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大樹の実【仮】  作者: 常居嗣子
第一章 国家機密

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2/7

第一章《2》

♦︎


 特殊児童院の朝は早い。


 まだ日が高く昇りきる前から、建物のあちこちに小さな生活音が満ちていく。廊下を走る柔らかな靴音、遠くで鳴る食器の触れ合う音、年少の子どもをあやす保育員の穏やかな声、テレビ代わりの大型モニターから流れる朝の情報番組。窓の外では、よく手入れされた中庭の木々が風に揺れ、その葉擦れが硝子越しにかすかに聞こえていた。


 ここは、王都北東区にある特殊児童院。

 国家認定の保護施設であり、能力発現の兆候を持つ子、能力制御が不安定な子、家族の元では安全確保が難しい子どもたちが集められている場所だった。


 集められている、といえば聞こえは悪い。

 けれど少なくとも表向きには、この施設は明るく、整っていて、きちんとしていた。


 白を基調にした広い廊下。子どもの背丈に合わせて丸く作られた手すり。角のない家具。大きな窓。能力暴走に耐えるよう補強された壁と、天井近くに見えないよう埋め込まれた結界補助式。院内のどこを見ても“保護”のために作られていることがわかる。


 そして何より、子どもが多い。


 朝食前の共有スペースでは、すでに十人以上の子どもたちが思い思いに過ごしていた。絵本を広げる子、パズルを並べる子、眠そうな顔で椅子に座っている子、保育員の白衣の裾を掴んで離さない子。少し年上の子どもたちはもう自分で制服の襟を整え、決まった席についている。能力を持つ子どもが特別に珍しいわけではないという空気が、ここにははっきりあった。


 能力を持つ子が生まれる。

 その子の力が安定するまで、あるいは家で抱えきれない事情があるなら、児童院へ入る。

 王都では、それはもう、あまり声高に嘆かれるようなことではなかった。


 この世界は昔から、そういうふうにできている。


 もちろん、何もかもがきれいごとで回るわけではない。親と離されて泣く子もいれば、能力のせいで怖がられた記憶を抱えている子もいる。それでも、少なくともここは、泣き声も怯えも“異常”としてではなく、日々の暮らしの続きとして受け止められる場所だった。


 熨斗目李丁(しののめ りと)の部屋は、その共有スペースから二つ角を曲がった先にあった。


 個室群の一室。淡い色合いのカーテン、低いベッド、小さな机、窓際に置かれた観葉植物。安全管理上、物は多くない。けれど殺風景には見えないよう、壁には季節の飾りや、院の子どもたちが作った工作がいくつか留められていた。


 李丁は、まだ半分夢の中にいるような顔でベッドに座っていた。


 細い肩に薄い部屋着を掛けた姿は、六歳という年齢より少し幼く見える。髪は寝起きのままやわらかく乱れ、白い頬にはまだ眠気の名残が残っていた。目元はどこかぼんやりしていて、けれど完全に幼いだけではない、妙な静けさがある。


「李丁、起きてる?」


 明るい声とともに扉が開き、珊瑚蘭々が顔を覗かせた。


 特殊児童院院長。四十を越えているはずなのに、声にも表情にも不思議なくらい憂いがない。華やかというより、陽だまりのような人だった。ぱっと部屋へ光が入ってきたように見えるのは、たぶん彼女のせいだ。


「……うん」


 李丁は小さく返した。

 寝起きだからではない。もともと声量が大きい子ではないのだ。誰かの注意を引くより、邪魔にならないことを先に覚えた子の返事だった。


「偉いわあ、ちゃんと起きられたのね。昨日、ちょっと寝つき悪かったでしょう?」

「へいき」

「そう? でも、お顔はちょっとだけ、へいきじゃないみたい」


 珊瑚は部屋へ入り、李丁の前にしゃがみこんだ。

 背の高さを合わせて話すのは、この人の癖だ。子どもに向かって上から言わない。


「また夢、見たの?」

「……うん」

「こわい夢?」

「わかんない」


 李丁は小さく首を振った。


「こわいっていうより……へんなの。しらないおうちとか、しらないひとの声とか」

「そう」


 珊瑚はそれ以上、無理に聞き出さなかった。

 院の大人たちは、李丁の“夢”については慎重だった。話したがらない朝に追い立てると、その日一日がよくないことを、もう何度も見てきている。


「じゃあ、顔を洗って、少しだけ甘いミルクでも飲みましょうか。今日は大事な日だから」

「……だいじ?」


 その言い方に、李丁の指先がわずかにシーツを掴む。


 珊瑚はそれに気づいたが、あえてすぐには触れなかった。

 この子は怯えを見せるのが上手ではない。代わりに、指先やまばたきの回数に出る。


「うん。お迎えが来るの」

「……おむかえ」


「そう。今日から、少しだけ違う場所で暮らすことになるのよ」


 李丁はすぐには返事をしなかった。


 窓の外では、共有スペースから子どもたちの笑い声がひとつ上がり、それから誰かが注意される声が続いた。たぶんまた、走ってはいけない場所で走った子がいるのだろう。毎朝のようにある、いつものやり取りだった。


