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大樹の実【仮】  作者: 常居嗣子
第一章 国家機密

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1/7

第一章《1》

♦︎


 夕暮れの訓練場には、まだ陽のぬくもりが薄く残っていた。


 日が傾くほど静けさを増していく。人の出入りは絶えないのに、騒がしさだけがきれいに削ぎ落とされているのは、ここに集う者たちがみな、私情より先に役目を知っているからだろう。踏み締められた砂、磨かれた石床、連なる棟をつなぐ渡り廊下。赤く染まりかけた空の下で、それらはどこまでも整いすぎていて、かえって息苦しいほどだった。


 能力犯罪や特殊災害に対応する国家直属部隊――テリオスの本拠地は、王都中央区の外れ、防衛庁舎群に隣接する区画にある。高い金網と認証ゲートに囲まれた敷地の中には、訓練棟、管理棟、療看棟、宿舎棟が整然と並び、そのどれもが飾り気なく白く硬い。


 花丸文弥(はなまる ふみや)は、最後の報告書に目を通し終えると、几帳面に端を揃えて机上へ置いた。


「では、もう一度。一般人の巻き込みはゼロ。拘束対象は三名。負傷者は隊内二名で、どちらも軽傷。ここまでは合っていますか?」


 叱るのではなく、確認するような声だった。低く落ち着いていて、急かす響きがない。


 報告している若い隊員は、明らかに緊張していた。端末を持つ手が少し震え、うまく言葉が繋がっていない。


「は、はいっ。えっと、拘束対象のうち一名が能力抑制具を外そうとして、でも、その、結局――」

「大丈夫です。落ち着いて。順番に話してください」


 花丸はそう言って、ほんの少しだけ表情を和らげた。


「まず制圧の流れ。それから対象の抵抗。最後に回収した物証。そこまで聞かせてください」


 それだけで、隊員の肩から少し力が抜ける。


「……はい。制圧は予定どおりです。対象一名が発火系の補助能力を使いましたが、すぐに桜門さんが鎮静、結竹さんが遮断。そのあと隊長の指示で全員確保しました。物証は刃物二本、違法増幅薬のアンプル三本、記録媒体一つです」

「ありがとうございます。よくまとめてくれました」


 花丸は端末を受け取り、内容を確認して頷いた。


「初動も悪くありませんでした。焦るのは仕方ありません。次は、焦ったままでも手が動くようにしましょう」

「……はいっ」


 若い隊員の顔が、叱責を免れた安堵でわずかに赤くなる。花丸はそれ以上何も言わず、次の担当へ視線を移した。必要以上に甘やかす気はない。だが萎縮させても意味がない。現場では、怯えた手より、落ち着いた手の方が人を救う。


「花丸隊長」


 やわらかな声が後ろからかかった。振り向けば、桜門(さくらもん)いのりが療看棟の方からこちらへ歩いてくる。淡い色の制服に白衣を羽織った姿は、この無機質な施設の中では妙に人らしい温度を持って見えた。


「負傷者の処置、終わりました。お二人とも大丈夫ですよ。少し休めば、明日の訓練にも出られそうです」

「ありがとうございます。助かります」


 花丸が礼を言うと、いのりはふわりと微笑んだ。


「拘束された方たちも落ち着いていらっしゃいます。……一人だけ、最後まですごい目で睨んでいらっしゃいましたけど」

「元気なら何よりです。睨む元気があるなら、監察の聴取にも耐えられるでしょう」

「まあ……隊長らしいお返事ですね」


 いのりは口元に手を添えて小さく笑った。おっとりした物腰はいつもどおりだが、その目はよく周囲を見ている。彼女は優しいだけの人間ではない。誰かを助けるためなら、必要な時に必要なだけ冷静になれる強さがある。


「皆さん、少しお疲れです」

「そうですね。今日は細かい出動が重なりましたから」

「でしたら、ちゃんと休ませてあげてくださいね」

「ええ。そのつもりです」


 その時、訓練棟の脇から結竹昌親(ゆたけ まさちか)が戻ってきた。端正な顔立ちの青年で、黒髪は乱れが少なく、歩き方まで妙にきちんとしている。結界を扱う者らしく、近くに来ると空気が一段静まる気がした。


