第42話 檻の中の王冠
冷たい……。
石床から這い上がる冷気が、じわじわと身体の奥へ染み込んでくる。
ぽたり、とどこかで水滴が落ちた。その音に引かれるように、エルネスタはゆっくりと瞼を開く。
目の前には、見覚えのない天井。
白く塗られた漆喰には細かな亀裂が走り、天井近くに埋め込まれた青白い魔石灯が、部屋を淡く照らしている。
どこか無機質な気配がただよう。
(ここは……。たしか、セレスティーヌ様のお屋敷に居たはずなのに……)
意識がぼんやりとしている。
身を起こそうとして、右手首に重みを感じた。
かちゃりと金属が鳴る。
右手首を見ると、銀色の枷が寝台へと繋がっていた。
意識が徐々にはっきりしていく。と同時に、自分は今、見覚えのない場所で囚われているのだと理解する。
その事実が輪郭を帯びて、不安として胸に迫ってきた。
(不安を感じたら、だめ。まずは、できることを探さないと)
エルネスタは枷を見つめたまま、小さく息を吸った。
枷は外れそうにない。暴れても同じだろう。
ならば――。
静かに部屋を見渡した。
石壁。窓はない。扉は一つだけ。
暖炉も見当たらない。
空気は乾き、吐いた息だけが白く浮かぶ。
耳を澄ませると、違う場所からそれぞれ音が聞こえた。
規則正しく響く靴音。
金属同士が触れ合う乾いた音。
遠くで何かを引きずる音。
そして、そして、薬品のツンとした匂いが鼻を突く。その匂いだけが、この場所をよく知っているようだった。薬剤の匂いでも、病院とはまた違う。手首に付けられた枷がそれを物語っている。
重い扉が軋み、ギィ、と低い音が部屋へ流れた。
白衣姿の男が一人、部屋の中へと入ってくる。
その後ろから現れた黒髪の青年を見た瞬間、エルネスタの睫毛がわずかに震えた。
「……クロード様」
クロードは足を止めた。
「目覚めましたか。」
いつも通り、穏やかな笑みを湛える。
だが、その「いつも通り」が、この部屋には不釣り合いだった。
エルネスタの記憶の輪郭がはっきりと蘇る。
セレスティーヌに招き入れられた硝子の温室で、クロードが待ち構えていたのだ。自分はクロードによって、ここに連れて来られた。
ギルベルトの言葉を思い出す。
『あいつは危険です』
そのときは、ぴんと来なかった。けれど今ははっきりと分かる。自分はクロードの罠に嵌められたのだと。
(ギルが正しかったのですわ……)
エルネスタは藍色の目で、クロードをしっかりと見据えた。
「ここは、どこですの」
「国家研究施設です」
迷いのない返答は、隠す必要もない、と言わんばかりだ。
「帰してください」
「できません」
クロードは静かに首を横へ振る。
「あなたには、こちらで調べさせていただきたいことがあります。」
エルネスタは黙って彼を見つめ返した。
クロードはふっ、と口角を上げ、寝台の傍らまでゆっくりと歩み寄る。
「安心してください」
瞳だけが穏やかに細められる。
「可能な限り、身体へ負担の少ない方法を選びます」
エルネスタは愕然とした。指先に力が入る。
白衣の男が銀色の器具を机へ並べ始めた。
細い針に、透き通った硝子管。見たこともない金属器具たち。
乾いた金属音だけが、小さく部屋へ響いていく。
エルネスタは目を見開いたまま、その器具から視線を外せなかった。
息を呑み込む。
「何を調べるのですか」
「あなたです」
クロードは答える。
「正確には――あなたの中に眠る王冠を」
王冠。
その言葉を耳にした瞬間、親族懇親会の光景が脳裏をよぎった。
宙へ浮かぶ椅子とざわめく貴族たち。
『王冠ではないのか』
誰かの上げた声が、今も耳の奥へ残っている。
エルネスタはゆっくりとクロードを見上げた。
「王冠なんて知りませんわ。わたくしは、ずっと“欠落令嬢”でしたもの」
クロードは無言で小さく微笑む。
短い沈黙があってから、口をひらいた。
「人は必ずしも、自分を一番知っているとは限らない」
部屋から音が消えた。
白衣の男が器具を整える音だけが響く。
「そして、貴方は自分を知らなくていい」
エルネスタの胸がぎゅっと縮み上がる。
「準備が整い次第、検査を始めます」
クロードはそう言って踵を返し、部屋を出て行った。
再び静寂が戻った部屋で、エルネスタはゆっくりと目を閉じる。
何も聞こえない。
それでも耳の奥には、あの日の声だけが残っていた。
『離れていても、あなたの音は聞こえています』
エルネスタは枷を繋ぐ鎖へ、そっと指先を添えた。
冷たい鉄だ。温かみなど一切ない。
だが不思議と、その指先は震えていなかった。




