第二十三話 待つ者
夜明けの鐘が、ベルグラードの朝を告げた。
守備隊の詰所では、昨夜の森で集めた報告が机いっぱいに並べられている。
地図。
街道の見取り図。
襲撃時刻を書き込んだ紙。
折れた矢。
木片。
どれも決定的な証拠ではない。
それでも、アスターは一つずつ並べ替えていた。
ガイウスは腕を組み、その様子を眺める。
「夜通し見ていたのか。」
「少しだけ整理していました。」
少し、という言葉とは裏腹に、机の上は昨夜とは別物だった。
襲撃地点を示す赤い印の横には、小さな石が置かれている。
「これは?」
「商隊の規模です。」
ガイウスは目を細めた。
「大きい商隊ほど襲われていない……?」
「はい。」
アスターは頷く。
「逆に、小規模で護衛が少ない商隊ほど狙われています。」
「盗賊なら、大きな獲物を狙うはずだ。」
「だから違います。」
アスターは一本の木片を手に取る。
「敵は利益ではなく、失敗しないことを優先しています。」
ガイウスは黙り込む。
それは兵士の考え方だった。
確実に勝てる相手だけを選ぶ。
無理はしない。
だから半年も捕まらなかった。
詰所の窓から、市場が見える。
荷車は少しずつ増えていた。
それでも、商人たちの顔には笑顔がない。
一度失われた信用は、簡単には戻らない。
アスターは市場へ目を向けたまま口を開く。
「守備隊は、いつも襲撃された後に動いています。」
「……ああ。」
「だから、敵に主導権があります。」
ガイウスは苦く笑った。
「言われなくても分かっている。」
「ですが。」
アスターは振り返る。
「一度だけ、こちらから待ちましょう。」
部屋が静まる。
「待つ?」
「敵を追いません。」
「敵が選びそうな荷を、こちらが用意します。」
兵士の一人が身を乗り出す。
「囮か。」
「はい。」
アスターは静かに答えた。
「ただし、敵を倒すためではありません。」
「敵が何を見て、何を捨てるのか。それを知るためです。」
ガイウスは地図へ目を落とす。
半年間、自分たちは敵を追い続けてきた。
だが、この青年は違う。
敵に追わせようとしている。
沈黙の後、ガイウスは大きく息を吐いた。
「面白い。」
その一言に、部屋の空気が変わる。
「囮を出す。」
「だが一つ条件がある。」
アスターは顔を上げた。
「必ず全員を生きて帰らせろ。」
「そのための作戦です。」
短い返答だった。
しかし、その言葉には迷いがなかった。
昼を過ぎる頃、一台の荷馬車がベルグラードを出発した。
荷台には樽と木箱が積まれている。
護衛は二人。
商人に扮した兵士が手綱を握っていた。
街道は静かだった。
夏の陽射しが土を照らし、乾いた風が草を揺らしている。
遠くで荷車の車輪が軋む音だけが聞こえた。
森の入口。
荷馬車は速度を落とす。
御者役の兵士が小さく咳払いをした。
それが合図だった。
街道の両側。
茂みの奥では守備隊が息を潜めている。
ガイウスは剣の柄に手を置いた。
視線だけが森を探る。
その少し後ろで、アスターは木の幹にもたれ、街道全体を見渡していた。
風が吹く。
木々が揺れる。
何も起こらない。
十分。
二十分。
三十分。
鳥が枝を渡る音だけが響く。
兵士の一人が小声で漏らす。
「来ませんね。」
ガイウスは答えない。
そのときだった。
アスターが静かに口を開く。
「帰りましょう。」
兵士たちが一斉に振り向く。
「まだ待てるぞ。」
ガイウスが言う。
アスターは首を横に振った。
「今日は来ません。」
「なぜだ?」
「私たちが待っていることを知っています。」
沈黙が落ちた。
兵士たちは森を見回す。
姿はない。
気配もない。
「見られていた……?」
「はい。」
アスターは森の奥へ目を向けた。
「昨日、私たちは見張り場所を見つけました。」
「なら、敵も私たちを見ていたはずです。」
ガイウスは森を見つめたまま苦く笑う。
「一手遅かったか。」
「いいえ。」
アスターは静かに否定する。
「敵が街道を捨てたことが分かりました。」
「それだけで十分な収穫です。」
帰路についた一行は、誰も敗北とは口にしなかった。
作戦は失敗した。
だが、敵も動きを変えた。
それは、こちらの存在を無視できなくなった証でもある。
夕暮れ。
ベルグラードへ戻ったアスターは、地図の前に立った。
赤い印を一つ消す。
そして、新しく一本の線を引いた。
「敵は道を変える。」
「なら、私たちも地図を書き換えます。」
その言葉に、ガイウスは小さく笑った。
「ようやく戦いが始まったな。」
窓の外では、西日が城壁を赤く染めていた。
その光は、明日には別の街道を照らすことになる。