「外周の確認、終わりました」

「異常はありましたか?」

「大きなものはありません。ただ……南側の結界網に一か所、感知の薄い部分がありました」


 花丸の目が細くなる。


「故障ではなく?」

「たぶん違います。壊れているというより、向こうから触れられた痕跡に近いです。浅いですけど」

「わかりました。記録は」

「もう上げています。今夜、僕の方でもう一度見ます」

「お願いします」


 昌親は静かに頷いた。受け答えに誇張がない。だが、その真面目さの底には、人を守ろうとする意思がはっきりある。結竹家の人間らしい、と花丸は思う。


「隊長!」


 今度は少し慌てた声だった。振り向くと、菱葉々晴明(ひしばば せいめい)が訓練棟の裏手から早足で近づいてくる。細身で、整った顔立ちにどこか神経質な影がある。まだ十七歳の少年だ。能力捜査官としては優秀だが、場数の不足は隠しきれない。


 晴明は花丸の前まで来ると、慌てて姿勢を正した。


「すみません、お待たせしました。南第三ブロックの追加聞き取り、終わりました」

「慌てなくて大丈夫ですよ。結果を聞かせてください」

「は、はい」


 晴明は一度息を整えた。


「通報者と目撃者、計六名に確認しました。犯人たちと接触した外部の人物がいたらしいんですが、全員、顔はうまく思い出せないと……ただ、嫌な感じだけが残るって」

「嫌な感じ、ですか」

「はい。ぼくの感知でも、少しだけ引っかかりました。悪意そのものは薄いのに、意図だけあるみたいな……上手く言えなくて、すみません」

「いえ、十分です。ありがとうございます」


 花丸はそこで晴明を責めなかった。晴明はまだ、報告を短く正確に切り出すことに慣れていない。


 言葉を探して焦る癖がある。だが、拾ってくる感覚そのものは鋭い。


 昌親が横から静かに言う。


「南側の薄さと重なるかもしれませんね」

「そうですね。無視しない方がいいでしょう」


 花丸は二人の顔を見比べた。


「今夜の警戒を少し厚くします。晴明くん、追加の巡回に入れますか」

「は、はい、大丈夫です」

「無理はしなくていいですよ。慣れないうちは、慌てないことの方が大事です」

「……はい」


 そう答える晴明の目が、一瞬だけ宿舎棟の方を向いた。花丸は気づかないふりをした。


 そこに誰がいるのか、知らないわけではない。


 晴明がここまで踏ん張れる理由も、慣れない仕事で失敗を恐れながら離れない理由も、結局は一つだ。


 花丸は報告端末を閉じた。


「今日の初動は全体として良かったです。怪我も最小限で済みました。みなさん、ありがとうございます。引き継ぎが終わったら、順に休んでください」


 厳命というより、きちんと労う言い方だった。隊員たちの空気がわずかに和らぐ。いのりが穏やかに笑い、昌親が小さく会釈し、晴明はようやく少しだけ肩を下ろした。


 その時だった。


 花丸の胸ポケットに入れていた公用として使う端末が、短く乾いた電子音を鳴らした。


 一度だけ。だが、隊員用の通常通知とは違う、底の低い音だった。


 花丸はすぐに端末を取り出した。画面に表示された発信元を見た瞬間、表情を変えないまま、胸の内側だけが冷える。


 監察局副局長室。紫水真澄。


 文面は簡潔だった。


 花丸文弥

 直ちに副局長室へ出頭

 供回り不要


 それだけ。


 いのりが、花丸の手元を見てそっと首を傾げた。


「……副局長さまですか?」

「ええ」

「ご一緒した方がよろしいですか?」

「いえ。供回り不要だそうです」


 その一言で、いのりの表情から柔らかな笑みがすっと薄れた。彼女もその文言の重さを知っている。供回り不要、つまり、誰にも聞かせたくない話ということだ。


 昌親も口を開く。


「急ぎですか」

「急ぎでしょうね」


 花丸は端末を閉じた。薄い電子音とともに、画面が暗くなる。


 紫水真澄は無駄な言葉を使わない。誠実で、静かで、高貴な人だ。だからこそ、その人からこういう呼び出しが来る時は、だいたい良い話ではない。


「昌親さん」