 その“いつも”が、今朝は急に遠くなる。


「ここじゃ、だめなの」


 やっと落ちた声は、とても小さかった。


 珊瑚の顔から笑みは消えなかったが、目だけが少しやわらかく沈んだ。


「だめっていうことじゃないの。李丁にとって、もっと良い場所を考えたのよ」

「……いいばしょ」


「そう。ちゃんと守ってくれる人がいて、これから先、李丁が大きくなるために必要なものが近くにある場所」


 それは嘘ではない。

 ただ、その言葉の全部が李丁にとって“良いこと”として届くとは限らない。


 李丁はうつむいたまま、細い足を床へ下ろした。


「みんなは」

「みんな?」

「ここにいる子たち」


 共有スペースの方から、今度は泣き声が聞こえた。小さな子が朝食のメニューで揉めているらしい。すぐに保育員がなだめる声が重なる。


「みんなは、ここにいるのに」

「うん」


「ぼく、いなくなるの」


 珊瑚は一度だけ、はっきり息をついた。

 前向きでいようと決めていても、こういう言葉にはやはり胸が痛む。


「いなくなる、じゃないわ」

「……」

「少し離れるだけ。会えなくなるわけじゃないし、ここが李丁のいた場所なのは変わらないもの」


 珊瑚はそっと李丁の寝癖のついた髪を撫でた。

 この子は泣きわめかない。むしろ泣けない方だ。だからこそ、大人が先に言葉を選ばなければならない。


「それにね、今日から行くところには、李丁がずっと会いたかった人がいるかもしれないわよ」

「……?」


 李丁が顔を上げる。

 まだ何も知らされていないのに、その言葉だけで目の奥に小さな灯が入るのが見えた。


 珊瑚はそこで、それ以上は言わなかった。

 正式に伝えていいことと、まだ預かっておくべきことの線は守らなければならない。


「まずは朝ごはんにしましょう。お迎えの前に、ちゃんと食べて、ちゃんとお着替えして、かっこよくしてあげたいもの」

「……うん」


 李丁はベッドを降りた。

 裸足のまま一歩踏み出し、それからふと思い出したように窓の外を見る。


 児童院の中庭では、すでに年少の子どもたちが数人、保育員に付き添われて散歩に出ていた。


 中には不器用に宙へ積み木を浮かせては、すぐ落として笑っている子もいる。少し離れたベンチでは、年上の子が教科端末を開いて静かに朝の学習をしていた。


 たくさんの子どもがいる。

 能力を持つ子も、持たない子も、そのあいだにいる子も。

 そしてこの施設では、それがごく自然な朝の景色になっていた。


 李丁はその光景をしばらく見つめてから、ぽつりと呟いた。


「……あさ、いつもとおなじ」


「そうよ」


 珊瑚はにっこり笑う。


「朝は、だいたいいつもと同じなの。大きいことがある日でもね」


 その明るさに、李丁はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「じゃあ、お顔を洗いましょうか」

「うん」

「今日はね、白いシャツにしましょう。あれ、李丁によく似合うもの」

「しろ、すき」

「知ってるわ」


 珊瑚は立ち上がり、洗面台の方へ先に歩いた。

 李丁もその後ろをついていく。


 廊下へ出ると、朝の賑わいはさらに近くなった。保育員が子どもの名前を呼ぶ声、食堂から漂ってくる温かいスープの匂い、遠くで誰かが「それぼくの!」と抗議する声。どれもここでは珍しくもない。特殊児童院では、こういう朝が毎日繰り返される。


