第三十八話 偽りの伝令
ベルグラードの朝は、まだ薄い霧に包まれていた。
城壁の見張りが交代する頃、アスターは詰所の机に広げた地図を見つめていた。
製材所。
監視地点。
街道。
そして、西門から街へ入った男。
一本一本の線が、ようやく一つの形になり始めていた。
「隊長。」
エレナが静かに口を開く。
「例の男ですが、宿へ入りました。」
「宿を出た後は?」
「市場を歩き、鍛冶屋へ立ち寄っています。」
ガイウスが眉をひそめる。
「商人らしい動きだな。」
「はい。」
アスターは報告書を閉じた。
「だからこそ不自然です。」
二人が視線を向ける。
「本物の商人なら、利益を求めて動きます。」
「ですが、彼は誰とも値段の話をしていません。」
「商品にも興味を示していない。」
エレナが小さく息をのむ。
「情報だけを集めています。」
アスターは頷いた。
「敵は、この街の空気を知りたい。」
「だから彼を捕らえてはいけません。」
ガイウスは腕を組んだ。
「泳がせるのか。」
「はい。」
「ですが、ただ泳がせるだけでは意味がありません。」
アスターは机の上へ小さな木札を置いた。
「こちらから見せる情報を選びます。」
兵士たちは顔を見合わせた。
「見せる……情報?」
「ええ。」
アスターは静かに笑う。
「敵は情報を盗みに来ています。」
「なら、盗ませる情報もこちらで決めればいい。」
その日の午後。
ベルグラードでは妙な噂が流れ始めた。
「北の橋の補修が終わるらしい。」
「来週には商隊が再開するそうだ。」
「守備隊も増えるらしい。」
市場では商人が話し、宿屋では旅人が耳を傾ける。
どれも確かな話のようでいて、誰も出どころを知らない。
その噂は、やがて例の男の耳にも届いた。
男は何気ない顔で宿を出る。
市場を抜け、人気のない路地へ入る。
そこで一度だけ立ち止まり、懐から小さな布切れを取り出した。
近くの木の枝へ結び付ける。
それだけだった。
数分後。
一羽の鷹が舞い降りる。
布をくわえ、そのまま北の空へ飛び去った。
遠くの鐘楼から、その様子を望遠筒で見ていたアスターは静かに息を吐く。
「やはり鳥を使っています。」
ガイウスが隣へ立つ。
「追えるか。」
「追いません。」
「なぜだ。」
「鳥は敵の目です。」
「ですが。」
アスターは空を見上げる。
「目は、見たいものしか見ません。」
翌朝。
監視していた斥候が駆け戻った。
「報告します!」
「北街道で敵の監視兵が動きました!」
「橋へ向かっています!」
兵士たちがざわめく。
ガイウスはアスターを見る。
「成功か。」
アスターは首を横に振った。
「まだです。」
「敵は噂を信じました。」
「ですが、本当に知りたいのは次です。」
その時だった。
東門の見張り兵が息を切らせて飛び込んでくる。
「隊長!」
「東街道です!」
「敵の襲撃が止みました!」
部屋が静まり返る。
「止んだ?」
「はい!」
「今朝から村への襲撃がありません!」
アスターはゆっくりと地図へ視線を落とした。
敵は橋へ兵を向けた。
その間だけ、東街道は静かになった。
それは小さな変化だった。
だが、初めてベルグラードが敵の動きを変えた証でもある。
「隊長。」
アスターは静かに言う。
「敵は動きました。」
「次は。」
地図の中央へ駒を置く。
「こちらが先に動きます。」
ガイウスはその駒を見つめ、小さく笑った。
「ようやく盤上を握ったな。」
アスターは答えなかった。
敵はまだ健在だ。
兵も戻っていない。
勝利には程遠い。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
戦場はもう、敵だけの盤ではない。
ベルグラードもまた、自ら未来を選び始めていた。