「はい」

「今夜の外周強化、あなたにお任せしても?」

「もちろんです」

「ありがとうございます。晴明くんは、その補助に入ってください」

「は、はい」

「無理そうなら、すぐ言ってくださいね」

「だ、大丈夫です。やれます」


 少し噛みながらも、晴明はきっぱり答えた。その目だけは揺れていない。


 花丸は、そんな少年にほんの少し目元を和らげた。


「そうですか。頼もしいですね」

「……っ、はい」


 晴明がわずかに頬を赤くする。単純なところがある。けれど、その不器用さごと人を支えようとするのが、この子のいいところだと花丸は思う。


「いのりさんは療看室の方を」

「はい。皆さんの様子も見ておきますね」

「お願いします」


 簡単に指示を終えると、花丸は上着の襟元を整えた。施設の照明が少しずつ灯されて夕暮れは群青へ変わりかけている。


 訓練棟から監察局棟へ向かう通路は、ガラスと白壁でできた長い渡り廊下になっていた。外から見ればただの行政施設だが、内部へ入れば警備は厳重だ。認証扉が二重三重にあり、足音まで吸い込むような静けさが続く。ここを歩く時、花丸はいつも、自分が人としてではなく、役職と権限の札をぶら下げた存在になったような感覚を覚える。


 後ろで晴明が小さく声をかけた。


「隊長」


 花丸は振り返る。


「なんですか」

「……何か、あったんでしょうか」


 晴明は聞くべきでないとわかっていながら、聞かずにはいられなかった顔をしていた。小心で、慣れない仕事にはすぐ慌てる。けれど守りたいもののことになると、つい一歩出てしまう。


 花丸は一瞬だけ考えてから、いつもどおりの穏やかな声で答えた。


「大丈夫ですよ。少し重い話かもしれませんが、まだ何も決まったわけではありません」

「……はい」

「宿舎の方、お願いしますね」

「はい。任せてください」


 花丸はそれ以上何も言わず、監察局棟へ向かって歩き出した。


 ガラス扉の向こう、夜を早めに閉じ込めたような静かな廊下が続いている。副局長室はその最奥だ。紫水真澄が、あえて供回りを禁じて呼ぶ時は、ただの案件報告では済まない。


 それでも、足は止めない。


 どんな状況でも諦めない。

 そう決めて、この場所にいる。


 守るべきものがあるなら、なおさらだ。


 認証扉が一枚、また一枚と開いていく。

 監察局副局長室の前で立ち止まった時には、訓練場に残してきたざわめきも、隊員たちの声も、もう遠かった。


 花丸は背筋を伸ばし、静かに扉を叩く。


「花丸文弥です。お呼びと伺いました」


 間を置かず、内側から落ち着いた声が返ってきた。


「入りなさい」


 紫水真澄の声だった。


 花丸は扉に手をかけた。


 指先に伝わる金属はひやりと冷たく、室内の空気までそこへ封じ込められているようだった。認証灯が青へ変わる。重くはないはずの扉が、わずかに押し返してくるように感じられるのは、この向こうにある話の重さを、体が先に察しているからかもしれない。


 静かに開いた室内は、外の夕暮れよりも一段落ち着いた明るさだった。


 広くないが、狭さを感じさせる造りでもなかった。壁は薄い灰色、窓際には余計な装飾のない背の低い棚、中央には端正に整えられた執務机。


 香りを焚いた気配はなく、紙とインク、それに冷えた空調の匂いだけがある。人の感情が入り込む余地を最小限に削ったような部屋だった。


 紫水真澄は机の向こうに座っていた。


 淡い照明の下でも、その人の姿は不思議とくっきりして見える。年齢を重ねた男に特有の疲れや緩みは薄く、背筋はまっすぐで、指先の動きにさえ無駄がない。冷たい印象を抱く者も多いだろう。


「座りなさい、花丸隊長」


「失礼します」


 花丸は一礼して、机の前の椅子へ腰を下ろした。


 視線を上げた瞬間、机上に置かれた書類の束が目に入る。通常の案件簿ではない。厚みも紙質も異なる古い記録、封蝋の痕が残る写本、近年の監視報告らしき新しい紙束。それらが一つの案件としてまとめられていること自体、すでに異様だった。


