第44話 静かすぎる場所
雪はさらに強くなっていた。
風に巻き上げられた雪が視界を白く染め、数十メートル先にあるはずの外壁さえ、時折ぼんやりと霞んで見える。
ギルベルトは谷の斜面に身を伏せ、じっとその時を待っていた。
見張り塔。
正門。
巡回兵。
そして、裏手の扉。
先ほどから何度も同じ順番で視線を巡らせ、兵士たちの動きを頭へ叩き込んでいる。
巡回兵が角を曲がった。
見張り塔の兵士が、吹きつける雪を避けるように顔を背ける。
風が強くなった。
――今だ。
ギルベルトは立ち上がった。
白い外套が風を孕む。
雪の斜面を駆け上がるのではなく、身体を低くしたまま、一定の速度で進んでいく。
急げば足を取られ、転べば終わりだ。ここは、慎重且つ確実に。
防寒長靴のスパイクを雪へ食い込ませ、足場を確かめながら距離を詰めていく。
外壁まで、五十メートル。
三十。
二十。
そのとき、見張り塔から声がした。
ギルベルトはその場へ伏せる。
白い外套を雪の上へ広げ、顔を腕の内側へ伏せた。――雪景色に擬態させるように。
「……ひどくなってきたな」
「ああ。今夜は吹雪くぞ」
風に千切れながら、兵士たちの声が届く。
「第三班は?」
「まだ戻らんらしい」
「またか。この森じゃ珍しくもない」
「後で捜索を出すそうだ」
靴音が遠ざかる。
ギルベルトは顔を上げた。
(まだ、知られていない)
第三班が戻らないことは把握されている。だが、自分の存在までは知られていない。
少なくとも、現場の兵士たちは。
再び動きだす。
外壁へ辿り着くと、そのまま壁に身体を寄せた。
石造りの壁は雪よりも冷たく、外套越しにも冷気が伝わってくる。
ここからは、見張り塔の死角だ。
ギルベルトは壁沿いを進んだ。
十歩。
二十歩。
やがて、先ほど双眼鏡で確認した場所へ辿り着く。
壁と同じ色に塗られた鉄扉が見えた。
装飾も、取っ手も小さい。
存在を知らなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうな扉だ。
ギルベルトは周囲を確認し、近くに積まれた木箱の陰へ身体を滑り込ませた。
あとは鍵束を持った兵士が来るまで待つ。
雪が外套の肩へ積もっていく。
三分。
寒さで指先の感覚が薄れていく。
ギルベルトは手袋の中で、ゆっくりと指を動かした。
ふと十代の頃を思い出す。
あの頃は、こうして待つことが怖かった。
敵が来るまでの間。
銃声が鳴るまでの間。
そして、相手を完全に殺したと把握するまで――。
時間だけが長く引き伸ばされ、その間に何度も逃げ出したくなった。
だが今は違う。
待つべき時に待てるし、撃つべきでない時には撃たない。
それを教えたのは、他の誰でもない、戦場で失ったものの数だった。
かすかな靴音が聞こえ、ギルベルトの意識が現在へ戻る。
(一人か)
鍵束の触れ合う音が鳴った。
――来た。
男が角を曲がる。
ギルベルトは動かずに待つ。
兵士はこちらに気付かず、鉄扉の前へ立った。
鍵束を持ち上げ、その中の一つを選ぶ。
鍵を差し込むと、カチ、という音と共に鉄扉が開いた。
ギルベルトは頭の中で数え始める。
一。
兵士が中へ入る。
二。
三。
扉はまだ開いたままだ。
四。
ギルベルトが木箱の陰から出る。
五。
音を立てず、雪を蹴る。
六。
兵士が鉄扉へ手を掛ける。
七。
ギルベルトは身体を滑り込ませる。
八。
扉が閉まった。
暗闇が落ちる。
ギルベルトは壁へ背をつけた。目が暗さに慣れるまでは動かない。
先ほど入っていった兵士の靴音が、暗闇の通路の奥へ遠ざかっていく。
まだ気付かれていない。
少しずつ闇に目が慣れてきたところで、ゆっくりと周囲を見ると、奥へ細い通路が続いていた。
剥き出しの石壁に、一定間隔で魔石灯が埋め込まれている。外から見えた建物の大きさに比べれば、通路は随分と狭い。
右手には木箱が積み上げられていた。
木箱の蓋から覗く銃弾と火薬。そして、手入れ用の油の匂いが充満している。
予想通り、武器庫へ続く搬入口らしい。
ギルベルトは狙撃銃の残弾を確認した。
今のうちに銃弾を補充することもできる。
だが、手をつけなかった。
誰かが在庫を確認すれば、すぐに侵入を悟られる。その方が命取りに繋がる。
銃弾の補充は必要になった時でいい。
ギルベルトは通路の奥へ視線を向けた。
靴音はもう聞こえない。
(……よし)
進もうとしたが、自然と足が止まる。
……別の音が届いてきたからだ。
カツ。
カツ。
規則正しい足音。
右奥から一人。
さらに遠くから二人の足音。
その向こうで、何かを載せた台車が動いている。
車輪の軋み。
