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第一話 星なき少年

 夜明け前の空に、星はなかった。


 雲ひとつない夜空のはずなのに、まるで誰かが空から星だけを拭い去ったように、黒い天蓋がどこまでも広がっている。


 その空を見上げ、一人の少年は静かに目を細めた。


「……今日も、見えないか」


 小さく呟き、肩に背負った薪を持ち直す。


 少年の名は、アスター。


 十五歳。


 村では「物好きな少年」として知られていた。


 薪割りをしていても空を見上げ、畑を耕していても鳥の鳴き声に耳を澄ませる。


 何かを探しているようで、何を探しているのか誰にも分からない。


 本人ですら、分かっていなかった。


 村へ戻る坂道を歩いていると、前方から荷車を押す老人の姿が見えた。


「おや、エド爺さん」


「おお、アスターか」


 老人は笑って手を上げたが、その笑顔は少しだけ引きつっていた。


 右肩が下がっている。


 左足をかばうように歩いている。


 荷車の左車輪は泥が詰まり、重心が大きく傾いていた。


 アスターは老人の前へ回り込む。


「貸してください」


「いや、大丈夫だ」


「大丈夫じゃありません。あと百歩も歩けば車輪が外れます」


「……え?」


 老人は首を傾げる。


 アスターは膝をつき、車輪を支える木製の留め具を指差した。


「ここにひびが入っています。昨日の雨で木が膨らみ、今朝の冷え込みで縮んだ。だから少しずつ緩んでいます」


 老人は目を丸くした。


「そんなことまで分かるのか」


「見れば分かります」


 アスターは近くに落ちていた細い枝を削り、留め具の隙間へ差し込む。


 車輪を軽く揺すると、軋んでいた音が止まった。


「応急処置です。村へ着いたら交換してください」


「助かったよ。本当に、お前はよく見ておる」


 老人は何度も礼を言いながら去っていく。


 その背中を見送り、アスターは空を見上げた。


 やはり、星は見えない。


「アスター!」


 広場の方から元気な声が飛んできた。


 振り向くと、同い年くらいの少女が大きく手を振っている。


 栗色の髪を肩まで伸ばした、快活そうな少女だった。


「リナ」


「もう探したんだから! 今日は何の日か忘れたの?」


「忘れてないよ」


「本当に?」


星命(せいめい)判定の日」


「なら早く行こう!」


 リナはアスターの腕を掴み、そのまま広場へ引っ張っていく。


 村中の人々が教会へ集まり始めていた。


 今日は、十五歳を迎えた子どもたちが神の祝福を受け、自らに宿る星命を知る日。


 それは人生で最も大切な儀式だった。


 《剣星》なら騎士。


 《炎星》なら魔導兵。


 《治癒星》なら教会。


 星命は、その者の未来を示す神託であり、この世界では誰も逆らうことのできない運命だった。


「アスターは何だと思う?」


 歩きながらリナが尋ねる。


「何が?」


「だから、星命!」


「考えたことない」


「うそ。少しくらいあるでしょ?」


 アスターは少し考え、首を横に振った。


「星命が何であっても、僕は僕だから」


 リナは呆れたように笑う。


「そういうところ、本当に変わってる」


「そうかな」


「普通はね、『騎士になりたい』とか『魔導士になりたい』とか思うものなの」


「じゃあ、リナは?」


「もちろん《治癒星》!」


 胸を張って答える。


「怪我をした人を助けられるから」


 その笑顔は眩しかった。


 アスターは少しだけ口元を緩める。


「リナらしいね」


 二人が教会前へ着く頃には、広場は人で埋め尽くされていた。


 祭壇の上には、透明な水晶が静かに鎮座している。


 村人たちは期待に満ちた表情で子どもたちを見守っていた。


 神官が一歩前へ出る。


「これより、星命判定の儀を執り行います」


 厳かな声が広場へ響く。


 静寂が訪れた。


 最初の子どもの名前が呼ばれる。


 祭壇へ向かう小さな背中を見つめながら、リナがそっと呟いた。


「ねぇ、アスター」


「なに?」


「来年も、その先も……私たち、ずっと友達だよね?」


 その問いに、アスターは少しだけ不思議そうな顔をした。


「もちろん」


 迷いなく答える。


 リナは安心したように笑い、小さく息を吐いた。


 その笑顔が、この日を境に失われることを。


 まだ二人とも、知る由もなかった。


 判定は、一人、また一人と進んでいく。


 祭壇へ上がった子どもが水晶へ手を添えるたび、柔らかな光が広場を包んだ。


「《剣星》です!」


 神官が告げると、広場から歓声が上がる。


 少年の父親は目を潤ませ、母親は両手を合わせて神へ感謝を捧げた。


 次の少女は《風星》。


 その次は《治癒星》。


 判定が下るたびに、人々は笑い、祝福し、未来を語り合う。


 アスターは、その様子を静かに眺めていた。


 判定を受けた子どもたちの表情よりも、それを見守る大人たちの顔を見ていた。