 守られている。

 管理されている。

 大勢の子どもたちが、そうして当たり前のように暮らしている。


 李丁はその流れの中に紛れて、いつも通りの顔で洗面台の前へ立った。

 けれど鏡に映る自分の顔は、どこかだけ、いつもより少し白く見えた。


 今日が何の日なのか、まだうまくわからない。

 ただ、何かが変わるのだということだけはわかる。


 珊瑚はそんな李丁の横顔を見つめ、胸の奥で小さく祈るように息をついた。


 どうか、優しい移動でありますように。

 どうか、この子が“移される”のではなく、“迎えられる”のだと思えますように。


 その願いは声にはしなかった。

 言葉にしてしまうと、かえって不安が形を持ちそうだったからだ。


 窓の外では、王都の朝の光がさらに強くなっていく。

 この街は豊かで、整っていて、きれいだ。

 そのきれいな街の一角で、たくさんの子どもたちが今日もまた当たり前のように守られている。


♦︎


 朝食の時間が近づくにつれて、児童院の空気はもう一段だけにぎやかになった。


 食堂へ続く広い共有スペースには、各年齢の子どもたちが少しずつ集まり始めている。年少の子には保育員が付き添い、年長の子は自分でトレーを持って列に並ぶ。席はだいたい決まっているが、厳格ではない。泣いている子の隣に面倒見のいい子が自然に座ったり、能力の不安定な子を職員がさりげなく壁際へ誘導したり、そういう小さな采配が流れるように行われていた。


 李丁も珊瑚に連れられて食堂へ入る。


 入った途端、何人かの子どもがこちらを見た。

 珍しいわけではない。ただ、児童院では誰かがどこかへ移る日というのは、子どもたちの間でもなんとなく空気で伝わる。大人たちがいつもより少しよそいきの顔をして、着替えがきちんとして、保育員の声が少しだけ明るくなるからだ。


「李丁、おはよー」


 先に席についていた年上の女の子が、スプーンを振って声をかけてくる。頬に薄い絆創膏が貼ってある。昨日、中庭で自分の能力に驚いて転んだ子だった。


「……おはよう」

「きょう、どっか行くんでしょ」

「こらこら、朝ごはんの前にそういうこと言わないの」


 近くにいた保育員が苦笑混じりにたしなめる。

 女の子は「だってほんとだもん」と口を尖らせたあと、すぐに「でもまた来る?」と聞き直した。


 李丁は少しだけ考えて、それから小さく首を傾げた。


「……わかんない」

「そっか」


 子ども同士の会話は、それで終わることも多い。

 わからないものは、わからないまま受け止める。児童院の子どもたちは、そのことに大人より慣れている気さえあった。


 珊瑚が李丁を席につかせる。

 今日の朝食は温野菜入りのスープ、やわらかいパン、白身魚の小さなソテー、果物を刻んだヨーグルト。見た目は家庭的というより施設食らしい整い方をしているが、味はちゃんとしている。児童院の食事は栄養管理が厳しいぶん、子どもたちが食べやすいよう細かな工夫がされていた。


「今日はパン、きれいに切れてる」

「ほんとだ」


 李丁の向かいに座った男の子が、妙なところに感心した声を出す。

 その子は食べ物を触れずに少しだけ浮かせられる能力を持っていて、気が散るとすぐにパンやスプーンがふわふわ浮いてしまう。今朝もトレーの端のフォークが一度だけ傾いたが、隣の保育員が「だいじょうぶよ」と笑っただけで、誰も騒がなかった。


 それがこの場所の日常だった。


 食べながら火花を散らす子はいない。

 泣き叫びながら椅子ごと浮く子も、今朝はいない。

 けれど何も起きないから平和なのではなく、何かが起きても受け止める仕組みがあるから、平和に見えるのだと花丸なら言うだろう。珊瑚はたぶん、どちらでもいいのよ、と笑うに違いない。


 李丁はパンをちぎり、スープに浸して、少しずつ口に運んだ。

 食べるのは遅い方だ。急かされると余計に喉を通らなくなることを、周囲の大人たちはみんな知っている。


「今日は静かですねえ」


 珊瑚の隣に立った若い保育員が、トレーポットを持ったまま小さく囁く。


「朝から誰かが天井に貼りついたり、食器棚が踊ったりしてもおかしくないのに」

「それを静かって呼ぶの、うちだけよねえ」

「もう慣れちゃいました」

「良いことだわ。子どもたちにとっては、そのくらいが普通なんですもの」


 珊瑚はそう言って笑った。

 けれどその言葉には、ただの明るさではない強い意思がある。この子たちは異常ではない。守るべき日常の側にいる。その考えが彼女の芯にあるのだ。


 食堂の窓は大きく、中庭の向こうに王都の一部が見えた。

 低層の児童院棟越しに、ガラス張りの行政ビルが朝の光を反射している。さらに遠くには商業区の高層棟、モノレールの高架、広告モニターを抱えた複合ビル。空はよく晴れていて、透明な青が建物の輪郭をいっそう鮮やかにしていた。


