第45話 近づく音
カァン。
カァン。
カァン。
三度目の鐘が鳴り終わるより早く、施設内の空気が変わった。
遠くで扉が開く。
複数の靴音が重なり、怒鳴り声が飛び交う。
「全区画を封鎖しろ!」
「侵入者は一名!」
「地上階にいる! 逃がすな!」
ギルベルトは白衣の男から銃剣を離さないまま、周囲へ耳を澄ませた。
右から三人。左から二人。
階段を上がってくる足音が四人。
音から距離を測った。
走ってこられても追いつかれるまでには、十分な距離がある。
「地下へ行く道は」
「そ、その先です」
男が震える指で、静寂に覆われた通路を示した。
「突き当たりを右へ……その先に階段があります。ですが、特別検査区画へ入るには――」
「歩いてください」
「え?」
「時間がありません」
ギルベルトは男の背中を押した。
「普段通りに」
男が青ざめた顔で頷き、歩き出す。
ギルベルトもその後ろへ続く。
数歩進んだところで、先ほど小石の音が消えた境界へ足を踏み入れる。
その瞬間、世界から音が消えた。
(……音が完全に消えた?)
けたたましく鳴っていた警報も、張り上げていた兵士たちの声も、自分の足音さえ聞こえない。
ギルベルトは思わず足を止めた。
口元へ手を当て、息を吐く。
白い息が見える。だが、呼吸音は聞こえない。
胸へ手を当てると、確かに鼓動している。それなのに、何も聞こえなかった。
生まれてから一度も経験したことのない静寂だった。
ギルベルトは眉間に皺を寄せる。
戦場でも、森でも、耳を頼りに生きてきた。
エルネスタの傍らでも、常に彼女の音を聞いてきた。
音は常に、自分より先に世界の変化を教えてくれた。
だが、今。その感覚を、根こそぎ奪われている。
前を歩いていた研究員が振り返り、口を動かした。
何かを言っているのに、聞こえない。
ギルベルトは首を横へ振る。
研究員は自分の口元を指差し、それから耳を指した。
向こうも聞こえていないようだ。
――この中では、声も届かない。
ならば、目を使うだけだ。音がなければ戦えないわけではない。
研究員の肩越しに見える扉。曲がり角に、床に映る影。魔石灯の揺れ。
視界へ入るものを一つずつ拾っていく。
十数歩進んだところで、研究員が突然立ち止まった。
ギルベルトも止まる。
男の顔が強張っている。
その視線を追うと、曲がり角から、銃口が現れた。――警備兵だ。
ギルベルトは研究員の肩を掴み、後ろへ引く。
同時に銃口が火を噴いた。
閃光。
音はない。いや、聞こえない。
石壁が弾け、細かな破片が宙を舞う。
ギルベルトは壁際へ身体を滑らせた。
奇妙な感覚だ。
銃声のない銃撃。
敵が引き金を引く瞬間も、弾丸が壁へ当たる瞬間も、目で見なければ発射されたのか分からない。
もう一度、銃口が覗く。
――撃たれる。
ギルベルトはその軌道から身体を外し、距離を詰めた。
狙撃銃は使わない。使うには、狭すぎる。
背負ったまま、腰の銃剣を抜いた。
警備兵が二発目を撃つより先に懐へ入り、銃を持つ手首を掴んで捻る。
男の顔が苦痛に歪んだ。口を動かしているが、声は聞こえない。
腹部へ肘を入れ、身体が折れたところで首筋へ一撃を落とす。
音もなく、兵士が床へ崩れた。
無音。
ギルベルトは倒れた男を見下ろした。
自分がどれほど大きな音を立てたのかさえ、分からない。
だが……。
ギルベルトは視線を上げる。
音を奪われたのは、自分だけではない。
同じく、敵も周囲の音が聞こえていないようだった。つまり条件は同じだ。
いや。
これまで音に頼ってきた自分を仕留めるための場所だとすれば――こちらが適応することまでは、想定しているだろうか。
連れていた研究員が怯えた顔でこちらを見ていた。
その視線で我に返ったギルベルトは、倒れた兵士の鍵束を取り、男へ歩み寄る。
「地下」と、唇だけを動かす。
研究員は何度も頷いた。
二人は再び歩き始める。
通路の突き当たりを右へ曲がると、地下へ続く石階段があった。
研究員が壁に取り付けられた鉄板へ鍵を差し込む。そして、回す。
やはり音は聞こえない。だが、鉄扉がゆっくりと開いた。
階下から青白い光が漏れてくる。
研究員がギルベルトを見る。
その顔には、先ほどまでとは別の躊躇いがあった。
行きたくない。そう言っているように見えた。
ギルベルトは階下へ視線を向ける。
この先にエルネスタがいる。
一段ずつ、階段へ足を掛ける。
