫……」
晴明は自分で言って、自分で少し笑った。
傷ついたのに、弟がちゃんと話してくれるだけで立ち直れるらしい。
李丁はその反応を見るうちに、胸の奥の緊張が少しだけほどけていくのを感じた。
この人はたぶん、自分に嫌われたくないのだ。
それがわかると、少し安心する。怖い大人はたいてい、自分が怖がられていることに気づいても平気な顔をする。でも晴明はそうじゃない。ちゃんと困る。
「……にいさんは、ここにいるの」
「うん、いる」
「ずっと?」
「えっと、勤務もあるけど……でも、本部にいる。宿舎もここ」
「……しゅくしゃ」
「そう。近いよ。すごく近い」
“すごく”に少し力がこもる。
晴明は距離の近さを強調したいらしい。
「会おうと思えば、会える」
「……いつでも?」
「いや、その、勤務中は無理だけど……でも今までよりずっと」
「ずっと?」
「うん。ずっと近い」
李丁はその言葉をゆっくり飲み込んだ。
兄さん。
近い。
いつでも、ではないけれど、今までよりずっと。
児童院では、会いたい人がいても会えるとは限らなかった。大人たちは忙しいし、面会には許可がいるし、そもそも来ない人もいる。だから“近い”というのは、それだけで特別なことに聞こえた。
「……そっか」
李丁が言うと、晴明はそれだけでまた少しうれしそうになった。
花丸は椅子を引いて、李丁から少し離れた位置に腰を下ろした。
座ることで、部屋の空気の緊張をさらに下げる。立ったまま見守られると、子どもはそれだけで監視されている感じを受けやすい。そういうところまで、この人は自然にやるのだと、いのりは横目で思う。
「晴明くん」
花丸が穏やかに呼ぶ。
「少しだけ、李丁くんにこの先のことを説明してあげてください」
「ぼ、ぼくが?」
「ええ。生活のことくらいなら、あなたの方が身近でしょう」
「は、はい……!」
任せられると、晴明はまた一気に緊張した顔になる。
うれしいのに緊張する。緊張するのにやりたい。その全部が見て取れて、花丸は内心で苦笑した。
「えっと……」
晴明は李丁の方へ身体を向けた。
「まず、この棟はすごく静かで、夜もそんなにうるさくない。食堂は別棟だけど遠くないし、困ったら療看室も近い。訓練場はちょっと離れてるけど……あ、でも李丁はまだ訓練とかじゃなくて、その、まず生活優先だから」
「……うん」
「部屋も、最初は物が少ないかもしれないけど、少しずつ増やせると思う。窓の外、夜になるとけっこうきれいで」
「……さっきも、きれいだった」
「でしょ! あ、でしょっていうか、うん、そうなんだ。あと、本も持ってこられると思うし、児童院にあるのと似たやつなら探せるかもしれない」
「……みどりの、ある?」
「みどりの?」
「くまの、えほん」
「……探す。探してみる」
その返答は、少し必死すぎるくらい必死だった。
李丁はそこまで強く頼んだつもりはないのに、晴明は“探してみる”ではなく“探す”に近い顔をしている。
「晴明くん」
花丸が静かに口を挟む。
「全部を一気に約束しない」
「……はい」
しゅんとする。
まただ。
李丁はその様子を見て、少しだけ口元をゆるめた。
笑ったというほど大きくはない。けれど、さっきより顔がやわらいだのは確かだった。
いのりはそれを見逃さなかった。
「李丁くん、晴明くんのこと、少しおもしろいと思っていませんか?」
「え」
「えっ」
晴明まで同時に声を出す。
李丁は急に言われて困った。
困ったけれど、否定するほどでもなかった。
「……ちょっと」
「そ、そうなんだ……」
晴明が妙にしょんぼりする。
「でも」
「でも?」
「……わるい、へんじゃない」
その言い方に、今度はいのりが吹き出しそうになって口元を押さえた。
「“悪い変じゃない”ですって」
「桜門さん」
花丸がたしなめる。
「すみません。……でも、良かったですねえ」
「よ、良かったのかな……」
「良かったんですよ」
昌親が珍しく短く口を挟んだ。
部屋の全員がそちらを見る。彼はいつも必要最低限しか話さない。
「少なくとも、嫌がられてはいない」
「……そっか」
晴明がほっとしたように息を吐く。
そのやり取りのあいだ、李丁はベッドの上で足をぶらぶらさせていた。