 王都は豊かだ。


 道路は整えられ、街路樹は剪定され、車は滑るように静かに走る。子ども向け施設も多く、保護制度も教育制度も形だけならよくできている。能力者対策だって、表向きには十分すぎるほどに整備されていた。


 だから、この児童院の子どもたちも、王都の人々にとっては“守られているはずの存在”だ。

 実際、児童院の壁の向こう側から見れば、ここは幸福な場所に見えるだろう。


 李丁も窓の向こうを見た。


「きょう、天気いいね」


 向かいの男の子が言う。


「うん」

「そと、まぶしい」

「……うん」


 李丁はもう一度答えた。

 まぶしい。確かにそうだった。いつも中庭の先までしか見ないから、今日は窓の外が妙に広く感じる。自分がこのあと、その“広い方”へ出るのだという実感は、まだうまく形にならなかった。


「李丁」


 珊瑚がやさしく声をかける。


「食べられそう?」

「たべる」

「えらいわ」


 褒められると、李丁は少しだけ困ったような顔になる。

 嬉しくないわけではない。けれど、どう返せばいいかわからないのだ。その様子がまだ幼くて、珊瑚は胸の奥がきゅっとするのを感じた。


「ごはんのあと、お洋服を着替えましょう。白いシャツと、紺のカーディガン。好きだったでしょう?」

「……うん」

「靴もきれいなのを出してあるの。王都の真ん中を通るんだもの、少しかっこよくしていかなくちゃね」

「王都の、まんなか」

「ええ。車に乗って行くから、いろいろ見えるわよ。お店も、駅も、大きなモニターも」


 李丁はスプーンを止めた。

 その横顔に、ほんのわずかな興味が灯る。子どもらしい反応だった。知らないものへの不安と、それでも見てみたい気持ち。珊瑚はそれを見逃さず、もう少し明るい話を重ねる。


「このあいだね、南商業区のモールに新しい水槽ができたの。壁一面、魚が泳ぐやつ」

「さかな」

「そう。青く光るのもいて、とってもきれいだったわ」

「……ほんと?」

「ほんとよ。今度見られるかもしれないわね」


 李丁は小さく頷いた。

 不安がなくなったわけではない。それでも、“迎えが来る日”が“知らないものを見に行く日”へほんの少しだけ変わる。


 食堂の奥で、年少の男の子が泣き出した。ヨーグルトの果物が自分の皿だけ少ないと訴えているらしい。保育員が慣れた手つきで追加を載せると、すぐ泣き止む。その隣では、別の子が「きょうは絵本読む日だよね」と職員へ確認していた。


