第44話 潜入
黒塗りの馬車が、雪煙を上げながら森の向こうへ消えていく。
ギルベルトは双眼鏡を下ろさず、その姿が完全に見えなくなるまで見送った。
――追わない。
馬車の中に誰が乗っているのかは分からない。エルネスタを別の場所へ移送している可能性も、ないとは言い切れない。
だが先ほど、施設の窓辺に小柄な人影が見えた。
淡い金色の髪。
あれが見間違いでなければ、おそらくエルネスタはまだ施設内にいる。
ギルベルトは雪の中へ伏せたまま、再び正門へ双眼鏡を向けた。
馬車が出たあとも、警備兵の動きに大きな変化はない。
見張り塔に二人。
正門に二人。
外壁沿いを巡回する兵士が四人。
少なくとも、見える範囲だけで八人。
森を徘徊していた者たちより、施設の警備に割かれている人数の方が多いだろう。
正面から入るのは困難だ。
入れないわけではないが、銃声を響かせながら門を突破すれば、施設内にいるエルネスタがどう扱われるか分からない。
ギルベルトは双眼鏡をゆっくりと右へ動かした。
搬入口。
先ほど荷車が入っていった場所だ。
正門よりも狭く、鉄扉の前には警備兵が一人。荷物を運び込むたびに開閉しているらしく、雪の上には幾重もの轍が残っている。
さらにその奥。
建物の裏手へ回り込むように、一人の兵士が歩いていく。
兵士の腰元で、何かが揺れた。
――鍵束だ。
ギルベルトはその男を目で追う。
兵士は外壁に沿って歩き、建物の陰へ消えていった。
数分後、やがて同じ男が姿を現した。
手には何の武器も持っていない。
(見回りではない)
決まった場所の施錠を確認しているのか。それとも、表からは見えない出入口があるのか。
ギルベルトは双眼鏡を下ろす。風向きが変わっていることに気付く。
谷を抜けた風が施設の裏手を回り込み、頬を撫でていく。
薬品の刺激臭。
石炭の煤。
焼けた油。
それらに混じって、微かに鼻へ届く匂いがあった。
ギルベルトはもう一度、風を吸い込む。
(銃油か……)
長年、何度となく嗅いできた匂いだ。
間違えるはずはない。
施設の裏手に、武器を保管する場所があるのだろう。
そして武器庫には、弾薬や銃器を外部から運び込むための経路が必要になる。
ギルベルトは手袋を外すと、指先で雪の表面へ簡単な見取り図を描いていく。
正門。
見張り塔。
搬入口。
外壁。
先ほど鍵束を持った男が消えた場所。
そこから、谷へ一本の線を引く。
もし裏手に出入口があるのなら、正門を避けて近づける。
問題は、そこまでどう辿り着くかだ。
ギルベルトは顔を上げた。
施設と谷の間には、ほとんど木がない。
雪に覆われた斜面が続き、その先に外壁がある。白い外套を纏っているとはいえ、開けた場所を横切れば見張り塔から発見される可能性が高い。
空を仰ぐと、先ほどよりも雪が強くなっていた。風も吹いている。
ギルベルトは手のひらを上へ向けた。
雪片が次々と落ち、黒い手袋の上で形を失っていく。
このまま天候が崩れれば、見張り塔からの視界も悪くなるだろう。
(……待つ価値はある)
ギルベルトは再び身を低くした。
――焦るな。
エルネスタがあの建物にいると分かったからこそ、焦ってはならない。
視界を塞ぐほど雪が強くなった、その瞬間が侵入の機会になる。
双眼鏡を再び目元へ戻す。
その矢先、鐘が鳴った。
カァン――。
低い音が谷を渡る。
警備兵が動き始めた。交代の合図だ。
ギルベルトは懐から、森で奪った羊皮紙を取り出した。
羊皮紙を奪った兵士の腕輪には『Ⅲ』と刻まれていた。
ならば、今動いている者たちにも同じものがあるはずだ。
双眼鏡の焦点を合わせ、見張り塔から降りてきた兵士の腕を見る。――『Ⅰ』。
正門へ向かう二人は『Ⅱ』。
そして建物の裏手へ消えていく男は『Ⅳ』。
(全部で四班か……)
一定時間ごとに担当箇所を入れ替えているようだ。
森で第三班を倒した。つまり次の交代で、必ず誰かが気づく。
――残された時間は、思っていたより短い。
ギルベルトは羊皮紙をしまった。
雪が強くなるのを待つか、第三班の異変が知られる前に動くか。
どちらにせよ危険だ。
そのとき、カチ、と耳に小さな音が届いた。
ギルベルトの視線が音の方角へ動く。
施設の裏手で、先ほど鍵束を持った男が、また建物の陰へ入っていく。
今度は、その直前に手元が見えた。
壁にある何かへ鍵を差し込んでいる。
(やはり扉がある)
男が姿を消してから、ギルベルトは頭の中で数を数えた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
扉が閉まる音がした。
その八秒のあいだだけ、外から中へ入れる。
ギルベルトは双眼鏡を下ろし、白い息をひとつ吐く。
八秒。
――十分だ。
狙撃銃を背負い直し、雪の上に描いた見取り図を手袋で消した。
風が強くなってきた。
木々の梢が大きく揺れ、谷底に溜まった雪が白煙のように舞い上がった。視界が白く霞んでいく。
ギルベルトは立ち上がった。
◇
「第三哨戒班から、まだ連絡はないのか」
研究施設の一室で、男の低い声が響いた。
「はい。定刻を過ぎていますが、応答がありません」
机の上には凍銀の森の地図が広げられている。
報告を受けた警備責任者は眉間に皺を寄せた。
「雪のせいか」
「その可能性もあります。ですが、第三班は三名全員が――」
「違いますよ」
静かな声が会話を遮った。
二人が振り返る。
窓際には、クロードが立っていた。
外では雪が降り続いている。
白く霞んだ森を眺めながら、クロードは口を開く。
「第三班は戻りません」
「……何故、そのようなことを」
「来たのでしょう」
警備責任者の顔から、わずかに血の気が引いた。
「まさか……シルヴェスタの兵が?」
「いいえ」
クロードは薄く笑う。
「一人ですよ」
「一人?」
「ええ」
窓硝子に雪が張りつき、すぐに溶けて細い水の筋を作った。
クロードはその向こうに広がる白銀の森を見つめている。
「王冠を奪われて、大人しく主人の帰りを待っていられる男ではありませんから」
「では、すぐに警備兵を増員して――」
「必要ありません」
きっぱりとした口調に、警備責任者が口を噤んだ。
クロードは窓から離れ、「予定通りにしてください」と告げる。
「しかし……っ!」
「彼がここまで辿り着けるのであれば、それはそれで都合がいい」
クロードは机上の地図へ目を落とした。
凍銀の森。
谷。
国家研究施設。
そして、その地下。
指先が、地図の一点をトントンと叩く。
「王冠だけでなく、銀の狙撃手まで手に入るのですから」
カァン――。
部屋の外で鐘が鳴った。
雪に吸われながら、その音は森の奥へ消えていった。




