第八話 最初の試験
朝を告げる鐘が、王立教会の尖塔から響いた。
重く澄んだ音が、中庭を越え、回廊を渡っていく。
窓から差し込む朝日で目を覚ます。
見慣れない天井だった。
一拍遅れて、王都へ来たことを思い出す。
簡素な木製の机。
壁際には小さな本棚。
窓辺には陶器の水差しが一つ。
豪華ではない。
だが、掃除は行き届き、無駄がなかった。
身支度を整え、部屋を出る。
回廊には、すでに多くの修道士や見習いたちが行き交っていた。
手には本を抱える者。
箒を持つ者。
誰もが自分の役目へ向かって歩いている。
「おはようございます。」
聞き慣れた声だった。
エレナが書類を抱え、こちらへ歩いてくる。
「昨夜は眠れましたか。」
「はい。」
本当は何度か目を覚ました。
だが、それを口にするほどではない。
エレナはそれ以上聞かず、小さく頷いた。
「朝食のあと、調査室へ来てください。」
「調査室?」
「正式な事情聴取と、いくつかの確認を行います。」
確認。
その言葉に少しだけ胸が重くなる。
それでも、
「分かりました。」
短く答えた。
食堂は朝から賑わっていた。
焼きたての黒パン。
湯気を立てる野菜のスープ。
木の器が触れ合う乾いた音。
席へ着くと、周囲の話し声が自然と耳へ入る。
「例の少年らしい。」
「本当に星命がないのか?」
「噂だけじゃなかったんだ。」
視線は向けない。
それでも、自分のことだと分かった。
パンを一口ちぎる。
少し固い。
噛むほどに麦の甘みが広がった。
「隣、いいか。」
顔を上げる。
レオンだった。
木の盆を持ち、少し居心地が悪そうに立っている。
「もちろん。」
向かいではなく、隣へ腰を下ろした。
少しの沈黙。
先に口を開いたのはレオンだった。
「昨日は……ありがとう。」
視線は器に落ちたままだった。
アスターは少しだけ笑う。
「助かったのは女の子だよ。」
「それでもだ。」
レオンは短く言う。
「僕一人では間に合わなかった。」
返す言葉を探していると、食堂の入口が急に静かになった。
誰かが入ってきたらしい。
周囲の見習いたちが一斉に立ち上がる。
ゆっくりと足音が近づく。
年配の男性だった。
白髪を後ろへ流し、黒い法衣をまとっている。
装飾は少ない。
それでも、その場の空気が自然と引き締まった。
男は食堂を見渡し、やがてアスターの前で足を止める。
「君がアスターか。」
穏やかな声だった。
だが、その瞳は少しも揺れない。
「はい。」
「私はアルベリウス。」
一呼吸置いて続ける。
「王立教会・調査局局長だ。」
食堂から物音が消える。
周囲の視線が集まる中、アルベリウスは静かに言った。
「食事が済んだら、私の部屋へ来なさい。」
命令口調ではなかった。
それでも、断れる雰囲気ではない。
「……はい。」
アルベリウスは小さく頷くと、そのまま食堂を後にした。
張り詰めていた空気が、少しずつ戻っていく。
レオンが小さく息を吐いた。
「局長自ら呼ぶなんて……。」
「有名な人なの?」
「教会で知らない者はいない。」
レオンは真剣な表情で言う。
「王都中の難事件を扱う人だ。」
アスターは食べかけのパンへ視線を落とした。
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
試される。
そんな予感だけが、静かに心へ残っていた。
調査局は、王立教会の本館から少し離れた石造りの建物にあった。
飾り気はない。
窓も小さく、外から中の様子はほとんど見えなかった。
重い木扉を叩く。
「入りなさい。」
落ち着いた声が返ってくる。
扉を開けると、本棚が壁一面に並んでいた。
羊皮紙の束。
地図。
木箱。
机の上には、整理された書類が積まれている。
アルベリウスは窓際に立ち、庭を眺めていた。
「座りなさい。」
向かいの椅子を示す。
腰を下ろすと、椅子が小さく軋んだ。
部屋は静かだった。
時計の音もない。
聞こえるのは、窓の外で揺れる木々の葉擦れだけ。
アルベリウスは机の上に一枚の羊皮紙を置いた。
「試験だと思ってくれて構わない。」
そこには簡単な報告が書かれていた。
> 『巡礼者が王都南門で財布を失くしたと訴えた。門兵は盗難と判断。市場は一時閉鎖。だが財布は見つかっていない。』
「どう思う。」
アスターは羊皮紙を読む。
二度。
三度。
やがて視線を上げた。
「情報が足りません。」
アルベリウスの眉がわずかに動く。
「ほう。」
「財布を最後に見た場所。」
「巡礼者が持っていた荷物。」
「門兵が盗難と判断した理由。」
「市場を閉鎖した根拠。」
一つずつ挙げていく。
アルベリウスは何も言わない。
「このままでは答えは出せません。」
静かな部屋に、その声だけが残った。
しばらくして、アルベリウスが口元を緩める。
「面白い。」
机の引き出しから、もう一枚の羊皮紙を取り出した。
先ほどより詳しい記録だった。
アスターは読み進める。
財布を失くした巡礼者は、大きな荷袋を背負っていた。
門では長い列ができていた。
市場へ入る前に一度、荷物検査を受けている。
目を止めたのは、一行だった。
> 『荷物検査では異常なし。巡礼者本人が荷袋を開けた。』
読み終え、紙を机へ戻す。
「盗まれていません。」
アルベリウスは何も答えない。
続きを促すように顎を引く。
「財布は、荷物検査の前にはもう無くなっていたはずです。」
「なぜ。」
「荷袋を自分で開けています。」
「盗んだなら、その時点で見つかる危険があります。」
「それでも盗まれなかった。」
「つまり、門ではもう財布は無かった。」
アルベリウスは腕を組んだ。
「続けなさい。」
「市場を閉鎖したのは早すぎます。」
「財布が無いことと、市場で盗まれたことは別です。」
「最後に確認した場所まで戻るべきでした。」
部屋が静まり返る。
やがてアルベリウスは、小さく笑った。
「正解はない。」
そう前置きしてから続ける。
「だが、一つだけ評価しよう。」
羊皮紙を指先で軽く叩く。
「君は答えを急がなかった。」
「多くの者は『犯人は誰か』から考える。」
「君は『何が分からないか』から考えた。」
アスターは少し考えてから答える。
「分からないことがあるなら、考えても決められません。」
アルベリウスは静かに頷く。
「その考え方は、忘れないことだ。」
立ち上がり、窓の外を見る。
王都の屋根が陽光を受けて輝いていた。
「星命は、人に力を与える。」
「だが、思い込みも与える。」
その言葉に、アスターは顔を上げる。
「才能は、ときに視野を狭くする。」
アルベリウスは振り返る。
「君には、それがない。」
短い沈黙が流れた。
「明日から、調査局の見習いとして行動してもらう。」
思いがけない言葉だった。
「私の隣で、王都を見なさい。」
アスターは驚きより先に、一つの疑問を抱いた。
「……僕で、いいんですか。」
アルベリウスは穏やかに笑う。
「まだ分からない。」
「だから確かめる。」
その答えは、どこまでも調査官らしかった。
部屋を出ると、午後の陽射しが石畳を照らしていた。
王都へ来て、まだ二日目。
それでもアスターは、この街で初めて、自分にできることがあるのかもしれないと思えた。
風が吹く。
教会の鐘が、静かに午後を告げていた。