 たくさんの子どもがいる。

 騒がしい。忙しい。けれど誰も、その多さを不自然だとは思っていない。


 李丁が最後のスープを飲み終えた頃、食堂の入口近くの認証灯が一度だけ青から白に変わった。


 来訪者認証。


 すぐに元へ戻ったその光は、子どもたちのほとんどには気づかれなかった。だが職員たちは一様に視線を上げる。珊瑚もまた、ほんの一瞬だけ背筋を伸ばした。


 時間どおりだ。


「ごちそうさまでした、できる?」

 珊瑚がやさしく促す。

「……ごちそうさまでした」


 李丁は手を合わせた。

 まわりの子たちの何人かもつられて「ごちそうさま」と声を重ねる。食堂の空気が少しだけ動いた。


「じゃあ、お部屋へ戻って、お着替えしましょう」

「うん」


 立ち上がった李丁は、ふいに食堂を振り返った。

 パンをこぼして保育員に拭かれている子。窓の近くでヨーグルトをかき混ぜ続けている子。自分に手を振る年上の女の子。いつもの朝と、ほとんど変わらない光景。


 それを少しだけ長く見つめてから、李丁は珊瑚について歩き出した。


 廊下へ出ると、ガラス越しに差し込む光が白い床へ細長く伸びている。

 中庭では、散歩をしていた子どもたちがそろそろ建物へ戻されるところだった。保育員の声も、遠くで鳴る電子チャイムも、全部いつもの朝の続きに聞こえる。


 けれど今日だけは、その“いつも”の向こうに、もう一枚別の時間が待っていた。


「李丁」


 部屋へ戻る途中、珊瑚が足をゆるめる。


「大丈夫?」

「……うん」

「うそ」

「……」


「うそついても怒らないわよ」

「……ちょっと、こわい」


 珊瑚はそこで、ようやく本音を聞けた気がした。

 しゃがみ込んで、李丁の目線まで下りる。


「そうよね。こわいわよね」

「しらないひと、くる」

「うん」

「しらないとこ、いく」

「うん」


 李丁は言葉を切りながら、それでもちゃんと口にした。

 それだけでも、この子には十分勇気がいる。


「でもね」


 珊瑚は笑った。

 いつもの明るさのまま、けれど嘘は混ぜずに。


「知らない人ばかりじゃないかもしれないわ」

「……?」

「そこは今、秘密。だけど、李丁にとって悪いことだけではないと思ってる」

「ほんと」

「ほんと」


 李丁はしばらく珊瑚の顔を見て、それから小さく頷いた。


 その時、廊下の奥で来訪ベルが鳴った。

 外からの正式入館。

 迎えが来たのだ。


 珊瑚はゆっくり立ち上がった。


「さあ、急がなくていいから、きちんとお着替えしましょう」

「……うん」


 李丁は返事をし、部屋の中へ入っていく。


 白いシャツ。紺のカーディガン。よそいきの靴。

 どれも子ども用のやさしい色と形なのに、今日はそれが“出発の服”に見える。


 珊瑚は扉の外に立ったまま、一瞬だけ目を閉じた。


 どうか、この子にとって、外の世界がただ怖いだけのものになりませんように。

 どうか、王都の明るさが、この子に少しでも味方してくれますように。


 その願いを胸の奥へ沈めてから、珊瑚は顔を上げる。

 院長として、送り出す側の顔をしなければならない。


 やがて扉が開き、着替え終えた李丁が出てきた。

 白いシャツは少し大きく見えたが、紺のカーディガンがよく似合っていた。


「まあ、素敵」

「……へんじゃない?」

「ぜんぜん。とてもかっこいいわ」


 珊瑚は本気でそう思って言った。

 李丁は少しだけ耳を赤くし、けれど嫌そうではなかった。


「じゃあ、行きましょうか」

「……うん」


 廊下の先では、児童院の自動扉がもう一度静かに開いた音がした。


 迎えの人たちが院内へ通されたと聞いても、食堂や共有スペースの空気が急に変わるわけではなかった。


 それが、この施設の長所でもあり、少しだけ残酷なところでもある。

 誰かに大きなことがあっても、朝は朝のまま進んでいく。小さな子は眠そうに目をこすり、年上の子は学習端末を抱えて教室代わりの区画へ向かう。保育員は転びかけた子を支え、看護職員は服薬確認の札をめくり、清掃担当の小型機が廊下の端を静かに磨いていく。


 李丁が部屋の前に立って靴の面ファスナーを留めているあいだにも、隣室からは「ぼく先に行く!」という元気な声が聞こえ、その次には「走らないで」の落ち着いた注意が重なった。


 日常は、誰かひとりの都合では止まらない。


 李丁はそれを知っている。

 自分が特別に大事にされていないという意味ではなく、むしろ逆だ。ここには大事にされるべき子どもがたくさんいる。だから誰か一人の不安だけを、いつまでも朝の真ん中に置いてはおけないのだ。


「きつくない?」

 珊瑚が膝を折って聞く。

「だいじょうぶ」

「歩けそう?」

「うん」


 李丁は答えてから、少しだけ視線を横へ流した。


 廊下の先、共有スペースの入口近くでは、年上の男の子が壁の掲示板に寄りかかってこちらを見ていた。能力制御訓練で何度か一緒になった子だ。名前を呼ぶほど親しいわけではない。けれど、何度も同じ施設で朝を迎えていれば、その顔はもう“知っている人”の中に入る。


