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第五話 境界の町

 旅に出て三日目。


 馬車は緩やかな丘を越え、一つの城壁都市を望む街道へと差しかかっていた。


 高く積まれた石壁の向こうからは、鐘の音が風に乗って聞こえてくる。


「あれが、フィルネの町です」


 年嵩の神官が窓の外を見ながら言った。


「王都へ向かう街道では、一番大きな宿場町になります」


 アスターは頷き、城壁へ目を向ける。


 高い見張り台。


 開かれた城門。


 荷馬車の列。


 旅人や商人が絶え間なく行き交っている。


 村とは比べものにならない賑わいだった。


「今日は、あの町で一泊します」


 馬車は列の最後尾へ並んだ。


 城門では兵士たちが一台ずつ荷物を調べ、旅人の身分を確認している。


 前の荷馬車が止められた。


「荷を開けろ」


 兵士の声が響く。


 商人が木箱の蓋を開けると、中には乾燥肉や布地が整然と積まれていた。


 兵士は一つひとつ目を通し、ようやく通行を許可する。


「ずいぶん厳しいですね」


 アスターが呟く。


 神官は静かに答えた。


「近頃は国境付近が落ち着きませんから」


「戦ですか」


「噂に過ぎません。しかし、人も物も以前より厳しく見られるようになりました」


 それ以上は語らなかった。


 やがて教会の紋章を見た兵士が敬礼し、馬車はそのまま城門をくぐる。


 町へ足を踏み入れた瞬間、アスターは思わず足を止めた。


 石畳の大通り。


 両脇には二階建ての建物が並び、露店からは焼き立てのパンや香辛料の香りが漂ってくる。


 鍛冶屋の槌音。


 子どもたちの笑い声。


 呼び込みをする商人の声。


 村とはまるで違う。


 町そのものが生き物のように動いていた。


「珍しいですか」


「はい」


 アスターは素直に答える。


「こんなにたくさんの人を、一度に見たことがありません」


 神官は小さく笑った。


「王都へ着けば、もっと驚きますよ」


 教会が手配した宿へ荷物を置いた後、神官は言った。


「夕刻まで自由にして構いません。ただし、町の外へは出ないように」


「分かりました」


 宿を出ると、アスターは町を歩き始めた。


 見るものすべてが新鮮だった。


 果物を山積みにした露店。


 大道芸人の周りに集まる子どもたち。


 武具店に並ぶ磨き上げられた剣。


 ふと、一軒の鍛冶屋の前で足を止める。


 店先には数本の剣が立て掛けられていた。


 その中の一本へ、自然と視線が吸い寄せられる。


「……?」


 刃には欠け一つない。


 しかし、柄に巻かれた革だけが不自然に新しい。


 鍔には細かな傷。


 鞘の口にも擦れた跡。


 それなのに、革だけが新調されている。


 ――何かがおかしい。


 その時だった。


「おい!」


 店の奥から怒鳴り声が聞こえた。


「誰だ、勝手に触るな!」


 怒声とともに、一人の若い職人が飛び出してくる。


 だが、その視線はアスターではなく、店先で剣を手に取っていた旅人へ向けられていた。


「返せ!」


「見てるだけだろ!」


 二人の声が通りへ響き、人だかりができ始める。


 アスターはその様子を黙って見つめていた。


 怒鳴り合う二人ではなく、その足元へ落ちた一本の革紐を。


 そして、店の壁に寄り掛けられたもう一本の剣を。


 違和感の正体に気付いたアスターは、小さく息を吐いた。


「……そういうことか」


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


 人だかりは、瞬く間に大きくなっていった。


「盗もうとしたんだろ!」


 若い職人が旅人の腕を掴む。


「違うと言っている!」


 旅人も負けじと声を張り上げた。


「店主に許可をもらって見ていただけだ!」


「嘘をつくな!」


 二人の間へ割って入ろうとする者はいない。


 周囲の人々は、ただ遠巻きに様子を窺っていた。