 期待。


 安堵。


 誇らしさ。


 誰もが、子どもの未来を星命へ委ねている。


 まるで、自分で選ぶ必要など初めからないと言わんばかりに。


「次――リナ」


 呼ばれた少女は、小さく深呼吸をして祭壇へ向かう。


 震える指先が水晶へ触れた瞬間。


 淡い緑色の光が水晶いっぱいに広がった。


「《治癒星》です」


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、広場は今日一番の歓声に包まれた。


「やった!」


 リナは思わず飛び跳ね、涙ぐみながら笑う。


 村人たちも口々に祝福を送った。


「教会へ進めるぞ!」


「立派な治癒士になるんだ!」


 リナは振り返り、人混みの向こうにいるアスターを見つける。


 嬉しそうに大きく手を振った。


 アスターも小さく手を振り返す。


 その笑顔を見て、リナは安心したように笑った。


「次――アスター」


 広場が静まる。


 少年はゆっくりと祭壇への階段を上がった。


 神官が優しく頷く。


「力を抜いて、水晶へ手を」


 アスターは静かに右手を伸ばした。


 透き通る水晶に指先が触れる。


 広場に、沈黙が落ちた。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 ……何も起こらない。


 神官は水晶を見つめた。


 光らない。


 微かな輝きすら生まれない。


「……?」


 神官は眉をひそめ、祈りの言葉を唱え直す。


 それでも、水晶は沈黙を守ったままだった。


 ざわり、と人々が顔を見合わせる。


「故障か?」


「そんなことがあるのか?」


 神官は深く息を吸い、再びアスターへ告げる。


「もう一度、手を」


「はい」


 アスターは素直に従う。


 しかし、結果は変わらない。


 神官の顔色が、目に見えて青ざめていく。


 祭壇の脇に控えていた助祭たちも落ち着きを失い始めた。


「聖典を」


 一冊の古びた本が運ばれてくる。


 神官は慌ただしく頁をめくり、何かを確かめる。


 やがて、その手が止まった。


「……そのような」


 掠れた声だった。


 神官はゆっくりと顔を上げる。


 震える唇から、信じ難い言葉がこぼれ落ちた。


「この者には……


 星命(せいめい)が、ありません」


 誰も声を出さなかった。


 風だけが、教会の鐘楼を吹き抜けていく。


「……星命が、ない?」


 誰かが呟いた。


 その一言をきっかけに、広場の空気が一変する。


「そんなことが……」


「聞いたことがない」


「神に見放されたのか」


「不吉だ……」


 祝福の場は、一瞬で恐怖の場へ変わった。


 さっきまで笑っていた村人たちが、後ずさる。


 母親は幼い子どもを抱き寄せた。


 老人は胸元で祈りを捧げる。


 子どもたちは、怯えた目でアスターを見つめていた。


 アスターは何も言わない。


 ただ、人々を見ていた。


 恐怖。


 困惑。


 嫌悪。


 そして、安堵。


 ――自分ではなくてよかった。


 その感情だけは、誰も隠せていなかった。


「違う……」


 小さな声が響く。


 リナだった。


「アスターは、そんな人じゃない!」


 彼女は人混みを押し分け、祭壇へ駆け寄ろうとする。


 しかし、その腕を母親が強く掴んだ。


「行ってはいけません!」


「でも!」


「離れなさい!」


 リナは振り返る。


 そこにいた母親の顔は、今まで見たことがないほど強張っていた。


 恐れている。


 アスターを。


 その事実が、少女の胸を締めつけた。


 アスターは小さく首を横に振る。


 来なくていい。


 そう伝えるように。


 リナは唇を噛み締め、その場に立ち尽くした。


 祭壇を降りるアスターの前から、人々は静かに道を開ける。


 歓迎ではない。


 近づきたくないという意思表示だった。


 誰一人として、少年に触れようとはしない。


 教会を出たアスターは、一度だけ振り返った。


 朝日を浴びる教会は、いつもと何一つ変わらない。


 変わってしまったのは、そこにいる人々だった。


 その時だった。


 教会の二階。


 普段は閉ざされている円形の窓の奥で、一人の老人が静かに立ち上がる。


 白髪の老神官は、遠く歩き去る少年を見つめ、小さく目を見開いた。


「……馬鹿な」


 震える手で古びた羊皮紙を広げる。


 そこには、消えかけた文字で、ただ一行だけ記されていた。


 『星なき者が現れる時、世界は運命を失う。』


 老人は羊皮紙を握り締める。


 その予言が、千年もの間、一度も現実にならなかったことを知っていた。


 だからこそ理解した。


 今日という日は、祝福の日ではない。


 千年続いた歴史が、静かに軋み始めた日なのだと。

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