7 まだ視ぬ未来
「何をしているのですか、陛下?」
「どあぅ!?」
植え込みの隙間で背中を丸めていた黒ずくめの男は、背後から掛けられた声に驚き肩を跳ね上がらせた。
恐る恐る振り返ると、一人の少年が植え込みを覗き込んでいた。晴れ渡った空と同じ色の髪と瞳。奇妙な叫び声に驚いたのか、きょとんとした顔をしている。
「ああ、びっくりした……ユリシスか」
「どうしたのですか? こんな所で」
促され、ユリシスは黒い塊に倣って茂みに隠れるように身を縮めた。
黒い塊ことレイヴァーンは元より多忙な王ではあるが、今日は特に疲れ切った表情をしている。
「いや、それが……アレックスの例の発作が……」
「ああ……サーシャさんが出てきちゃったんですね」
事情を察してユリシスは苦笑を浮かべた。
サーシャが『アレックス』と名を改めて――戻して、とも言う――以降、レイヴァーンへの過剰な求愛行動は徐々になりを潜めていった。現在は出会った頃のように毎日追い掛け回されるということはない。それでも年に数度、抑えている想いに歯止めを掛け切れなくなるのか突然襲って――もとい、激しいアプローチを仕掛けてくるのであった。そのたびにレイヴァーンは逃げ回り、見付からないように身を隠すというのが定例になっていた。
ちなみにこのようなアレックスの暴走は、今年に入ってからはすでに二度目のことである。
「なんて言うか……お疲れ様です」
「ああ、うん、ありがとう。まぁ慣れたものだよ。はははは」
不定期開催の恒例行事と化しているだけあって、笑いながら語れる程には慣れたものだった。ただし、語るその目は死んだ魚に似ている。
「あっ、もしかして僕、邪魔してしまいましたか? こんな所で固まっていたら見付かりやすくなってしまいますよね?」
「いや、魔力探知が得意なユリシスが傍に居てくれた方が逃げるのに有利という気も……」
先程から何か抱えているということには気付いていたが、おろおろと辺りを見回すユリシスの懐に抱えられているのが教書であるということにこの時初めて気が付いた。
「俺の方こそ邪魔してしまったんじゃないのか? 勉強しに行くところだったんだろ?」
メリエルが年頃になり、彼女の子守り役を終えてからのユリシスは士官候補としての教育を受け始めていた。
「随分と頑張っているらしいじゃないか」
聡明で物覚えが良く、将来有望だという評判はレイヴァーンの耳にも届いていた。
心身共に未成熟ながら、実のところレイヴァーンよりも永い時を生きているユリシスはそれだけの経験と知識を得ている。しかしそれだけではなく血による才も大きいのかもしれない。
「あ、はい! 早く、陛下のお役に立てるようになりたくて……それに僕、父様のようになるのが目標なんです」
「そうか、父親のように……」
はにかむユリシスを横目にレイヴァーンは件の父親の姿を思い浮かべた。
「……ごめん、なんか素直に応援出来ない……」
「あの……性格までは目標にしていないので……」
尊敬はしているものの、父親の人間性に思うところのあるユリシスは苦笑いを以って応えた。
「でも、本当は僕の勉強していることが無駄になってくれることが一番かなって思うんです」
「無駄って?」
「戦争のための知識なんて、本当は必要にならないのが一番ですから」
折角の努力が無駄になってしまうのは忍びないがその意見はレイヴァーンも同感だった。
「ああ、そうだな」
「僕は、陛下がそんなものは必要にならない世を創ってくださると信じているんです」
先程とは違い恥ずかしげもなくそう言うと、ユリシスはアレックスの魔力が近くに存在しないことを確認してからそろりと立ち上がった。
「あんまり期待されても困るけどな。でも、メリエルに好きなヒトが出来て、俺たちの元を離れていくまでくらいには叶えたいと思ってるよ」
「あ、そうだ、メリエルといえば。陛下、最近メリエルとお話していますか?」
「うっ」
少しいい話をしていたかと思いきや、急に痛いところを突かれて短い呻き声を上げた。
「喧嘩をしたなら早めに仲直りした方がいいと思いますよ?」
「いや、喧嘩ってわけでもないんだけど……」
毒はないが、急所に確実な打撃を与えてくる辺りは確実に父親に似てきている気がする。そんな自覚のないユリシスは笑顔で丁寧なお辞儀をすると「そろそろ時間ですから」と言ってその場を去って行った。
一人きりになったレイヴァーンは、ため息を吐いて植え込みに背中を埋めた。
「メリエルとは一度話してみるべきだと、私も思いますよ」
「うおぉう!?」
肩の力を抜いた瞬間に声を掛けられ、レイヴァーンは再び跳び上がった。
一人きりの時間はほんの束の間だった。先程ユリシスが来たのとは別の角度から、男が植え込みを覗き込んでいた。ユリシスと同じ空色の髪と瞳だが、こちらは可愛げのある少年ではなく、無表情で沈着冷静といった印象の成人の男だ。
「け、気配を消して近付くな!」
「……と言われましても。貴方よりも先に私はここに居ましたし、これで普通にしているつもりなのですが。陛下はそのような場所で何を? 屹立して立てないのですか?」
「立てますよ! というか、起ってませんよ!!」
とんでもない言い掛かりに憤慨し、誤解だと証明せんばかりに勢いよく立ち上がった。
座っている間は植え込みに遮られて見えなかったが、立ち上がると男の手に意外な物が握られていることに気が付いた。
「じょうろ?」
「じょうろですね」