「いってくるの?」


 ぶっきらぼうな聞き方だった。

 照れている時の子どもは、たいていこういう声になる。


 李丁は少し考えてから答える。


「……うん」

「ふうん」


 男の子はそれだけ言って、ポケットから飴玉を一つ取り出した。包装の赤い色が廊下の光の中で妙に目立つ。


「これ、やる」

「え」

「ぼく甘いのきらいだから」

「きのう食べてた」

「きらいじゃないけど、いらないだけ」


 李丁は受け取っていいのかわからず、珊瑚を見た。

 珊瑚はにこっと笑って頷く。


「ありがとうございます、って言える?」

「……ありがとう」

「べつに」


 男の子はそっぽを向いた。けれど耳だけは少し赤い。

 そのやり取りを、少し離れたところにいた年上の女の子が見ていて、ふっと笑った。


「李丁、いなくなるなら、あの本返してよ」

「……きょう?」

「うそ。いい。また今度で」

「また今度、あるの?」

「あるでしょ。ないと困るし」


 平然とそう言って、女の子は端末を抱え直す。

 その“あるでしょ”が何に対する確信なのか、李丁にはわからない。ただ、その言葉は少しだけ胸の奥に残った。


 児童院の子どもたちは別れに慣れている。

 家に戻る子もいれば、別の施設へ移る子もいる。


 突然いなくなる子も、泣いて戻ってくる子もいる。だからこそ彼らは、大人のように大げさに別れを扱わない。戻ってくるかもしれない、また会うかもしれない、その曖昧さごと抱えている。


 珊瑚はそんな子どもたちのやり取りを、少し離れたところから見守っていた。

 ありがたい、と思う。けれど同時に、胸の奥が締めつけられる。ここでの日常がちゃんと育っていた証拠だからこそ、そこからひとり引き抜くことの重みが際立つのだ。


「院長先生」


 若い保育員が足早に近づいてきた。

 表情は落ち着いているが、声が少しだけ硬い。


「来客認証、第二段階まで通りました。応接室にご案内しています」

「ありがとう。すぐ行くわ」

「はい。……李丁も、ご一緒に」

「ええ」


 保育員はそこで李丁へ視線を向け、気を遣うように少しだけしゃがんだ。


「かっこいいお洋服だね」

「……うん」

「よく似合ってる」


 そう言われても、李丁は返事に困ったようにまばたきをしただけだった。

 褒められるのが苦手なのだ。褒められ慣れていないというより、どう受け取っていいかわからない。


「じゃあ、行きましょうか」


 珊瑚がやさしく促す。

 李丁は飴玉をポケットへしまい、廊下を歩き出した。


 応接室までの道は長くない。けれど今日は、その短い距離のあちこちに、児童院の“いつも”が濃く見えた。


 学習室の前では、年長の子たちが午前の予定表を見上げている。

 小さな療養室の前では、能力反応が不安定な子が看護師に体温を測られていた。

 中庭へ続くガラス扉の向こうでは、保育員がボール遊び用の結界範囲を確かめている。


 そのどれもがよく管理され、よく整っている。

 王都は裕福だ。少なくとも王都の中心に近い場所へ来れば来るほど、その裕福さは目に見える形を取る。行政は清潔で、設備は新しく、子ども向けの保護制度にも予算が回っている。特殊児童院がこれだけ明るく、壊れず、整っているのも、王都が王都だからだ。