 アスターは視線を落とす。


 石畳に転がる一本の革紐。


 旅人の足跡。


 店先に並ぶ剣。


 そして、職人が「返せ」と叫んだ剣。


「すみません」


 静かな声だった。


 怒鳴り合っていた二人が、同時に振り向く。


 若い職人が眉をひそめた。


「何だ、お前」


 アスターは剣を指差す。


「その剣、本当にその人が持っていたものですか」


「何を言ってる?」


「確認しただけです」


 職人は苛立ったように舌打ちした。


「見れば分かるだろ!」


 アスターは首を横に振る。


「僕には、違うように見えます」


 ざわめきが広がる。


「どういう意味だ?」


 旅人が尋ねる。


 アスターは店先に立て掛けられたもう一本の剣へ歩み寄った。


「この二本、柄の革は同じ新しい物です」


 誰も気付いていなかった。


 近くまで歩いた職人が目を見開く。


「でも」


 アスターは一本ずつ持ち上げる。


「こちらは鍔に細かな傷があります」


 もう一本を掲げる。


「こちらにはありません」


 人々が覗き込む。


 確かに違う。


「旅人さんが持っていたのは、こっちです」


 そう言って剣を差し出した。


「さっき落ちた革紐は、この剣の鞘を留めるものです」


 旅人は目を丸くする。


「……あっ!」


 慌てて腰を見る。


 鞘から革紐がなくなっていた。


 アスターは石畳の革紐を拾い、旅人へ渡す。


「長さも同じです」


 旅人は紐を結び直し、ゆっくり息を吐いた。


「本当だ……」


 若い職人は呆然と立ち尽くしている。


「じゃあ俺は……」


「剣を取り違えたんです」


 アスターは責めるような口調ではなかった。


「怒鳴り声で急いでしまって、確認する前に思い込んだだけです」


 沈黙が流れる。


 やがて、店の奥から白髪の男が姿を現した。


 鍛冶屋の主人だった。


「何の騒ぎかと思えば……」


 主人は二本の剣を見比べると、深くため息をつく。


「見習い」


「は、はい!」


「昨日、お前が柄革を巻き替えた二本だ」


 若い職人の顔から血の気が引いた。


「そうか……同じ革を使ったから……」


 主人は旅人へ深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。こちらの不手際でした」


 旅人は苦笑しながら首を振る。


「勘違いなら仕方ないさ」


 張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。


 周囲からも安堵の息が漏れる。


「坊主、よく分かったな」


 誰かが感心したように声を掛ける。


 アスターは少し困ったように笑う。


「剣を見ていたら、少し違和感があっただけです」


 鍛冶屋の主人は腕を組み、じっとアスターを見つめた。


「名は?」


「アスターです」


「私はドルフという」


 主人は静かに頷く。


「物を見る目がある」


 店内へ戻ると、一振りの小さなナイフを持ってきた。


 鞘は質素だが、刃はよく研がれている。


「旅の途中なら役に立つ」


「ですが――」


「礼だ」


 ドルフはそれ以上言わせなかった。


「金はいらん。困った時は困った者同士で助け合うものだ」


 アスターは少し迷い、丁寧に頭を下げる。


「……ありがとうございます」


 ナイフを受け取ると、不思議と胸が温かくなった。


 村を出てから、自分は恐れられるだけの存在ではないと教えてくれる人が、少しずつ増えている。


 宿へ戻る道すがら、夕暮れの鐘が町に響いた。


 茜色に染まる石畳を歩きながら、アスターは父から託された短剣と、今受け取った小さなナイフを見比べる。


 二つの刃は形も役割も違う。


 それでも、どちらも誰かの想いとともに自分の手へ渡ってきたものだった。


 アスターは静かに鞘へ収める。


 その手つきは、旅立ちの日よりも少しだけ迷いがなかった。

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