 最上に置かれた封書には、王権禁閲印が押されていた。


 花丸は表情を変えなかったが、胸の奥に沈むものの輪郭がはっきりした。


「お忙しいところを失礼しました」


 そう前置きしたのは紫水の方だった。


「ですが、他の者を通すわけにはいきませんでした」

「承知しております」


 紫水は短く頷く。その仕草に威圧はない。ただ、先へ進める合図だけがある。


「これから話す内容は、監察局内でも閲覧が厳しく制限されています。おそらく、貴方がこれまで受けた任務の中で最も重い」

「……はい」


「率直に言いましょう。通常の能力犯罪案件ではありません。過去の未解決事案でもない。現在進行形で、国家の最深部に触れる案件です」


 紫水は一冊の薄いファイルを手に取った。表紙は新しいが、中に綴じられている紙は新旧が混ざっているようだった。


「まず、ひとつ名前を覚えてもらいます」


 その声は、変わらず穏やかだった。


 机上の薄い封書に指を置いた。


「これより先、ここに記された件名は、原則として声に出すことを禁じます」

「……禁名扱い、ですか」


 花丸が問うと、紫水は小さく頷いた。


「ええ。記録上は残っています。完全な抹消は不可能でした。ですが、宮中でも官でも、みだりに呼ぶことは避けられてきました。呼べばそれだけで、過去を招くと考える者もいる」

「迷信、では片づけられない類ですね」

「この件に関しては、その認識で構いません」


 紫水は封書を花丸の前へ滑らせた。


「古い記録では、初代能力災害の中心人物。以後、王統、神祇、地方共同体、管理制度にまで痕跡を残した連鎖事案。その総体を、我々は便宜上“例の件”と呼称しています」

「……例の件」


 花丸は復唱せず、心の中でだけその言葉を置いた。


 紙の表紙に触れた指先が、ほんの少しだけ硬くなる。

 目を落とせば、そこには封印じみた事実ばかりが並んでいた。


 接触による寿命干渉。

 極限状態での転生。

 悩乱状態における血縁者への憑依。

 王統への侵入。

 神祇機関の設立への関与。

 共同体形成。

 能力管理制度への影響。


 どれも断片であるのに、並ぶと一つの異様な輪郭を持ち始める。ひとりの人間の記録というより、国の奥底に長くこびりついてきた汚れを見せられている気分だった。


「昔話では、ないんですね」


「はい」


 紫水の返答は簡潔だった。


「終わっていないからこそ、今ここにあります」


 花丸は一枚、また一枚と紙をめくった。

 古文書の写しから近代の調査報告へ、さらに現代の監視記録へと形式が変わっていく。その連なりが、ひとつの忌まわしい流れを証明していた。


 そして、現代の様式で打ち出された一枚で、花丸の手が止まる。


 対象者名 熨斗目李丁

 年齢 六歳


 六歳。


 その数字だけが、あまりにも今の世界のものだった。


「……子どもですか」


 思わず漏れた声は、自分で思っていたより低かった。


「そうです」

「例の件の、現在の」

「不完全な継承先、と認定されています」


 紫水は相変わらず穏やかに言った。

 だが、その穏やかさがかえって逃げ道を失わせる。


 花丸は記録の下段を読む。

 特殊保護児。菱葉々家次男。二歳時に異常発現。以後、特殊児童院にて保護管理。断片的記憶継承あり。本人はそれを予知夢として認識。自我は現時点で安定。


 災害の記録の先に置かれていたのが、六歳の子どものプロフィールであることに、どうしても現実感が追いつかない。


「現在は、どの程度まで」


「今はまだ安全です」


 紫水はそこで初めて、“まだ”という語をはっきり使った。


「記憶は欠けています。能力の再現も確認されていない。本人の自認も、あくまで熨斗目李丁のままです。だから国家は、この子を保護対象として扱っている」

「……保護対象」


「はい。ただし」


 花丸は紙から目を離さず、その先を待った。

 この“ただし”の後ろに、まともな言葉が置かれるはずがないことは、もうわかっていた。


 紫水は別の一枚を抜き出した。

 それは要約記録よりさらに短い、内部通達に近い文面だった。


「保護には条件があります」

「覚醒、ですね」

「察しがよくて助かります」


 紫水はそう言ったが、声色には誉める響きがなかった。

 事務的な確認だった。


「対象が、自身を“熨斗目李丁ではないもの”として認識した場合。あるいは、断片ではなく、連続性ある前人格の表出が確認された場合。寿命干渉、憑依、自覚的継承――いずれかの兆候が明確になった場合」