 李丁はガラス越しに見える中庭を見てから、その向こうにさらにうっすら見える高層棟の反射光へ目を向けた。


 遠い。

 でも、今日からはそちら側へ行くのだと、ようやく少しだけ現実味が出てきた。


「李丁」


 珊瑚が歩きながら、さりげなく声を落とす。


「怖かったら、ちゃんと怖いって言っていいのよ」

「……うん」

「いい子でいなきゃ、って思わなくていいの」

「……うん」

「でも、どうしても言えなかったら、私を見て。わかるようにするから」


 李丁はその言葉に、ほんの少しだけ強く頷いた。

 この人は、いつもそうだった。言えないことまで言わせようとはしない。その代わり、気づこうとしてくれる。


 応接室の手前で、珊瑚は一度足を止めた。


 白い壁、観葉植物、柔らかな照明。来客向けに整えられた静かな場所だ。


 李丁の手が、ほんの少しだけ自分の袖を掴むのを感じた。


「大丈夫」


 珊瑚はそう言って、扉の前で軽く身なりを整えた。


「最初から全部うまくしなくていいからね」

「……うん」

「ちゃんとご挨拶できたら、それだけで十分」

「……うん」


 それから珊瑚は、いつもの明るい笑顔を作る。

 院長としての顔。子どもたちを安心させる顔。送り出すための顔。


 扉を開ける直前、李丁はふいに後ろを振り返った。


 廊下の先には、さっきまでの児童院の朝が続いている。

 子どもたちの声。保育員の足音。窓に反射する光。どこにも異変はなく、今日もまた同じ一日が続いていくように見えた。


 その中から、自分だけが切り離される。


 その感覚が、李丁の胸に小さく引っかかった。


 珊瑚はそんな横顔を見て、心の中でだけ深く息をした。

 この子を手放したいわけではない。

 けれど、自分が抱えていられる範囲にも限りがある。ここより先へ渡さなければ届かない未来があることも、院長としては知っている。


 だから笑うのだ。

 子どもの前では、せめて前向きな顔で。


「さあ」


 珊瑚はやさしく言った。


「お迎えの方たちに会いましょう」


 扉が静かに開く。

 冷房の効いた部屋の空気が、少しだけ廊下へ流れ出る。


 李丁は小さく息を吸い、珊瑚と一緒にその部屋へ足を踏み入れた。


♦︎


 応接室の中は、廊下より少しだけ涼しかった。


 白い壁。低いテーブル。来客用のやわらかそうな椅子。

 それだけなら、児童院の他の部屋とそんなに変わらない。けれど李丁には、空気の違いがすぐわかった。ここは“いつもの人たち”の部屋ではない。きちんとしていて、静かで、何かを決める人たちの匂いがする。


 知らない大人が三人いた。


 一人は背の高い男の人。濃い色の服を着ていて、まっすぐ立っている。こわい顔ではない。怒っている感じもしない。でも、部屋に入った時に最初に目が行くのは、その人だった。


 もう一人は、やさしそうな女の人。服の色がやわらかくて、目が合った時にすぐ少し笑った。


 最後の一人は、黒い髪の男の人。あまり動かない。部屋のはしまできちんと見ているような顔をしていて、声を出さなくても“見られている”感じがした。でも、それが嫌な感じではない。


 李丁は扉のところで止まってしまった。


 珊瑚の服のすそを、指が少しだけつかむ。

 自分でそうしたあと、ちょっとだけ恥ずかしくなった。でも離せなかった。


「お待たせしました」


 珊瑚の声は明るかった。

 いつもと同じ、みんなに向ける声。けれど李丁には、その明るさの下にちいさなかたさがあるのがなんとなくわかった。


「こちらが、熨斗目李丁です」


 自分の名前が出ると、それだけで胸の奥が少しだけぎゅっとなる。

 大人たちがみんな自分を見る。悪いことをしたわけではないのに、そういう時はいつも少しだけ息がしにくい。


 けれど、いちばん背の高い男の人は、すぐにしゃがんだ。


 急に近づいてこない。上から見おろさない。李丁と同じくらいの高さまで下りて、それから、ゆっくり口を開く。


「はじめまして。花丸文弥といいます」


 声は思っていたより、ずっとやさしかった。


 大きい人なのに、声が強くない。

 それが少しふしぎで、李丁はつい顔を上げた。


「今日は、お迎えに来ました」


 おむかえ。

 さっきから何度も聞いている言葉だ。けれど、その人の口から聞くと、少しだけ意味が変わる。連れていかれる、ではなくて、“迎えに来た”と言われると、ほんのすこしだけ怖さが薄くなる。


