第43話 観察
谷底を流れる冷気に身を潜めながら、ギルベルトは国家研究施設を見据えていた。
吹きつける風は、右から左。
降り続く雪は、風に煽られるたび軌道を変え、施設の外壁へ斜めに叩きつけられている。
ギルベルトは狙撃銃を背中から下ろし、伏せるように雪の中へ身を沈めた。
双眼鏡を取り出す。
まず見るべきは建物ではない。人だ。
見張り塔には二人。外壁沿いを巡回する兵士が四人。搬入口付近に二人。その奥では荷車から木箱を降ろす作業員の姿が見えた。
兵士と研究員は服装が違う。研究員は白衣の上から厚手の外套を羽織っている。対して、警備兵は白い防寒着に革製の肩当て。森で倒した兵士たちと同じ装備だった。
(警備兵だけでも、二十はいるか)
双眼鏡をゆっくりと動かす。
北側。
東側。
西側。
搬入口。
煙突。
見張り塔。
どこにも隙は見当たらない。
正面突破など論外だ。
ギルベルトは双眼鏡を下ろさず、兵士たちの歩幅を目で追う。
一人。
二人。
三人。
巡回兵が角を曲がる。
数えてから十五分が経過し、別の兵士と交代した。
さらに十五分後、再び別の兵士と交代する。
反対側でも同じ動きだ。
(十五分交代……)
頭の中で巡回経路が少しずつ形になっていく。
その時だった。
荷車が門を抜けていくのが見えた。門番は荷台を改めることなく、中へ通している。
木箱、薪、麻袋。
(食料か。いや……違う)
ギルベルトは視線を細めた。
最後尾の荷台に積まれた箱の一つだけ、縄の結び方が違っていた。
運ぶ人間も、その箱だけ慎重に扱っているようだ。
(薬品か)
研究施設へ定期的に物資が運び込まれている。つまり、補給路がある。
その事実だけを記憶へ刻む。
焦るな。
撃つな。
今は見る。
世界を読む。
それだけだ。
双眼鏡を再び目へ当てる。
その瞬間、ギルベルトの眉がわずかに動いた。
(……静かだ)
研究施設にしては、人の音が少なすぎる。
木箱を運ぶ音。
兵士の靴音。
命令を交わす声。
それらは確かに聞こえる。だが、規模に対して、どこか足りない。
施設そのものが、息を潜めているようだった。
視線を建物の中央へ移すと、窓がいくつか並んでいる。
窓ガラスを端から順に見ていくと、そのうちの一枚に、人影が映った。
淡い金色。
ギルベルトは息を止める。
間違いない。肩までの短い髪と、小柄な影。
双眼鏡を握る手へ、わずかに力が入る。
(エル様……!)
しかしその影はすぐ横へ消えた。白衣の男がカーテンを閉める。
ギルベルトは双眼鏡を静かに下ろした。
見えたのは一瞬だったが、十分だ。
エルネスタがあの建物の中にいる。
それを知れただけでも、ここまで来た意味はあった。
ギルベルトは雪を一掴みし、掌の中でゆっくりと握り潰す。手袋越しに、冷たさが皮膚へ染み込む。
焦るな。
怒るな。
救い出すまで、生き残れ。
その時だった。
施設の正門がゆっくりと開く。
一台の馬車が、雪を踏みながら外へ出てきた。
黒塗りの車体に、窓には厚い幕。護衛は四人。明らかに要人用の馬車だ。それに――。
(見覚えがある……)
セレスティーヌのお茶会に招かれた際、ローゼンベルク邸の裏口に止まっていた馬車だ。
ギルベルトは反射的に双眼鏡を構え直す。
(……誰を運ぶ)
馬車はゆっくりと森の一本道へ進み始めた。
その進路は、ギルベルトが潜んでいる谷筋とは反対方向だった。
黒塗りの馬車は一定の速度を保ったまま、雪道を進んでいく。
護衛は前後に二人ずつ、全員で四人。いずれも白い防寒着を纏い、肩から小銃を提げていた。
(撃てる)
距離、およそ三百メートル。
風は右から左へ緩やかに流れている。
この距離と風なら、まず外さない。
護衛を一人ずつ落とすこともできる。馬車の車輪を撃ち抜き、立ち往生させることも可能だ。だが、ギルベルトは引き金に指を掛けなかった。
馬車の中に誰が乗っているか分からない。
補給物資か研究員か、あるいは――。
(……エル様)
その可能性を捨て切れない以上、撃つという選択肢は存在しなかった。
双眼鏡越しに、馬車が森の奥へ消えていく。
ギルベルトは静かに息を吐いた。
撃たないことも狙撃手の仕事だ。
再び研究施設へ視線を戻す。
正門は閉じられ、見張り兵たちは何事もなかったように巡回を続けている。
誰も、森の中に潜む一人の狙撃手へ気づいていない。
搬入口から、一人の研究員が姿を現した。白衣の裾を押さえながら、小走りで門番へ駆け寄る。何かを告げているようだ。
門番は一度だけ頷き、施設の中へ視線を向けた。
やがて、鐘が鳴る。
カァン――。
低く澄んだ音が、雪景色へ広がった。
巡回兵が一斉に持ち場を離れ、代わりに別の兵士たちが姿を現した。
(交代か)
ギルベルトは兵士の動きを目で追う。
歩幅、癖、利き腕。誰が周囲をよく見ているか、誰が足元ばかり見ているか。雪を踏む深さまで頭へ刻み込んでいく。
そして、その中で一人だけ、巡回路から外れ、建物の裏手へ消えていく兵士がいた。他の者と違い、腰には鍵束を提げている。
ただの見張りではない。管理を任されている人間だ。
ギルベルトは双眼鏡をゆっくりと下ろした。
(裏口がある)
正面は突破できない。
ならば、人が日常的に使う出入口を探す。
その時。
ひゅう、と風向きが変わった。
谷底から吹き上がった風が、施設の裏手を回り込み、ギルベルトの頬を撫でる。
微かな匂いが、鼻先を掠める。一つではなく、いくつかの匂いが混じり合っていた。
薬品、煤、焼けた油。
そして――鉄。
(これは……)
血ではない。特有の生臭さがない。
もっと乾いた、何度も嗅いだことのある匂いだ。
(金属油か)
銃を整備するときに使う金属油の匂いだった。
ギルベルトは施設の裏手へ視線を向ける。
(武器庫……)
もしそうなら、狙撃銃の弾薬も保管されている。
補給できる。
いや。
もっと重要なのは――。
(侵入できるかもしれない)
武器庫がある場所には、外部から物資を搬入する専用口が設けられていることが多い。
ギルベルトは雪へ指先で簡単な見取り図を描き始めた。
見張り塔。
正門。
巡回路。
谷。
そして、今見つけた裏口。
一本の線が繋がる。
まだ穴はあるかもしれない。だが、確実に見えてきている。
敵の城へ入る道が――。




