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第三十九話 軍師と指揮官

 製材所の監視を始めて四日目。


 ベルグラードの朝は静かだった。


 東街道を行き交う荷馬車が少しずつ戻り、市場にも笑い声が聞こえ始めている。


 だが、アスターは安堵していなかった。


「敵は静かすぎます。」


 詰所の机に置かれた報告書を閉じる。


 昨日まで毎日のように届いていた襲撃報告が、今日は一件もない。


 何も起きない。


 それが、かえって不自然だった。


「副隊長!」


 斥候が息を切らして飛び込んでくる。


「製材所です!」


「人影がありません!」


 アスターは顔を上げた。


「全員ですか。」


「はい!」


「荷車もありません!」


 ガイウスはすぐに剣を腰へ差す。


「行くぞ。」


 森へ着いた頃には、昼を回っていた。


 製材所は静まり返っている。


 扉は開いたまま。


 床には新しい足跡が残っていた。


 兵士が周囲を確認する。


「戦った跡はありません。」


「荷も残っていません。」


 アスターは建物の中央へ歩いた。


 床板の上に、一枚の地図が置かれている。


 ベルグラード周辺の簡単な地図だった。


 そこには赤い印が一つ。


 橋でも街でもない。


 森の中。


 誰も使わない古い見張り台だった。


「罠だな。」


 ガイウスが低く呟く。


「はい。」


 アスターは地図を見つめたまま答える。


「ですが。」


 彼は静かに息を吐いた。


「敵は、私たちにここを見つけさせたかった。」


 その時だった。


 外で鳥が一斉に飛び立つ。


 兵士たちが武器を構える。


 森の奥。


 一人の男が木陰から姿を現した。


 黒い外套。


 顔を隠す仮面。


 腰に剣を差している。


 しかし、その手は柄に触れていなかった。


「初めて会うな。」


 落ち着いた声が森へ響く。


 兵士たちが一歩前へ出る。


 ガイウスが手で制した。


「貴様が指揮官か。」


 男は否定も肯定もしない。


 ただ、アスターを見つめていた。


「君が星なき軍師か。」


 アスターの表情は変わらない。


「私を知っているのですか。」


「知らない。」


 男は静かに首を振る。


「だが、盤の動きが変わった。」


「それだけで十分だ。」


 短い沈黙が流れる。


 森を吹き抜ける風だけが、木々を揺らしていた。


「兵を返せ。」


 ガイウスが一歩踏み出す。


 男は視線をガイウスへ向ける。


「返す。」


「ただし、今ではない。」


 兵士たちの間に緊張が走る。


「ふざけるな。」


「ふざけてはいない。」


 男は静かに続ける。


「私は兵を殺していない。」


「必要がないからだ。」


 アスターはその言葉に反応した。


「必要がない?」


「死体は憎しみを生む。」


「生きた兵は迷いを生む。」


 ガイウスの拳が強く握られる。


 しかし、アスターは男の目を見続けていた。


 そこには嘘がなかった。


 この男は、本気でそう考えている。


「あなたは街を落としたいのではない。」


 アスターが静かに言う。


「街を変えたい。」


 男は初めて口元だけで笑った。


「ようやくそこまで来たか。」


 その瞬間だった。


 森の奥から短く笛が鳴る。


 男は踵を返す。


「待て!」


 兵士が追おうとする。


「追うな!」


 アスターの声が森へ響いた。


 兵士たちは足を止める。


 男は振り返らない。


 木々の奥へ消える直前、ただ一言だけ残した。


「次は、お前が選べ。」


 静寂が戻る。


 誰も動かなかった。


 ガイウスがアスターを見る。


「なぜ止めた。」


 アスターは森を見つめたまま答えた。


「今、追えば勝てたかもしれません。」


「ですが。」


 ゆっくりと振り返る。


「私は今、敵を初めて理解しました。」


 兵士たちは首を傾げる。


 アスターは地図を畳み、胸へしまった。


「敵は勝つためだけに戦っているのではありません。」


「自分が正しいと証明するために戦っています。」


 ガイウスは静かに頷いた。


「なら。」


「ああ。」


 アスターの瞳には迷いがなかった。


「次は、敵の作戦ではなく。」


「敵の信念を崩します。」


 森を抜ける風は冷たかった。


 だが、アスターの胸には初めて、敵の姿がはっきりと刻まれていた。


 戦うべき相手は、剣ではない。


 一人の軍師だった。

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