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第四十話 受け継がれるもの

 夜明け前。


 ベルグラードを包む霧は深かった。


 しかし城壁の上に立つ兵士たちの視線には、迷いがなかった。


 狼煙が一本、森の向こうで上がる。


 それは敵の動きを知らせる合図だった。


「来ます。」


 見張り兵の声に、ガイウスは静かに剣を抜く。


 その隣で、アスターは地図ではなく、前線を見つめていた。


 兵士たちが息を整え、槍を握る。


 誰かの喉が鳴る音まで聞こえた。


 その瞬間、アスターは初めて理解する。


 報告書には、この沈黙は書かれていなかった。


 兵士が戦う前に感じる恐怖。


 互いの呼吸。


 張り詰めた空気。


 それらは現場に立たなければ決して分からないものだった。


「副隊長。」


 若い兵士が震える声で呼ぶ。


「……怖いです。」


 アスターはその兵士の肩へ手を置いた。


「私もです。」


 兵士は驚いたように顔を上げる。


「怖くない人はいません。」


「だから、一人で抱えなくていい。」


 短い言葉だった。


 だが兵士はゆっくりとうなずき、槍を握り直した。


 やがて森から敵兵が姿を現す。


 大軍ではない。


 だが統制の取れた隊列だった。


 ガイウスが低く命じる。


「第一隊、前へ。」


 兵士たちが動く。


 その瞬間、敵の隊列も左右へ分かれた。


「来るぞ!」


 怒号が響く。


 矢が飛ぶ。


 盾へ突き刺さる乾いた音。


 悲鳴。


 土煙。


 すべてが一瞬で混ざり合う。


 アスターは兵士たちの動きを目で追った。


 机の上では一本の線だった隊列が、現場では絶えず形を変えていく。


「伝令!」


「左翼が押されています!」


 伝令の叫びに、アスターは迷わなかった。


「第三隊を左へ。」


「予備隊は動かさない。」


 命令が伝わる。


 兵士たちは走る。


 だが、一人の伝令が転び、文書を落とした。


 その姿を見た瞬間、アスター自身が駆け出した。


 文書を拾い、次の隊へ走る。


 息が切れる。


 鎧は重い。


 胸が苦しい。


 それでも兵士たちは、これを何度も繰り返している。


 その重みが、初めて体へ刻まれた。


 戦いは一刻ほど続いた。


 やがて森の奥で短い笛が鳴る。


 敵兵たちは一斉に後退を始めた。


「追撃しますか!」


 兵士が叫ぶ。


 アスターは首を横へ振る。


「追わない。」


「目的は街を守ることです。」


 兵士たちは隊列を保ったまま、その場へ止まる。


 敵は森へ消えていった。


 静寂が戻る。


 戦いは終わった。


 ガイウスは剣を納め、ゆっくりとアスターの前へ歩いてくる。


「どうだった。」


 アスターは前線を見渡した。


 負傷者の手当をする兵士。


 互いの無事を確かめ合う仲間。


 泥にまみれた盾。


 折れた槍。


「……報告書では分かりませんでした。」


 ガイウスは小さく笑う。


「そうだ。」


「戦場は紙の上にはない。」


 二人は並んで城壁を見上げた。


 朝日がベルグラードを照らしている。


 昨日と同じ景色。


 それでもアスターには違って見えた。


「隊長。」


「何だ。」


「ようやく分かりました。」


「兵は命令で動くのではありません。」


「隣の仲間を信じるから動くんですね。」


 ガイウスは静かに目を細めた。


「そして、その信頼を背負うのが指揮官だ。」


 しばらくの沈黙。


 風が城壁を吹き抜ける。


 やがてガイウスは、ゆっくりと口を開いた。


「アスター。」


「もう俺がお前に教えることはない。」


 アスターは深く頭を下げた。


 その姿を見つめながら、ガイウスは穏やかに笑う。


「次は、お前が誰かに教える番だ。」


 ベルグラードの鐘が高らかに鳴り響く。


 街には再び人々の声が戻り始めていた。


 パン屋は窯へ火を入れ、鍛冶屋は槌を振るい、子どもたちは城門の前を駆け回る。


 戦いは終わった。


 守られたのは城壁ではない。


 人々の日常だった。


 アスターはその光景を静かに見つめる。


 星なき少年だった自分は、まだ軍神ではない。


 だが今日、初めて軍師ではなく、一人の指揮官として戦場へ立った。


 その一歩が、未来へ続く道になることを、彼はまだ知らなかった。

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