 でも、まだ知らない人だ。


 李丁はすぐに返事ができなくて、珊瑚を見た。

 珊瑚がにこっと頷く。


「ご挨拶、できそう?」

「……はじめまして」


 小さな声で言うと、花丸はちゃんと聞こえたみたいに頷いた。


「ありがとうございます。言えてえらいですね」


 えらい。

 またそう言われた。

 李丁はどう返したらいいかわからなくて、口を閉じたまま少しだけまばたきをした。


 すると、やわらかそうな女の人も、少し前に出てきた。


「桜門いのりと申します。李丁、どうぞよろしくお願いいたしますね」


 言葉がきれいだった。

 児童院の先生たちもやさしいけれど、この人はもう少しゆっくりで、あたたかい毛布みたいな話し方をする。


「今日は、少しだけ長い移動になりますから、気分が悪くなったらすぐ教えてくださいね」


 気分が悪くなったら。

 そう言われて、李丁は自分の胸のあたりを思い出した。まだ何も起きていないのに、今朝からずっと、そこが落ち着かない。変な夢のあとみたいな、変な感じが少し残っている。


 でも、今それを言うほどではない気もした。

 李丁が黙っていると、いのりは困らせるように待たなかった。ただ微笑んだまま、李丁がうなずくのを待ってくれた。


「……うん」

「はい。ありがとうございます」


 それから黒い髪の男の人が、静かに頭を下げた。


「結竹昌親です」


 それだけだった。

 短い。けれど、その人は短くてもちゃんと“怖くないように”言っているのがわかった。李丁にはそれが少しうれしかった。


 部屋の中は静かだった。


 児童院の大人たちは、もっとよく笑う。

 子どもたちも、すぐ話しかけてくる。

 でもこの人たちは、違う。静かで、きちんとしていて、何かをまちがえないようにしている感じがする。


 李丁は、そういう空気が少し苦手だった。

 自分まで何かをまちがえそうになるから。


「李丁」


 花丸が、またやさしく声をかける。


「急がなくて大丈夫ですからね。今日はまず、一緒に車に乗って、新しい場所まで行きます」

「……あたらしい、ばしょ」

「はい。今より少し広くて、李丁が落ち着けるように準備してあるところです」


 広い。

 その言葉で、さっき窓の外に見えた王都を思い出す。高い建物。光るガラス。遠い道路。魚の水槽の話も頭に残っている。


 少し、見てみたい気もする。

 でも、それより大きいのは、ここを出るこわさだった。


「……ここ、じゃないの」


 気づいたら、そう聞いていた。

 珊瑚が横で少しだけ目を伏せる。花丸はすぐには答えなかった。考えてから、李丁にわかる言葉を探しているみたいだった。


「ここも、李丁の大事な場所です」

「……」

「だから、なくなるわけじゃありません」

「でも、いなくなる」

「そうですね。今日はここから移ります」


 やさしい言い方なのに、ごまかさない。

 それが李丁には少しだけ意外だった。大人は、ときどき、こわいことをこわくないみたいに言う。けれどこの人は、移ることを移るって言った。


「だけど」


 花丸は続けた。


「李丁にとって良いようにしたくて、みんなで考えて決めました。いきなり全部好きになれなくても大丈夫です」

「……」

「嫌だったら、嫌だって思っていいですよ」

「……いいの」

「いいですよ」


 その言い方は、ほんとうみたいに聞こえた。


 李丁は少しだけ、花丸の顔をちゃんと見た。

 強そうな人だ。けれど怒っていない。


 今は、自分を怖がらせないようにしているのがわかった。


 珊瑚がそこで、空気をやわらげるみたいに明るく言う。


「李丁、持っていくもの、もう一回確認しましょうか」

「……うん」

「絵本は二冊だけにするんだったわね」

「みどりのと、くまの」

「そうそう。ちゃんと入ってるわ」


 その会話で、少しだけいつもの朝に戻る。

 李丁は小さな鞄のことを思い出した。絵本二冊。着替え。小さなぬいぐるみ。ポケットに飴玉。たくさんは持っていけないけれど、“自分のもの”がまったくないわけではない。


「他に、持っていきたいものはありますか」


 いのりがやわらかく聞いた。


 李丁は部屋の中を見まわした。

 白い壁。机。ベッド。窓。

 ここにあるものの多くは、自分のもののようで、自分だけのものではない。


「……ない」

「そうですか」


 いのりは残念そうにもしなかった。ただ、その返事を大切なものみたいに受け取ってくれた。


 李丁はそこでようやく、今日のことが少しだけ本当になってきた気がした。

 この人たちは、すぐには帰らない。自分を本当に連れていくのだ。


 部屋の外から、遠くで子どもが笑う声がした。

 知っている声かもしれないし、知らない声かもしれない。児童院にはいつもたくさん子どもがいるから、全部の声は覚えられない。でも、毎日聞いている音だ。


 その音が、今日は少し遠い。


「院長先生」


 昌親が、静かに珊瑚へ声をかけた。


「出発前に、最終の通過確認を」

「ええ。お願いします」


 李丁には、何を確認しているのか詳しくはわからない。

 ただ、“出発前”という言葉だけがはっきり耳に残る。


 もうすぐだ。


 花丸が立ち上がる。大きく見える。

 李丁もつられて少し背筋を伸ばした。


「では、李丁」


 その声は、最初よりほんの少しだけやわらかかった。


「行きましょうか」


 李丁は、すぐにはうなずけなかった。


 こわい。

 でも、ここでいやだと言っても、たぶん今日は行くのだ。

 それがわかるくらいには、六歳でも空気は読める。


 だから李丁は、珊瑚を見て、それから花丸を見て、最後にもう一度だけ部屋の中を見た。


 ベッドの端。机の上。窓の外の中庭。

 毎日見ていたもの。


「……うん」


 やっと、返事が出た。


 その小さな一言で、部屋の中の大人たちが少しだけ息をついたのがわかった。

 みんな、李丁より先に緊張していたのかもしれないと、その時だけ思った。


 珊瑚が微笑む。


「えらいわ」

「……えらくなくていい」

「そうね。じゃあ、ありがとうにする」

「……うん」


 李丁は小さく頷いた。


 それから、自分の鞄を抱えて、一歩だけ前へ出た。



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