「はい」

「その時点で、この案件は児童保護ではなく、再発事案として扱われます」


 花丸はそこで初めて書類から顔を上げた。


「再発」

「ええ。昔の災害の続きを意味します」


 副局長室の空気は一定のはずなのに、やけに冷たかった。


「処置は」


 短く問うと、紫水は一切ためらわなかった。


「連鎖断絶措置」

「平たく言えば」

「処刑です」


 その二文字が、妙に静かに落ちた。


 大声ではなかった。脅すようでもない。

 だからこそ、その言葉は冷たく形を保ったまま花丸の胸に入ってきた。


 六歳の子どもに向ける言葉ではない。

 そう思う。だが同時に、この国がそこまでしてでも終わらせたいものの歴史を、たった今読まされたばかりでもある。


「覚醒した時点で、ですか」

「はい」

「その瞬間から、熨斗目李丁ではなくなる」

「国家判断としては、そうなります」


 花丸は黙った。


 沈黙のあいだ、紫水は急かさなかった。

 慰めもしない。納得を求めもしない。

 ただ事実だけを机の上に置いて、受け取るのを待つ。


 花丸はようやく、視線を下へ落とした。


 花丸は命令書を閉じた。


 厚みのある紙が指先の中でわずかにしなる。たった数枚の文書にすぎないはずなのに、妙に重かった。そこに記された名前のせいだろう。

 熨斗目李丁。六歳。


 まだ会ったこともない。声も、顔も、癖も知らない。

 それでも明日の朝には、自分はその子を児童院から連れ出す。


 守るために。観るために。見極めるために。


 花丸は息を整えて、机の上の受領欄へ改めて視線を落とした。


「移送時刻は、明朝九時を予定しています」


 紫水が淡々と続ける。


「児童院側には、院長にのみ通達済みです。担当職員は最小限に絞る。車列は一見して通常の保護移送と変わらないようにします」

「表向きは、あくまで保護児の環境移動」

「はい。余計な注目を集めたくありません」


 花丸は頷いた。

 大袈裟に動けば、それだけで“何かがある”と知らせることになる。王都は広いようでいて、情報の巡る速度は異様に速い。能力者に関わる案件ならなおさらだ。


「児童院の結界は」

「出入口の一点だけ、一時通過を許可します。解除ではありません」

「外に出る時間は最小限、ですね」

「ええ」


 紫水はそこで、ほんのわずかに言葉を切った。


「理想を言えば、対象を結界の外気にさらす時間は一秒でも短い方がいい」

「……そこまでですか」

「念のためです」


 念のため。

 その言葉自体は何でもない。だが、この人が使うときは、過剰な警戒ではなく、警戒してなお足りない可能性を含んでいる。


 花丸はそこを深く追及しなかった。現時点で外部勢力の確証があるわけではないのだろう。だが、国家がここまで気を使うなら、それだけこの案件が“見つけられたくないもの”を抱えているということだ。


「宿舎側の受け入れ区画は、第三管理棟の奥です」

「晴明くんの部屋とは」

「同じ棟ですが、すぐ隣ではありません。最初から刺激を増やさない方がいい」


 紫水は書類をめくり、一枚の簡易見取り図を示した。

 テリオス本拠地に接続した宿舎棟の一角。一般隊員の生活区画より奥まった場所で、医療棟と結界管理室への動線が短い。監視しやすく、いざという時に封鎖しやすい配置だった。


「兄との再会は、移送後に段階を踏んで行います」

「すぐには会わせないんですね」

「最初の接触は慎重にしたい。対象が移送そのものに慣れる時間も必要です」

「ですが、ずっと引き離すつもりはない」

「ええ。むしろ逆です」


 紫水の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「兄との接触は、対象の情緒安定に寄与する可能性が高い。使えるものは使うべきです」

「使う、ですか」

「言い方が悪かったですね」


 紫水は苦くもなく、ただ事実を言い換えるように続けた。


「支えにできるものは、支えにするべきです」


 花丸はそれにだけは、短く「はい」と返した。


 晴明の顔が頭に浮かぶ。

 慣れない仕事ではしばしば焦って、報告の順番すら飛ばしてしまいそうになるくせに、弟のこととなればきっと誰より必死になるだろう。まだ何も知らされていない、その事実が少しだけ重かった。


