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第四話 街道の先へ

 馬車の揺れが、一定の調子で身体を揺らしていた。


 石畳を離れた車輪は土の街道を踏みしめ、小さな振動を繰り返す。


 窓から見える景色は、ゆっくりと流れていく。


 見慣れた森はもう遠い。


 畑も、小川も、村の教会も見えなくなっていた。


 アスターは膝の上に置いた小さな袋へ視線を落とす。


 青い糸で縫われた、不格好なお守り。


 リナから受け取ったものだ。


 親指でそっと布をなぞり、再び窓の外へ目を向ける。


「眠れませんか」


 向かいに座る年嵩の神官が静かに尋ねた。


「少し」


「故郷が恋しいですか」


 アスターはすぐには答えなかった。


 恋しい。


 そう言えば簡単だった。


 けれど、恋しいのは景色なのか、人なのか、それとも昨日までの自分なのか、自分でも分からなかった。


「まだ、整理できていません」


 神官は穏やかに頷く。


「急ぐ必要はありません」


 それきり会話は途切れた。


 沈黙は気まずくなかった。


 むしろ馬車の軋む音が、不思議と心を落ち着かせてくれる。


 しばらく進むと、馬車がゆっくりと速度を落とした。


「どうしました」


 御者へ神官が声を掛ける。


「前が詰まっています」


 馬車を降りると、街道には十数台の荷馬車が列を作って止まっていた。


 商人たちが困った様子で集まっている。


「何かあったのですか」


 神官が近くの商人へ尋ねる。


「橋だよ」


 白髭の商人がため息をつく。


「昨日の雨で橋板が外れちまった」


 街道の先を見ると、小さな木橋の中央が大きく沈み込んでいた。


 確かに、あのまま荷馬車が渡れば崩れるだろう。


 御者たちは橋の前で立ち往生している。


「修理を待つしかありませんな」


 神官が呟く。


 しかし、アスターは橋ではなく、その横を流れる川を見つめていた。


 水は澄んでいる。


 流れも穏やかだ。


 岸辺には丸い石が並び、対岸までの幅もそれほど広くない。


「……」


 視線を少し上げる。


 橋のさらに上流には、大きな柳の木。


 根元は浅瀬になっている。


 その周囲だけ、水の色が明るかった。


 アスターは川沿いを歩き始めた。


「アスター?」


 神官が呼ぶが、少年は返事をしない。


 川岸にしゃがみ込み、小枝を一本拾う。


 水へ差し入れると、水位を確かめるように何度か動かした。


 やがて立ち上がる。


「神官様」


「はい?」


「荷を降ろせば、この川は渡れます」


 周囲の商人たちが一斉に振り返った。


「何を言ってる坊主」


 一人の御者が苦笑する。


「橋が壊れたから困ってるんだ」


「橋を使わなくても渡れます」


 アスターは静かに川を指差した。


「百歩ほど上流です」


 商人たちは顔を見合わせる。


「川底に大きな石があります。馬の脚が沈まない深さです」


「見ただけで分かるのか?」


「流れ方が違います」


 そう言って川面を見つめる。


「水が左右へ分かれているので、下に障害物があります。水の色も浅い場所だけ変わっています」


 誰も口を開かなかった。


 年嵩の神官は、少年の横顔をじっと見つめている。


 その観察力は、偶然ではない。


 村で荷車を直した時と同じ目だった。


「……試してみる価値はあるかもしれません」


 神官がそう言った瞬間、商人たちの視線が再びアスターへ集まった。


 昨日まで村で「星命を持たない少年」と恐れられていたその少年は、今、街道の真ん中で初めて「一人の人間」として見られようとしていた。


 商人たちは互いに顔を見合わせた。


「本当に渡れるのか?」


「馬を流されたら終わりだぞ」


 不安げな声が飛び交う。


 誰もが決断できずにいた。


 その時、一人の壮年の商人が腕を組んだまま前へ出る。


「どうせ橋は渡れねぇ。待っていても日が暮れるだけだ」


 日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。


 長年、街道を行き来してきたことが一目で分かる男だった。


「坊主」


 男はアスターを見る。


「案内してみろ」


「はい」


 アスターは頷き、川沿いを歩き始めた。


 百歩ほど進むと、柳の大木の前で足を止める。


「ここです」


 川幅は橋の下よりもわずかに広い。


 しかし、水面は穏やかで、ところどころに川底の石が透けて見えていた。


 アスターは一本の枝を拾い、岸辺から水の中へ差し入れる。


「深い場所でも、馬の腹までは届きません」


 さらに数歩下流へ移動する。


「こちらは流れが速いので避けた方がいいです」


 男は川へ入り、自ら水深を確かめる。


 膝。


 腿。


 そして、それ以上は深くならない。


「……なるほど」


 男はゆっくりと振り返った。


「荷を半分降ろせ!」


 その一声で、止まっていた商人たちが一斉に動き始める。


 荷車から荷物を降ろし、人の手で運び、空になった荷車を馬が引いて川を渡る。


 最初の一台が無事に対岸へ着くと、小さな歓声が上がった。


「渡れた!」


「本当に通れるぞ!」


 続く荷車も、次々と浅瀬を越えていく。


 やがて街道に並んでいた列は少しずつ動き始めた。


 足止めされていた旅人たちの表情にも安堵が広がる。


 壮年の商人は濡れた裾を払いながら、アスターの前へ歩み寄った。


「助かった」


 短い言葉だった。


 だが、その声音には素直な感謝が込められていた。


「橋しか見てなかった」


 男は苦笑する。


「壊れた橋をどうするか、そればかり考えていたよ」


 アスターは静かに首を振る。


「僕も最初は橋を見ていました」


「そうなのか?」


「でも、渡ることが目的なら、橋じゃなくてもいいと思っただけです」


 男は目を丸くし、やがて声を上げて笑った。


「ははっ!」


 その笑い声につられるように、周囲の商人たちの表情も和らいでいく。


「坊主、名前は?」


「アスターです」


「俺はガレスだ。またどこかで会ったら、一杯奢ってやる」


「まだ十五歳ですよ」


「違いねぇ!」


 再び笑いが起きた。


 その様子を見ていた年嵩の神官は、隣に立つ若い神官へ小さく囁く。


「見ましたか」


「はい」


「あの少年は、誰よりも先に『橋』ではなく『道』を見ていました」


 若い神官は黙って頷く。


 村で聞いていた話とは違う。


 目の前にいるのは、不吉な少年ではない。


 物事をあるべき形で見つめられる、稀有な観察眼を持った少年だった。


 再び荷物を積み終えた馬車が動き出す。


 ガレスは手を大きく振った。


「王都へ行くなら気を付けろ!」


「ありがとうございます」


 アスターも一礼を返す。


 馬車へ乗り込み、窓から流れる景色を見つめた。


 村を出てから初めて、自分を恐れずに接してくれた人がいた。


 それだけで、胸の奥に小さな温もりが灯る。


 年嵩の神官は、その横顔を静かに見つめていた。


「アスター殿」


「はい」


「一つ、お聞きしてもよろしいですか」


「何でしょう」


「あなたは、どうしてあの浅瀬に気付けたのですか」


 アスターは少しだけ考え、窓の外へ目を向ける。


「橋が壊れて困っている人は、みんな橋を見ていました」


 穏やかな口調で続ける。


「だから僕は、橋以外を見ました」


 その一言に、神官は目を閉じる。


 ――この少年の価値は、星命では測れない。


 そんな思いが胸をよぎる。


 馬車は再び王都への街道を進み始めた。


 その先に待つ運命を、アスターはまだ知らない。

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