第七話 王都アストラル
夜明け前。
馬車は静かな街道を進んでいた。
窓の外は、まだ薄い青に包まれている。
アスターは眠れないまま、揺れる景色を眺めていた。
やがて、遠くの空が白み始める。
その向こうに、巨大な影が浮かび上がった。
城壁だった。
朝日に照らされ、その全容が少しずつ姿を現す。
見上げるほど高い石壁。
等間隔に築かれた見張り塔。
城壁の上を巡回する兵士たち。
思わず息をのむ。
村で見た教会の塔など、比べものにならない。
「……あれが」
思わず声が漏れる。
向かいに座るレオンが窓の外へ目を向けた。
「あれが王都アストラルだ。」
その口調には、どこか誇らしさがあった。
城門へ近づくにつれ、人の数はさらに増えていく。
荷馬車。
騎馬の伝令。
巡礼者。
商隊。
色とりどりの服をまとった旅人。
さまざまな言葉が飛び交い、馬のいななきと車輪の音が絶え間なく響いていた。
やがて馬車は、長い列の最後尾で止まる。
「ずいぶん並ぶんだね。」
アスターが呟く。
「王都ですから。」
年嵩の神官は穏やかに答えた。
「一日に何千人もの人が出入りします。」
列はゆっくりと進んでいく。
その間、アスターは周囲を眺めていた。
商人たちは荷を確かめ、兵士は鎧の留め具を締め直している。
子どもを抱いた母親が、眠そうな目をこする。
誰もが、それぞれの目的地へ向かっていた。
ふと、アスターの視線が一人の老人で止まる。
老人は城門ではなく、空を見上げていた。
その手には、小さな花束。
列が進んでも急ぐ様子はない。
アスターは何も言わなかった。
ただ、その姿が心に残った。
「次。」
兵士の声が響く。
教会の馬車が城門前へ進む。
兵士は教会の紋章を確認すると、神官へ一礼した。
「ご苦労さまです。」
「ありがとうございます。」
形式的なやり取りのあと、兵士の目がアスターへ向く。
「その少年は?」
「教会本部からの召喚です。」
神官は一枚の羊皮紙を差し出した。
兵士は封蝋を確認し、頷く。
「失礼しました。お通りください。」
重厚な門がゆっくりと開く。
馬車が城門をくぐった、その瞬間だった。
視界が一気に開ける。
石畳がどこまでも続く大通り。
中央を流れる運河。
白い壁の建物が朝日に輝き、人々の活気が町全体を包んでいた。
露店からは焼きたてのパンの香りが漂う。
遠くでは鐘が鳴り、鳩の群れが一斉に空へ舞い上がった。
アスターは知らず知らずのうちに立ち上がっていた。
村とは違う。
境界の町とも違う。
ここには、一つの国が息づいていた。
馬車はゆっくりと大通りを進んでいく。
その先、街並みの向こうに、ひときわ高い白亜の建物が姿を現した。
尖塔の先には、金色の紋章旗が風にはためいている。
年嵩の神官が静かに口を開いた。
「あれが王立教会です。」
アスターは視線を上げる。
その建物は、まるで空へ届こうとしているようだった。
馬車は王立教会の正門前で静かに止まった。
白い石で造られた階段は磨き上げられ、朝の光を受けて淡く輝いている。
その先には、幾本もの柱が支える大きな回廊が続いていた。
「着きました。」
年嵩の神官が扉を開く。
アスターは荷物を抱え、ゆっくりと石畳へ降り立った。
靴底から伝わる硬い感触。
見上げるほど高い建物。
思わず息をのむ。
「こちらへ。」
神官に導かれ、回廊を歩く。
足音が静かに響き、磨かれた床へ吸い込まれていく。
すれ違う神官や修道士たちは皆、一様に足を止め、軽く頭を下げた。
しかし、その視線は自然とアスターへ向いていた。
興味。
疑問。
わずかな警戒。
言葉は交わさない。
それでも、自分が見られていることだけは分かった。
長い廊下の先で、一人の女性が待っていた。
三十代半ばほどだろうか。
濃紺の法衣をまとい、銀縁の眼鏡をかけている。
凛とした空気をまとった人物だった。
「お待ちしておりました。」
落ち着いた声が響く。
年嵩の神官が一礼する。
「予定どおり、到着いたしました。」
女性は頷き、視線をアスターへ向けた。
その瞳は穏やかだった。
だが、人を見るというより、確かめるような視線だった。
「あなたがアスターですね。」
「はい。」
「私は教会本部・調査局のエレナです。」
名乗ると、彼女は一歩近づく。
「長旅、お疲れさまでした。」
その一言だけだった。
だが、アスターの肩から少しだけ力が抜ける。
「ありがとうございます。」
「詳しい話は後ほど伺います。」
エレナは書類を閉じた。
「まずは休んでください。」
そのとき、廊下の奥から複数の足音が近づいてきた。
白い法衣をまとった神官たち。
その先頭を歩く老神官が、足を止める。
鋭い目がアスターを見据えた。
「その少年か。」
年嵩の神官が静かに答える。
「はい。」
老神官はしばらく無言だった。
やがて、低い声で言う。
「記録どおりなら、星命を持たない唯一の存在。」
廊下の空気がわずかに張り詰める。
アスターは黙って立っていた。
老神官はさらに続ける。
「確認は、明日行う。」
それだけ告げると、振り返り、去っていった。
周囲も何事もなかったように歩き出す。
静寂が戻る。
エレナは小さく息をついた。
「気にしなくて構いません。」
アスターは首を横に振る。
「気にしていません。」
その答えに、エレナは少しだけ目を細めた。
「……そうですか。」
彼女は案内を再開する。
中庭へ出ると、朝日に照らされた噴水が静かな水音を立てていた。
修道士たちが掃除をし、子どもたちが本を抱えて歩いていく。
ここにも、多くの人の日常があった。
アスターはその景色を見渡す。
村とも違う。
旅の途中とも違う。
ここでは誰も、自分のことを知らない。
だからこそ。
ここから始められるのかもしれない。
そう思った、その時だった。
「おい。」
中庭の向こうから、若い男の声が飛ぶ。
振り向くと、一人の青年が腕を組みながらこちらを見ていた。
胸元には、金糸で刺繍された教会の紋章。
年齢は二十歳ほど。
口元には、隠そうともしない不満が浮かんでいる。
「聞いたぞ。」
青年はアスターを真っ直ぐ指差した。
「お前が、星命を持たないっていう珍しい奴か。」
中庭の空気が、再び静かに揺れた。




