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第二話 居場所を失った朝

 朝日が窓から差し込んでいた。


 昨日と同じ陽の光。


 昨日と同じ鳥のさえずり。


 それなのに、アスターには世界そのものが違って見えた。


 布団から起き上がり、静かに居間へ向かう。


 扉を開けると、母が朝食を並べていた。


「……おはよう」


 小さな声だった。


 返事をしたのは母だけだった。


「お、おはよう」


 父は食卓に座ったまま、顔を上げない。


 いつもなら「薪割りは終わったのか」「今日は畑を手伝え」と何か一つは話しかけてくる。


 しかし今日は違う。


 茶碗を持つ音だけが部屋に響いていた。


 アスターは黙って席に着く。


 三人で食卓を囲んでいるのに、誰も口を開かない。


 耐え切れなくなった母が、ようやく言葉を絞り出した。


「教会の方が……あとで来るそうよ」


「そう」


「心配しなくても、きっと何かの間違いだから」


 その言葉に、自分自身を納得させようとする響きが混じっていることを、アスターは聞き逃さなかった。


「母さん」


「なに?」


「間違いじゃなかったら?」


 母の肩が震える。


 答えは返ってこなかった。


 その代わり、父がゆっくりと立ち上がる。


「畑へ行く」


 短く言い残し、家を出て行った。


 閉まる扉の音が、妙に大きく聞こえた。


 アスターは冷めたスープへ目を落とす。


 味は分からなかった。


◇ ◇ ◇


 食事を終えたアスターは、薪を割るため裏庭へ出た。


 斧を振り下ろす。


 乾いた音が響く。


 もう一度。


 さらにもう一度。


 何も考えず体を動かしている方が楽だった。


「アスター」


 聞き慣れた声に振り返る。


 そこにはリナが立っていた。


 昨日と同じ服装。


 しかし、その表情だけは昨日とは違う。


「来ちゃだめだった?」


 遠慮がちに尋ねる。


 アスターは首を横に振った。


「来てくれて嬉しい」


 その一言に、リナは少しだけ安心したように笑う。


「昨日ね、お母さんと喧嘩したの」


「どうして?」


「アスターに近づくなって言われたから」


 風が二人の間を吹き抜ける。


 リナは俯いたまま、小石を蹴った。


「意味が分からないよ。昨日まで何も変わらなかったのに」


「……うん」


「アスターは何も悪くないじゃない」


 その言葉が胸に染みる。


 昨日から初めて、自分を責めない言葉だった。


「ありがとう」


 アスターは静かに笑った。


「でも、無理はしない方がいい」


「無理なんかじゃない!」


 思わず声を荒らげたリナは、すぐに唇を噛む。


「ご、ごめん……」


「謝らなくていい」


 アスターは薪割り用の丸太へ腰を下ろした。


「人は知らないものを怖がる。それは仕方ないことだと思う」


「仕方なくないよ!」


「昨日まで『星命がない人』なんて誰も知らなかった。だから、どう接していいか分からないんだ」


「それでも……」


 リナは何かを言いかけ、言葉を飲み込む。


 その時だった。


「リナ!」


 鋭い声が響く。


 村の通りの向こうから、リナの父親が足早に近づいてくる。


 険しい表情のまま娘の腕を掴んだ。


「何をしている」


「お父さん!」


「帰るぞ」


「嫌!」


「今すぐ帰れ!」


 周囲の家々から、人々が静かに様子を窺っていた。


 誰も止めようとはしない。


 誰も声を掛けようとはしない。


 アスターはゆっくり立ち上がると、リナの父親へ頭を下げた。


「すみませんでした」


「……」


「僕が引き止めたわけではありません」


 その言葉を聞いたリナの父親は、一瞬だけ複雑な表情を浮かべた。


 だが、何も言わず娘の手を引く。


「アスター!」


 連れて行かれるリナが振り返る。


「また来るから!」


 返事をする前に、その姿は角を曲がって消えた。


 静けさが戻る。


 アスターは空を見上げる。


 青く澄んだ空には、一つの雲も浮かんでいない。


 昨日までと同じ空。


 けれど、自分だけが昨日とは違う世界に取り残されていた。


 その時、家の前に一台の馬車が止まった。


 扉に刻まれた紋章を見た瞬間、アスターは目を細める。


 教会の紋章だった。


 黒い法衣をまとった二人の神官が、静かに馬車から降り立つ。


「アスター殿」


 年嵩の神官が一礼する。


「教会本部より、あなたへお話があります」


 その声には、昨日の神官たちとは違う、張り詰めた緊張が滲んでいた。