植え込みの向こうを覗き込むと、男の足元にレンガで囲いをされた小さな花壇があるのが見えた。今しがた撒かれたばかりであろう水が太陽の光を反射して、鮮やかな花たちがきらきらと輝いている。
「園芸の趣味があったのか?」
「似合いませんか?」
「似……合わなくもない気がするが、それなりにお前のことが解ったつもりでいたのに、まだ知らない事はあるものだなぁ、と」
レイヴァーンは植え込みの枝を折らない程度に掻き分け、その上を跨いだ。
「私のことはともかくとして、メリエルのことですが」
「うおっ」
動揺し枝に足を取られて転倒しかけたが、無事に花壇側に渡りきった。移動しても植え込みの影に傍にしゃがんで隠れることは忘れない。
「……いや、解ってる。解ってるけど、話そうにもメリエルが俺を避けるんだから仕方ないだろう」
幼い頃はレイヴァーンにべったりだったメリエルだが、成長と共に適度な距離を取るようになっていった。
そして近頃は距離を取るどころか避けられているのだった。廊下ですれ違い挨拶を交わそうとしただけで逃げられる有様である。
「反抗期ってやつだろうか……」
いじけたようにズボンに付いた葉っぱを一枚一枚摘んで払うレイヴァーン。
「不用意に手を出して嫌われでもしましたか?」
「出すか! いいか、俺はメリエルの兄と言うか父と言うか、とにかくずっとそんな気持ちで接してきたんだ。俺は何もしていない!」
「だから駄目なのですよ」
口の中で呟いた言葉は、レイヴァーンの耳には届かなかったようだ。
「何か言ったか?」
「ええ、言いました」
「言ったことは否定しないんだな……いや、いい。ろくでもないことなのはなんとなく判る」
経験上、この男の言葉の七割方はろくでもない発言だという認識になっている。
「しかし真面目な話、どうしたらいいと思う?」
言動に問題のある男ではあるが、王位を継いだ頃から宰相として傍に置いているだけあってそれなりに信頼はしている。ヒトとしても父親としても、人生の先輩にアドバイスを貰いたかった。
「もういっそ貴方の子を孕ませてしまえばよろしいのでは?」
「なんでそうなる!? 一体何年前の話を引っ張り出してるんだお前は!」
やや投げやりとも思える冗談に怒鳴り返した。やはりこの男に相談するのは間違いだったと、レイヴァーンはがっくりとうなだれた。
問題発言をした張本人としては、実は完全に冗談というつもりもなかった。当人らが解決すべき問題なので口に出して説明する気はないが、極論を言ってしまえばそれが一番手っ取り早い解決方法だと考えていた。
「半分は冗談です」
「半分ってなんだよ……まったく、お前は本当に面白い男だよ、テューロ」
王の言葉にテューロは目を細め、少しだけ唇の端を持ち上げた。
「光栄です」
滅多に見ることのない表情の変化を、レイヴァーンは半眼で見上げた。
「皮肉だって解ってるか?」
「ええ、もちろんです」
しれっと言ってのけるのが何とも腹立たしい。やはりもう一度怒鳴りつけるべきかと息を吸い込んだところで、久しぶりに聴く呼び声に呼吸が止まった。
「まおーさーん」
レイヴァーンをこのように呼ぶ者は一人しかいない。姿を確認するまでもなく、二人は声の主がメリエルであることを悟った。
「おや、悩むのは終わりにしたようですね」
テューロは足元のレイヴァーンにメリエルの位置を指し示すように、訳知り顔で声のした方を向いた。
「ほら、そんな所に隠れていないで早く行ってあげてください。女性をお待たせするのは失礼ですよ」
「う……うん」
年長者らしい言葉に面食らった様子だが、頭を掻きながら素直に立ち上がった。
突然の機会にまだ心の準備が出来ていないらしく、少し不自然な動きでふらふらと呼び声に近付く。それに気付いた金髪の娘がレイヴァーンの元に駆け寄るのを確認してから、テューロは花壇の方へと向き直った。
「少しくらいは、貴女の大胆さを受け継いでいれば良かったのですが」
花を見下ろし、現在ではない何処かに語りかける。
「甘く、夢のような理想を語る御方。けれどそれを夢で終わらせようとしない御方です」
じょうろを傾け、中に残った水を撒いた。
「貴女とは似ていない。ですが、だからこそ貴女が変えた世界を再び変えることが出来るのでしょうね」
世界を創る存在。それは己が信じ望み続けた、姿も見たことのない不確かな存在に似ている気がした。
いくつもの約束を残した紅玉王は、自身がその存在になることをついぞ諦めはしなかった。
彼の王は望みが叶う時が、全ての約束が果たされる時なのだと言った。
きっとその時、既に望みは叶えられていたのだろう。けれどそれを言い出すことは出来なかった。約束を失ってしまうことが惜しかったのだ。
望みが叶えば、また生き続ける意味を失ってしまう。
しかし、後に考えた。信じるものが一人きりである必要が何処にあるのだろうかと。指標を呈示した王も、それが一人でなくてはならないとは言わなかった。
「構いませんよね? 生きる意味は多いに越したことはないと、言ったのは貴女なのですから」
だから、約束を守り続けることが出来る。
だから、未来をこの目で見続けることが出来る。
少し騒がしくなったのを感じ、先程の二人がいる方向へと視線を戻した。銀髪の青年が遠くから駆けて来て、それに気付いたレイヴァーンがメリエルの手を引いて逃げ出すところだった。
テューロは三人が走り去るのを見届けて、軽くなったじょうろを持ち上げた。
「賑やかなのもなかなか楽しいものですね、トゥーナ」
ひっくり返したじょうろを軽く振って雫を花壇に落とすと、彼は彼の信じる神に優しく微笑みかけた。