扉の開閉。
低く交わされる人の声。
ギルベルトは目を閉じて、耳に意識を集中させる。
音だけで、頭の中に通路を描いていく。
右へ延びる廊下。
途中に扉が三つ。
左側にも別の通路。
階段らしき場所から、足音が下へ遠ざかっていく。
(地下がある)
エルネスタがいるとすれば、どこだ。
外から見えた人影が本当に彼女なら、少なくとも一度は地上階にいたことになる。
ここは研究施設だ。
王冠。
検査。
クロードが何を目的としているのかは分からない。
ギルベルトは奥歯を噛んだ。
(考えろ。焦るな。……まずは、この建物の構造を掴む)
その時だった。
ギルベルトの眉が、わずかに寄った。
……何かがおかしい。
そう思い、もう一度耳を澄ませる。
足音に、台車を引く音。人の話し声と、魔石灯が微かに唸る音。
たしかに音は聞こえている。
だが――。
(……少ない)
外から感じた違和感と同じだった。
ここは、広域な規模の研究施設だ。
研究員、警備兵、作業員。
収容されている人間が多くいるはず。
ならばもっと多くの音が重なっていていい。
なのに、ある地点を境に音が途切れている。
ギルベルトはゆっくりと顔を上げた。
通路の先――そこから向こうだけが、不自然なほど静かだった。
壁が厚いのか、防音されているのか。
あるいは――。
ギルベルトは通路へ向けて一歩進む。
また一歩。
違和感を覚えながらも、静寂へ近づいていく。
耳の奥が、妙な感覚に包まれた。
聞こえないのではない。
音が、そこへ入っていかない。
ギルベルトは足を止める。
目の前には何もなく、ただ廊下が続いているだけだ。
足元の小石を拾い、試しに通路の先へ転がした。
ころ……ころころ……。
石が転がっていく。
自分から離れるにつれて、音が遠ざかる。
そして、ある場所を越えた瞬間。
音が、消えた。
ギルベルトの瞳が細くなる。
小石は確かに見えている。
転がって、転がって、石壁へ当たった。
だが、音がしない。
(……何だ、これは)
ギルベルトは動かなかった。
視線だけを巡らせるも、特に不自然な点はない。
だが、違和感は拭えない。
ギルベルトは耳がよく、それで何度も死地を潜り抜けてきた。
直感が言っている。
この静かすぎる違和感を、見逃してはいけないと。
罠か、異能か。
脳裏に、薄らと笑みを携えたクロードの顔が浮かぶ。
温室で、エルネスタの力を封じた男。
ギルベルト自身は、クロードの異能を直接見てはいない。
だがセレスティーヌから、エルネスタの重力操作が届かなかった、と聞いている。
もし、あの男が何らかの方法で空間そのものへ干渉できるのなら――。
ギルベルトは狙撃銃へ手を添えた。
そのとき。
静寂の向こう側で、人影が動いた。
白衣を着た男が一人だけ。
男はこちらへ背を向けたまま、何かを書き留めている。
ギルベルトは息を潜めた。
男が何かを察したように、振り返る。
視線がこちらへ向いた。
目が合った。
ギルベルトの右手が、素早く銃へ伸びる。
だが、男は何の反応も示さず、再び手元の紙へ視線を落とす。
(……見えていない?)
ギルベルトは眉を寄せた。
数メートルしか離れていないし、壁に隠れてもいない。向こうも、暗闇に目が慣れているだろう。
見落とすはずがない。
白衣の男は歩き出し、ギルベルトの方へ向かってくる。
(やはり、見えていない……)
一歩、二歩。
男の靴が床を踏んでいるのに、足音が一切聞こえない。
やがて男は、先ほど小石の音が消えた辺りまで来た。
そして。
カツ。
突然、靴音が戻った。
同時に、男がぎょっと目を見開く。
その目はギルベルトの姿を捉えた。
「な――」
声を上げるより早く、ギルベルトは男の懐へ入った。
片手で口を塞ぎ、身体を壁へ押しつける。男の喉元へ銃剣を添えた。
「声を出さないでください」
低く囁いた。
白衣の男は抵抗せず、何度も頷く。
「一つだけ聞きます」
ギルベルトは静かに男を見る。
「ここへ連れて来られた、金髪の少女はどこですか」
男の顔から血の気が引いた。視線が、通路の奥へ向く。
ギルベルトもそちらを見る。
先ほどまで男が居た――音のしない場所だ。
「……地下、です」
男の震える声が零れた。
「地下の、特別検査区画に……」
ギルベルトの手に力が入る。
「案内してください」
男が息を呑んだ。
その直後。
カァン。
カァン。
カァン。
施設のどこかで、低い鐘が三度鳴った。
「……見つかった」
白衣の男がぽつりと呟く。
ギルベルトは男を見下ろした。
「何がです」
男の唇が震えた。
「侵入者がいる時の、警報です」
静寂の向こうで、一斉に人影が動き始めた。