「対象本人への説明は、誰が」

「児童院側で一度。移送当日は、貴方からも」

「俺から」

「隊長である以前に、最初に連れ出す大人としてです」


 その言い方に、花丸はわずかに目を伏せた。

 命令書の文字列の中では“対象”としか書かれない存在も、実際に目の前に立てば、当然ひとりの子どもだ。怖がるかもしれない。黙るかもしれない。泣くかもしれない。


 そういうものまで含めて、もう任務のうちに入っているのだと、改めて思う。


「……副局長」

「何でしょう」

「対象のことを、晴明くんにどこまで知らせますか」

「現時点では、弟が移送されてくることだけです」

「例の件については」

「伏せます」


 即答だった。


「兄であることと、機密への接触許可は別です。少なくとも初期段階では知らせません」

「そうですか」

「不満ですか」

「いえ」


 花丸は静かに首を振る。


「気持ちはわかります。ただ、あの子はまだ若い。……抱えるものが増えれば、仕事にも響きます」

「ええ」


 紫水は否定しなかった。


「だからこそ、貴方が間に入るんです」


 その一言で、改めて責任の置き場所が定まった気がした。


 花丸は命令書を胸元へ収め、姿勢を正した。


「移送時の同行者は、俺と」

「最低限で構いません。桜門いのり、結竹昌親、この二名は付けてください」

「晴明くんは」

「外します」

「……承知しました」


 まだ知らせてもいない弟を、自分の手で迎えに行かせるわけにはいかない。理屈としては当然だ。だが、晴明がその事実を知った時の顔は、少し想像できてしまう。


「車両は二台。表向きは通常移送、実質は二重護送」

「周辺警備は」

「監察経由で別系統を薄く置きます。貴方は移送そのものだけに集中して構いません」

「わかりました」


 必要な項目は、もうほとんど頭に入った。

 児童院。裏導線。


 短時間通過。二重護送。受け入れ区画。兄への通知は移送後。

 段取りは明確だ。むしろ明確すぎるくらいだった。


 紫水はそこで一度、書類の束をきれいに揃え直した。

 それが、この話が終わりに近い合図であることを花丸は察した。


「花丸隊長」

「はい」

「今はまだ、あの子はただの六歳です」


 さっきも聞いた言葉だった。

 けれど今度は、命令ではなく確認のように聞こえた。


「保護児で、夢見がちで、少しばかり不穏な記録のある子どもです。それ以上でも以下でもない」

「……はい」

「だから、最初から怯えないでください」

「俺が、ですか」

「ええ」


 紫水の眼差しは静かだった。


「大人の恐れは子どもに伝わります。とくに、こういう子には」

「……承知しました」


 花丸は、今度こそ素直にそう答えた。


 恐れるな、と言われて、恐れないでいられる案件ではない。

 だが少なくとも、会う前からその子を“例の件”の続きとしてだけ見るつもりはなかった。


「ありがとう」


 また、紫水がそう言った。


 花丸は少しだけ困ったように眉を寄せる。


「副局長は、今日、やけに礼を言いますね」

「そうでしょうか」

「ええ」

「なら、それだけ重いものを渡しているのでしょう」


 淡々とした言葉だった。だが、その中に自覚があることはよくわかった。

 この人もまた、平気な顔をしているわけではないのだろう。


 花丸は立ち上がり、一礼した。


「では、明朝の移送、責任をもって遂行します」

「頼みます」


 扉へ向かい、手をかける。

 けれど開く前に、ふと振り返った。


「副局長」

「何ですか」

「対象に会ったあとでも、俺はまだ、迷わない方がいいんでしょうか」


 ほんの僅かな間があった。


 紫水は花丸を見つめ返し、それから静かに言った。


「会う前に迷う必要はありません」

「……」

「会ったあとに迷うことまで、禁じるつもりはありませんよ」


 花丸は返事の代わりに、深く一度だけ頭を下げた。


 副局長室を出ると、廊下の空気はひどく静かだった。

 白い壁、足音を吸う床、等間隔に並ぶ灯り。ついさっき通ったはずの道なのに、帰り道はやけに長く感じる。


 胸元の内ポケットに入れた命令書の角が、歩くたびにわずかに当たった。

 その感触が、これがもう自分の任務なのだと何度でも思い出させる。


 認証扉をいくつか抜け、テリオス棟へ戻る。

 さっきまで任務後のざわめきがあった空間は、夜勤への引き継ぎが進み、少し落ち着いていた。遠くで誰かが笑い、端末の電子音が鳴り、療看室の自動扉が開閉する。日常の続きだ。けれど花丸の中では、もうさっきまでと同じ日常ではなかった。