少しだけ落ち着いてきた証拠だった。児童院から連れてこられて、兄だという人が現れて、知らない大人たちが周りにいる。いつもならもっと固まっていてもおかしくない。けれど今は、怖いだけではない。
“兄がいる”。
そのことが、まだ言葉にならないまま、少しずつ胸に落ちてきている。
「……にいさん」
もう一度、李丁が呼ぶ。
晴明は今度こそ椅子から立ち上がりそうになったが、花丸の視線に気づいて踏みとどまった。
「な、なに?」
「……ほんとに、いる」
「いるよ」
「……そっか」
「うん。いる」
それは確認みたいな会話だった。
でも晴明には、その確認がたまらなくうれしいらしい。
「ずっと?」
李丁が聞く。
「……ずっと、は」
晴明は少しだけ言葉に詰まった。
「ずっと、ここに立ってるわけじゃないけど……」
「そうじゃなくて」
「え?」
「……いなくならない?」
部屋が静かになった。
その問いの重さを、六歳の李丁自身はまだ半分もわかっていないのかもしれない。
けれど、それを聞かれた晴明の顔からは、さっきまでの浮き立つような喜びが少しだけ引いた。代わりに出てきたのは、真面目で、まっすぐな顔だ。
「いなくならない」
今度の返事は早かった。
「仕事でその場にいないことはある。でも、いなくならない」
「……ほんと」
「ほんと」
晴明は、子どもに向けるみたいに曖昧な約束にはしなかった。
「会えない時間があっても、ここにいる。李丁が呼んだら、すぐ行けない時はあっても、ちゃんと来る」
「……」
「だから、いなくならない」
李丁はその言葉を黙って聞いていた。
記憶はない。
でも、その約束は少しだけ胸に残った。児童院の生活では、“また今度”とか“そのうち”とか、そういう曖昧な言葉に慣れていたからかもしれない。今の“いなくならない”は、子どもを安心させるための適当な言い方より、少し硬くて、ちゃんとして聞こえた。
「……うん」
李丁は小さく頷いた。
それを見て、花丸はようやく内心で一息ついた。
ここまでくれば大丈夫だろう。劇的に仲が戻るわけではない。涙の再会でもない。けれど、この兄弟にはたぶん、このくらいの温度がちょうどいい。
覚えていない弟。
覚えられていない兄。
その間にある細い糸が、今、ようやく結び直され始めたのだ。
♦︎
部屋の空気は、少しずつ落ち着いていった。
さっきまで晴明の喜びが大きすぎて、李丁の方がそれに押されているみたいだったのに、今はその熱がちゃんと部屋の中へ馴染んでいる。大きな声はなくなったし、誰も急に動かない。花丸が最初から作ろうとしていた“怖くない場所”に、ようやく近づいてきたのだと李丁にもなんとなくわかった。
李丁はベッドの端に座ったまま、足先を少しだけ内側へ寄せた。
知らない部屋。知らない大人。けれど、兄さんだという人がいて、その人は本当にここからいなくならないらしい。
まだ全部は信じきれない。
でも、さっきよりは少しだけ、胸の中が静かだった。
「李丁くん」
花丸が穏やかに声をかける。
「今日は長い朝でしたね」
「……ながい」
「ええ。児童院を出て、車に乗って、新しい場所まで来ましたから」
「……うん」
「疲れていて当然です」
その言い方は、李丁の中の“うまくできていない感じ”を、先回りして消してくれるみたいだった。疲れている。怖い。よくわからない。そういうものを全部、自分が悪いわけではない形にしてくれる。
いのりもやさしく頷く。
「少しお顔がぼんやりしてきましたねえ」
「……ぼんやり?」
「はい。たくさん頑張った時のお顔です」
「……」
「悪いことではないですよ」
李丁は自分の頬に手を当てた。
たしかに、頭の中が少しだけふわふわする。夢のあとみたいな変な感じではなくて、たくさん歩いて、たくさん知らないものを見たあとの疲れの感じだ。
「だから、今日は“兄さんがいた”だけ覚えておけば十分です」
花丸が言う。
「ほかのことは、明日でも、その次でも構いません」
「……きょう、ぜんぶじゃなくていいの」
「いいですよ」
「……」
李丁はしばらく黙って、それから小さく頷いた。
児童院でも“少しずつ”とは言われていた。
でも今の言い方は、それとは少し違った。
“今日ぜんぶわからなくていい”と言われると、本当に、今わからないままでいてもいい気がする。
晴明はその会話を聞きながら、何度も何度も口を開きかけては閉じていた。