 教会の紋章が刻まれた馬車の前で、アスターは静かに二人の神官を見つめていた。


 年嵩の神官は、周囲を一瞥する。


 村人たちは家の窓や戸口から様子を窺っていたが、誰一人として近づこうとはしない。


「ここでは話しづらい。少し、お時間をいただけますか」


「……分かりました」


 アスターは短く頷く。


「父と母にも聞いてもらった方がいいでしょうか」


 神官は一瞬だけ言葉に詰まり、小さく首を横へ振った。


「いえ。まずは、あなた一人で」


 その返答に、アスターは違和感を覚えた。


 星命判定の結果について話すだけなら、家族を外す理由はない。


 何か別の目的がある。


 そう考えながら、馬車へ歩み寄った。


◇ ◇ ◇


 馬車は村外れの小さな礼拝堂で止まった。


 普段は旅人が休息に使うだけの古い建物だ。


 中へ入ると、木の椅子が数脚並ぶだけの質素な空間が広がっていた。


「お掛けください」


 促されるまま椅子へ腰を下ろす。


 向かいに座った神官は、しばらく黙っていた。


 やがて深く息を吸い、静かに口を開く。


「昨日の判定は、間違いではありません」


 予想していた言葉だった。


 それでも胸の奥がわずかに痛む。


「あなたには、星命(せいめい)が存在しません」


「……はい」


「ですが」


 神官は言葉を続ける。


「実は教会にも、この事例は記録として残っていません」


 アスターは眉をひそめた。


「つまり」


「我々も初めてなのです」


 神官の表情には恐れではなく、戸惑いがあった。


 知らない。


 だから判断できない。


 その事実に、アスターは少しだけ肩の力を抜いた。


「では、僕は危険なんですか」


「分かりません」


「災いになる?」


「分かりません」


「病気でも?」


「……分かりません」


 返ってくるのは、すべて同じ答えだった。


 分からない。


 その一言だけだった。


 アスターは静かに息を吐く。


「村の人たちは、分からないから怖がっているんですね」


 神官はゆっくり頷いた。


「残念ながら」


「僕も逆の立場なら、同じだったかもしれません」


 その言葉に、若い神官が思わず顔を上げた。


「恨まないのですか」


「恨んでも、星命は生えてきませんから」


 一瞬の沈黙。


 そして年嵩の神官は、小さく笑った。


 昨日から初めて見る、穏やかな笑みだった。


「あなたは不思議な方ですね」


「よく言われます」


 少しだけ、礼拝堂の空気が和らいだ。


◇ ◇ ◇


 しかし、その空気は一枚の書状によって変わる。


 年嵩の神官は封蝋の押された羊皮紙を机へ置いた。


「本日は、もう一つ用件があります」


 封を切り、中身を読み上げる。


「教会本部の決定により、あなたを王都へ招きます」


「……王都?」


「はい」


 アスターは目を瞬かせた。


 村を出たことすらない自分が、王都へ。


 あまりにも唐突な話だった。


「どうしてですか」


「調査のためです」


 率直な言葉だった。


「あなたが何者なのか。我々にも分かりません。だから、王都で学者や高位神官による調査を受けていただきたい」


「拒否したら?」


 神官は静かに視線を伏せる。


「強制はいたしません」


 そこで一度言葉を切り、続けた。


「ですが、この村に留まることは、あなたにとっても村人にとっても苦しい時間になるでしょう」


 その言葉を否定できなかった。


 昨日まで挨拶を交わしていた人々。


 笑い合っていた子どもたち。


 その全員が、自分を見る目を変えてしまった。


 ここに居続けても、以前と同じ日々は戻らない。


「……少し考えさせてください」


「もちろんです」


 神官は立ち上がる。


「三日後、もう一度参ります」


◇ ◇ ◇


 礼拝堂を出ると、夕日が村を茜色に染めていた。


 帰り道、アスターは足を止める。


 丘の上から見える小さな村。


 生まれ育った景色。


 いつか帰ってくるものだと、疑ったこともなかった場所。


「帰れるのかな」


 その呟きは、風に溶けて消えた。


 その頃、村の外れでは一羽の黒い鳥が空へ舞い上がっていた。


 その足には、小さく丸められた紙が括り付けられている。


 宛先は、王都。


 そこには、たった一行だけ記されていた。


 **『星命を持たぬ少年、発見』**


 その短い報告が、まだ何も知らない王都を静かに揺り動かそうとしていた。

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