第十六話 残された一手
市場の混乱は、夕刻には落ち着きを取り戻していた。
生活物資は無事に届けられ、人々は安堵の表情を浮かべている。
王都に大きな混乱は起きなかった。
だが、調査局の執務室に漂う空気は重かった。
「市場は守れた。」
アルベリウスは静かに口を開く。
「だが、それだけだ。」
机には各地区から届いた報告書が並ぶ。
市場周辺。
西街道。
南門。
いずれも大きな異常はない。
ベテラン調査官が腕を組んだ。
「結局、敵は何をしたかったんだ。」
誰も答えられない。
アスターは報告書を一枚ずつ読み返していた。
市場。
荷馬車。
到着時刻。
御者の証言。
どれにも決定的な違和感はない。
だが、一つだけ引っかかる点があった。
「エレナさん。」
「はい。」
「西街道以外の報告書はありますか。」
エレナは棚から別の束を取り出した。
「こちらです。」
アスターは素早く目を通す。
北門。
東門。
南門。
どれも平常どおり。
しかし、一枚だけ目が止まる。
「これは……。」
配送許可証の確認記録。
本来なら毎日あるはずの記録が、一時間だけ空白になっている。
「この時間、担当者は。」
「交代です。」
エレナが答える。
「昼前の引き継ぎですね。」
「その時間だけ、確認記録がありません。」
アルベリウスが近づく。
「偶然か。」
アスターは首を横に振った。
「偶然なら、他の日にも同じ空白があります。」
「ですが、この日だけです。」
静かな沈黙が流れる。
アスターは記録を地図の横へ置いた。
「敵は市場を狙っていたわけではありません。」
「では、何を。」
「確認を止めたかった。」
ベテラン調査官が眉をひそめる。
「確認だと。」
「はい。」
「一時間だけ確認が止まれば、その間に誰でも王都へ入れます。」
部屋の空気が変わる。
アルベリウスは報告書を見つめたまま問う。
「つまり、荷馬車の遅延は。」
「目くらましです。」
「私たちの視線を市場へ集めるための。」
エレナは小さく息をのむ。
「その間に、別の荷が……。」
アスターはゆっくり頷いた。
「王都へ入っています。」
誰も言葉を発しなかった。
市場を守った。
それは間違いではない。
だが、敵はその動きすら計算に入れていた。
アルベリウスは静かに命じる。
「北門の記録をすべて集めろ。」
「交代時間に門を通った者、荷、許可証、すべて洗い直す。」
調査官たちは一斉に動き始める。
その背中を見送りながら、アスターは記録の空白を見つめていた。
一時間。
敵にとっては、十分すぎる時間だった。
夕闇が王都を包み始める頃、調査局には各門の記録が集められていた。
机の上には、配送許可証、入門記録、巡回報告書が山のように積まれている。
調査官たちは黙々と書類をめくり続けた。
「交代時間の記録だけを抜き出しました。」
エレナが束を差し出す。
アスターは一枚ずつ目を通す。
人の出入り。
荷車の台数。
運送業者。
どれも一見すると不自然な点はない。
だが、同じ名前が何度も現れていた。
「この運送業者……。」
「三つの門を利用しています。」
エレナが頷く。
「通常なら担当区域が違うため、同日に利用することはほとんどありません。」
アルベリウスが書類を受け取る。
「偽名か。」
「断定はできません。」
アスターは静かに答えた。
「ですが、不自然です。」
調査官の一人が駆け込んでくる。
「局長!」
「確認が取れました!」
「記録にある運送業者の倉庫へ向かいましたが、すでに空でした!」
部屋がざわめく。
「逃げられたか……。」
ベテラン調査官が低く呟く。
アルベリウスは地図を見つめる。
「荷は。」
「ありません。」
「帳簿も焼かれていました。」
アスターはゆっくり目を閉じる。
敵は証拠を残さない。
それでも、一つだけ残ったものがある。
「局長。」
「何だ。」
「敵は、証拠を消しました。」
「それがどうした。」
「消す必要があったということです。」
アルベリウスはわずかに目を細めた。
アスターは続ける。
「市場を混乱させるだけなら、証拠を消す必要はありません。」
「つまり、目的は別にあります。」
「……王都の中か。」
「はい。」
敵は外から王都を乱そうとしているのではない。
すでに王都の中で動いている。
その事実だけが、はっきりと浮かび上がった。
エレナが静かに口を開く。
「では、これからは王都の中を調べるのですね。」
アスターは首を横に振る。
「違います。」
「敵が動く場所を調べます。」
「人ではなく、目的を追います。」
その言葉に、調査官たちは互いに顔を見合わせた。
事件を追うのではない。
敵の狙いを追う。
それは、これまでの調査局にはなかった発想だった。
アルベリウスはゆっくりと立ち上がる。
「調査方針を変更する。」
「王都全域の重要施設を再点検。」
「物流、保管庫、軍施設、行政機関。」
「敵が利益を得る場所を洗い出せ。」
全員が一斉に動き出す。
執務室に残ったアスターは、王都の地図を静かに見つめていた。
敵は、まだ姿を見せない。
だが、その足跡は確かに王都の内側へ続いている。
その先で待つものが何であれ、次に先手を取るのは自分たちだ。
アスターは静かに地図の一点へ印を付けた。
そこは、まだ誰も調べていない場所だった。