話したいことは山ほどあるのだろう。四年間のこと、宿舎のこと、本部のこと、たぶん李丁が覚えていない昔のことも。けれど今の弟にそれを一気に流し込んではいけないことも、ちゃんとわかっている顔だった。
だから余計に我慢が顔に出ている。
「晴明くん」
花丸が、少しだけ苦笑を含んだ声で言った。
「何か一つだけにしてください」
「ひ、一つ……」
「今あなたの頭の中にあることを全部言うと、李丁くんが困ります」
「……はい」
晴明は真面目にうなずいた。
そして本気で考え始める。あまりに真剣に考え込むので、李丁は逆に少し気になった。
「……なに、いうの」
「え」
「いっこ」
「……」
晴明は少しの間だけ黙り、それから、拍子抜けするくらいまっすぐな声で言った。
「会えて、よかった」
部屋が静かになった。
大げさな歓迎のあとに来たその一言は、むしろ静かすぎるくらいだった。
けれど、だからこそ李丁にはよくわかった。
この人は、本当にそう思っている。
李丁はすぐには返事をしなかった。
どう返したらいいのか考えていたというより、その一言をそのまま受け取っていたのかもしれない。
「……うん」
やがて出たのは、それだけだった。
でも晴明には十分だったらしい。目元がまた少しだけあやしくなる。
いのりがやさしく笑う。
「よかったですねえ」
「はい……」
「今度は泣かないでくださいね」
「泣いてません」
「もう少しで泣きます」
「泣きません……たぶん」
たぶん、と付いた時点であやしい。
李丁はそれを聞いて、また少しだけ口元をゆるめた。
花丸はその小さな変化を見逃さなかった。
最初の硬さが、ずいぶんやわらいでいる。児童院を出たばかりの子どもにとって、これはかなり大きい前進だ。
「では、今日はここまでにしましょう」
花丸が区切るように言う。
「李丁くんは少し休んで、それから荷物を整えます。晴明くん」
「はいっ」
「あなたはあとで、改めて時間を取ります」
「……はい」
返事の勢いだけはいいのに、顔は少しだけ残念そうだった。
李丁はその表情を見て、なんとなく言った。
「……また、くる?」
「もちろん!」
今度は即答だった。
しかもまた少し声が大きい。
「……しずかに」
李丁が言う。
「ご、ごめん」
晴明は慌てて口元を押さえた。
部屋の大人たちの目元に、いっせいに笑いが滲む。
「また来ます」
晴明は今度こそ声を落として言い直した。
「ちゃんと来る」
「……うん」
李丁はそれに頷いた。
兄がいる。
まだよく知らない。顔も声も記憶にはない。
でも、また来るらしい。ちゃんと来ると言う。
その約束は、児童院を離れてからずっと足元のない感じだった李丁の心に、小さな板を一枚置いてくれたみたいだった。
いのりが立ち上がる。
「では、私はお茶の代わりに温かいものを持ってきますね。甘いミルクの方がいいでしょうか」
「……あまいの」
「ふふ。そうでしょうね」
「僕は外で記録を更新してきます」
昌親が言う。
「何かあればすぐ戻ります」
「お願いします」
花丸が応じる。
晴明も立ち上がったが、まだ名残惜しそうに李丁を見ていた。
その視線に気づいて、李丁は少しだけ考え、それから言った。
「……にいさん」
「うん?」
「……また、あとで」
「……うん」
晴明の返事は、今まででいちばん静かだった。
けれど、その静けさの中にある喜びは、最初に部屋へ飛び込んできた時よりずっと深いように見えた。
花丸は扉の前で立ち止まり、李丁を振り返る。
「李丁くん」
「……うん」
「今日は、よく頑張りましたね」
「……」
「だから、今は少しだけ休みましょう」
「……うん」
その返事は、今日の中でいちばん素直だったかもしれない。
晴明が最後にもう一度だけ李丁の方を見て、それから花丸たちと一緒に部屋を出る。
扉が閉まる直前まで、うれしそうな顔が消えていなかった。
部屋に一人残されて、李丁はベッドの上で膝を抱えた。
児童院じゃない。
知らない部屋。
知らない窓。
でも、ここには兄さんがいるらしい。
記憶はない。
だけど少しだけ、うれしい。
その“少し”は、六歳の李丁にとっては十分大きなものだった。
窓の外では、王都の光がまだ昼の明るさを抱えている。
知らない町の知らない建物の中で、李丁はようやくほんの少しだけ、自分がここにいてもいいのかもしれないと思いはじめていた。