一段。また一段。
白い死神は、音のない地下へ降りていった。
◇
「立てますか」
白衣の男に声をかけられ、エルネスタは寝台から身を起こした。
右手首の枷はすでに外されている。
代わりに両手首を前で揃えられ、細い革紐で結ばれていた。
「どちらへ連れて行くおつもりですの」
「検査室です」
「検査室で、何を?」
男は何も答えない。
男が扉を開くと、廊下には二人の警備兵が待っていた。
重力操作を発動させても、逃げるのは難しそうだ。
エルネスタは視線だけで辺りを見回しながら、歩き出した。
石造りの廊下が続き、同じような扉がいくつも並んでいる。
扉には番号が書かれていた。
一。
二。
三。
四。
何のための部屋なのだろう……。
五番目の扉を通り過ぎたとき、中から何かが聞こえた。
エルネスタはぴたりと足を止める。
「どうしました」
「……今、何か」
耳を澄ますが、何も聞こえない。
「歩いてください」
背後の兵士に促され、再び足を動かす。
だが胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。
人の……女性の声だった気がする。
もしかして、この施設には、自分以外にも誰かが囚われているのだろうか。
やがて、廊下の先に大きな鉄扉が見えた。
エルネスタの前を歩いていた白衣の男が、ポケットから鍵を取り出す。
そのとき。
カァン。
カァン。
カァン。
施設全体へ鐘が鳴り響いた。
白衣の男が動きを止める。
警備兵たちが顔を見合わせた。
「何の音ですの?」
エルネスタが尋ねるも、誰も答えない。
だが、男たちの表情だけで分かる。この鐘の音は、予定されていたものではないと。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。
「侵入者だ!」
奥から、兵士らしき男の声が響いた。
エルネスタの心臓が大きく跳ねる。
「地上階に侵入者! 警備班は――」
そこから先は、兵士たちの慌てふためく声に掻き消された。
……侵入者。
エルネスタはその言葉を胸の中で繰り返す。
(まさか……でも……そんなはずは)
『離れていても、あなたの音は聞こえています』
聞き慣れた低い声が蘇る。
(ギル……!)
エルネスタは顔を上げた。
「歩け」
警備兵に肩を軽く押される。
いつもなら、よろめいていただろう。
だが、その足は床をしっかりと踏んだ。
(ギル……)
胸の奥で名前を呼ぶ。
彼がいる。この建物の中の、どこかに。もちろん根拠などない。
それでも、エルネスタには分かった。
ギルベルトが、自分を迎えに来てくれた……。
口元が、ほんの少し緩む。
「何を笑っている」
警備兵が訝しげに尋ねた。
エルネスタは、小さな肩を揺らして振り返る。
「いいえ」
藍色の瞳が、まっすぐ男を見上げた。
「わたくし、もう大丈夫ですわ」
「……そうか」
意味が分からないといった顔で兵士は答えた。
少し歩くと、廊下の奥に部屋が見えてきた。
兵士が鉄扉を開くと、白く照らされた検査室が広がっていた。
中央に置かれた一台の寝台。
その周囲には、硝子管と見慣れない器具がいくつも並び、壁際には巨大な魔石が淡い光を放っている。
そして、その脇に見覚えのある男――クロードが立っていた。
「どうやら、来たようですね」
「…………」
エルネスタの足が止まる。
クロードは手元の懐中時計を閉じた。
「思っていたより、少し早かった」
「……ギルですの?」
クロードは何も答えない。
エルネスタは革紐で縛られた両手を、ぎゅっと握り合わせる。
「ギルに何をするつもりですの」
「何も」
クロードは静かに笑った。
「彼が大人しくしているうちは」
エルネスタは口を噤んだまま、クロードを鋭く見据えた。
クロードは、ベッド脇に待機していた白衣の男へ目配せする。
「始めましょう」
「ですが、侵入者が――」
「だからです」
クロードはエルネスタを見遣った。
「彼がここへ辿り着く前に、王冠を開く」
「分かりました」
白衣の男は壁際に据えられた操作盤を操作する。
すると巨大な魔石へ、青白い光が走った。低い唸りが検査室を満たしていく。
エルネスタの背筋に冷たいものが走る。無意識に一歩後ずさった。
その頃。
彼女のいる場所から幾つもの石壁を隔てた階段を、一人の男が地下へ降り続けていた。
その足音は、まだ誰にも聞こえなかった。




