第三話 旅立ちの朝
夜明け前の村は、静かだった。
鳥の声もまだ聞こえない。
薄青く染まり始めた空の下、アスターは一人、庭先で薪を割っていた。
乾いた音が、冷えた空気に溶けていく。
今日で、この音を聞くのも最後になるかもしれない。
三日前。
教会から告げられた王都への招致。
昨日、アスターは受け入れると返事をした。
理由は単純だった。
この村に残っても、自分にも村人にも苦しい時間が続くだけだと理解したからだ。
斧を置くと、小さな足音が聞こえた。
「もう起きてたのね」
母だった。
手には湯気の立つ木の椀がある。
「体が冷えるでしょう」
「ありがとう」
椀を受け取り、一口飲む。
温かな野菜の香りが、張り詰めていた心を少しだけほぐした。
母は隣に立ったまま、空を見上げる。
「小さい頃ね」
ぽつりと呟く。
「あなたは、星を見るのが好きな子だった」
アスターは黙って耳を傾ける。
「夜になると庭へ飛び出して、『今日は昨日より星が多い』って嬉しそうに話していたわ」
母は小さく笑う。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「まさか、その星に人生を左右されるなんて……思わなかった」
その言葉には、後悔とも悲しみともつかない感情が滲んでいた。
「母さん」
「なに?」
「僕は、大丈夫だよ」
穏やかな声だった。
「まだ何も失ってない」
母は首を横に振る。
「違うの」
震える声が返ってくる。
「私は……あなたを守れなかった」
その一言で、アスターはようやく気づいた。
母は、自分が星命を持たなかったことを責めているのではない。
息子が村中から恐れられ、何もしてやれない自分を責め続けていたのだ。
アスターは少し考え、母の隣に立つ。
「覚えてる?」
「え?」
「転んで膝を擦りむいた時、母さんが言ってくれたこと」
母は不思議そうな顔をした。
「『傷は治る。でも、立ち上がることを諦めたら、本当に終わり』って」
懐かしい言葉だった。
母は目を見開き、やがて小さく笑った。
「そんなこと、言ったかしら」
「うん」
「僕はまだ立ってる」
アスターは前を向く。
「だから、終わってない」
母は唇を噛み、静かに頷いた。
その時、家の戸が開く音がした。
父だった。
仕事着のまま、無言で近づいてくる。
アスターは自然と背筋を伸ばした。
父は何も言わず、一振りの短剣を差し出す。
革の鞘は使い込まれ、柄には無数の傷が刻まれていた。
「これは……」
「祖父の形見だ」
父は短く答える。
「若い頃、森へ入る時に使っていた」
アスターは恐る恐る受け取る。
ずしりとした重みが掌へ伝わる。
「武器としては古い」
父は短剣を見つめたまま続ける。
「だが、刃はまだ生きている」
少しだけ間を置き、初めてアスターの目を真っ直ぐ見た。
「お前も、そうであれ」
父らしい、不器用な言葉だった。
だが、その一言だけで十分だった。
昨日まで伏せられていた視線が、ようやく息子へ向けられた。
アスターは深く頭を下げる。
「ありがとう、父さん」
父は照れ隠しのように鼻を鳴らすと、踵を返した。
「……馬車は昼前に来る」
それだけ言い残し、再び家の中へ戻っていく。
アスターは短剣を握りしめた。
手の中の温もりは、祖父から父へ、父から自分へと受け継がれてきた時間の重みだった。
そして、その温もりを胸に刻む間もなく、村の入口から馬のいななきが響く。
予定より早く、一台の馬車がゆっくりと姿を現した。
馬車はゆっくりと家の前で止まった。
御者台から年嵩の神官が降り立ち、アスターへ一礼する。
「お約束の日です」
「はい」
アスターは小さく頷いた。
荷物は多くない。
着替えが数着。
母が持たせてくれた保存食。
父から受け継いだ短剣。
それだけだった。
神官は荷物を受け取ると、静かに馬車へ積み込む。
その間、家の前には少しずつ村人たちが集まり始めていた。
誰も話しかけない。
見送るためではない。
ただ、この異例の出来事を見届けようとしているだけだった。
重たい沈黙が流れる。
やがて、アスターは村人たちへ向き直った。
深く頭を下げる。
「今まで、お世話になりました」
その声に返事はなかった。
風が草を揺らす音だけが聞こえる。
しばらくして、一人の老人が杖をつきながら前へ出た。
荷車を直した、エド老人だった。
「……アスター」
老人は周囲を気にするように視線を巡らせる。
そして、小さな声で続けた。
「ありがとう」
たった一言だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
アスターは微笑み、もう一度頭を下げる。
「お元気で」
老人は何も言えず、ただ頷いた。
その様子を見ていた村人たちは、気まずそうに目を逸らす。
誰もが胸のどこかで理解していた。
この少年は、何も悪いことをしていない。
それでも恐れは消えない。
それが、人というものだった。
その時、人混みをかき分けるように一人の少女が駆けてきた。
「アスター!」
リナだった。
肩で息をしながら立ち止まる。
「間に……合った」
後ろから彼女の両親も追いかけてくる。
しかし、今度は無理に止めようとはしなかった。
リナは胸元から小さな袋を取り出す。
青い糸で丁寧に縫われた、不格好なお守りだった。
「これ……」
「お守り?」
「うん」
照れくさそうに笑う。
「昨日、一晩で作ったの」
アスターは両手で受け取る。
少し歪んだ縫い目。
不揃いな糸。
それでも、一針一針に込められた想いが伝わってくる。
「ありがとう」
自然と笑みがこぼれた。
リナは涙を堪えながら言う。
「王都へ行っても……」
一度言葉を切り、真っ直ぐアスターを見つめる。
「自分を嫌いにならないで」
その一言が胸に深く刺さる。
アスターは少し驚いた表情を浮かべ、やがて静かに頷いた。
「約束する」
「それと」
リナは涙を拭いながら笑う。
「いつか絶対、帰ってきて」
アスターは村を見渡した。
小さな教会。
畑。
石畳の道。
幼い頃から見慣れた景色。
ここは、自分が育った場所だ。
苦い思い出だけではない。
笑った日も、泣いた日も、すべてここにある。
「帰ってくるよ」
その約束が果たされる日が来るのか、自分にも分からない。
それでも今は、そう答えたかった。
神官が静かに声をかける。
「参りましょう」
アスターは馬車へ乗り込む。
扉が閉まる。
馬がゆっくりと歩き始めた。
車輪が石畳を軋ませる音が、次第に遠ざかっていく。
窓から見える村も、小さくなっていく。
リナは姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。
アスターも、最後まで手を振り返した。
やがて村が丘の向こうへ消える。
その瞬間、アスターは静かに目を閉じた。
故郷を失ったのではない。
故郷を胸に刻み、新しい道を歩き始めるのだ。
馬車は街道を進む。
王都まで、およそ七日。
その七日の旅が、後に大陸の歴史を変える軍師、その最初の一歩になることを――
まだ、誰も知らなかった。