「隊長!」


 呼ばれて顔を上げると、晴明が小走りでやってきた。

 相変わらず、急いでいるつもりほどには足がまとまっていない。途中で一度だけ危うくつまずきかけ、本人がいちばん驚いた顔をして立て直す。


「す、すみません。あの、夜間巡回の割り振りが……」

「落ち着いてください、晴明くん。深呼吸」

「は、はい……っ」


 言われたとおりに吸って吐いてから、ようやく晴明は端末を差し出した。

 こういうところを見ると、本当にまだ慣れていないのだと思う。能力が鋭くても、仕事がうまいとは限らない。


「夜間巡回の南側なんですが、結竹さんが再点検に入るので、ぼくは西側へ回った方がいいんじゃないかって……」

「その判断で大丈夫です」

「本当ですか?」

「ええ。ちゃんと考えています。自信を持ってください」

「……はい」


 返事をしながらも、晴明はどこかそわそわしていた。

 花丸は少しだけ迷い、それから口を開く。


「晴明くん」

「はい?」

「明日、少しだけ勤務の動きが変わります」

「えっ」

「大きい話ではありません。ただ、午前中に私といのりさん、昌親さんが外へ出ます」

「外へ……ですか」

「ええ。そのあいだ、あなたは本部側の補助に回ってください」

「わかりました」


 そこで晴明は、何かを言いかけてやめた。

 気になることがあるのだろう。だが、上官相手にどこまで聞いていいかわからず、言葉が喉元で絡まっているのが見て取れる。


 花丸はそれ以上の説明をしなかった。


「今はそれだけで十分です。今夜の持ち場、お願いしますね」

「……はい、任せてください」


 晴明は頷いた。その目の奥に、小さな不安と、それでも役に立ちたいという必死さが同時に見える。


 花丸はふと、この少年が明日知ることになる再会の重さを思った。

 四年ぶり。しかも知らせもなく突然。

 喜ぶだろう。戸惑うだろう。きっと両方だ。


「隊長」


 今度はいのりが、療看室の方から静かに近づいてくる。


「もうお戻りだったんですね」

「ええ」

「お顔が少しだけ、お疲れに見えます」

「そう見えますか」

「はい。けれど、無理に元気そうになさらなくても大丈夫ですよ」


 いのりの声はやわらかい。

 やわらかいが、ただ慰めているだけではない。相手の変化を見逃さない人の声だ。


「明日、外勤です」

「まあ。急ですね」

「少しばかり」

「では、今夜のうちに必要なものを整えておきますね。お子さん相手でも使えるような鎮静補助も、念のため持っていきます」

「……ありがとうございます」


 “お子さん相手”という言い方に、花丸は少しだけ救われた気がした。

 そうだ。明日迎えに行くのは、記録の束でも、忌まわしい連鎖そのものでもない。まずはひとりの子どもなのだ。


「隊長」


 今度は昌親が低く声をかけた。


「外周の再点検、予定どおり済ませておきます」

「お願いします」

「何かあるんですか」

「……明日、保護児の移送です」


 そこまでなら問題ない。花丸はそう判断した。


 昌親は一瞬だけ表情を引き締め、それから静かに頷いた。


「なら、なおさら今夜のうちに見直しておきます。外へ出す瞬間があるなら、その前後も」

「助かります」

「当然です。守るためでしょう」


 その言い方に、昌親らしいまっすぐさがあった。

 根本に優しさのある人間は、こういう時に言葉がぶれない。


 花丸は三人を見渡した。


 小心で不器用な晴明。

 おっとりしているのに芯の強いいのり。

 誠実で、身を挺して守ることを当たり前のように考える昌親。


 明日は、この三人のうち二人を連れて行く。

 そして迎えるのは、まだ会ったことのない六歳の子どもだ。


「みなさん、今日はもう遅いです。引き継ぎが済んだら、しっかり休んでください」

「隊長もですよ」

「……善処します」

「善処、ではなく、ちゃんとです」


 いのりにやんわり釘を刺されて、花丸は少しだけ笑った。


 その笑みはすぐに消えたが、なくなったわけではなかった。

 胸元の命令書は重い。だが、それでも明日、自分は行くのだ。


 まだ会ったことのない熨斗目李丁を、児童院から預かるために。


 廊下の窓の外では、王都の夜景がじわじわと濃くなっていた。

 ビルの灯り、車の列、遠くを走る電車の光。


 街は何も知らない顔でいつもどおり動いている。

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