第40話 白い死神 ①
「雪が降ってきました」
御者が、荷車の中に乗ったギルベルトに声をかけた。ギルベルトは荷台カバーを捲って外を見ることはせず「そうですか」とだけ低く呟く。
凍銀の森を訪れるのは、これで四回目だ。
一度は先日、セレスティーヌの計らいによって、数日間だけ送り込まれることになった。エルネスタが自分を迎えにきてくれたときのことだ。
残りの二回は、十代の頃に敵国との戦のために訪れた。両方とも長期戦だ。そこで初めて人を殺した。あのときの、凍えた指先を思い出す。恐怖と後悔で、生きた心地のしない日々だった。だが銃一丁で、一人で何十人もの敵兵を屠った戦士は、その戦果を買われ、シルヴェスタに仕えることになったのだ。
ギルベルトは手のひらの上で、銀の弾丸を一つ転す。
再び魂を蘇らせてくれた小さな主を、絶対に取り戻してみせる。
――そう思いながら、弾丸を握りしめた。
荷台が止まった。
「凍銀の森の近くまで来ました」
御者の声に反応したギルベルトは、荷台カバーの隙間から、周囲を見渡した。
雪がかなり降っている。風も出ていた。
シルヴェスタ邸から、そこまで離れていないのに、天候が全く違う。
辺りに人影がないのを確認したギルベルトは、荷台から降りた。
「ここからは一人で行きます」
「私はどうすれば」
「少し離れたところで待機していてください。できるだけ雪の影響の少ない場所で」
ギルベルトが御者に言った。
「四十八時間。自分が戻らなければ、一度シルヴェスタ邸へ戻り公爵に連絡を」
「……分かりました」
御者は神妙な顔つきで頷く。
ギルベルトは、目の前に広がる鬱蒼とした森へと向かう。
きし、きしと長靴で雪に足跡をつけるように、ゆっくりと進んだ。
雪は降っているし、少し風もあるが、吹雪ではない。
天候が崩れてくる前に、森の奥の要塞へ辿り着ければいいが――。
凍銀の森へ足を踏み入れる。
一気に雰囲気が変わった。
暗澹たる雰囲気に覆われた不気味な森。
何千、何万の戦士たちがここで命を落としたのだ。亡霊にでも呪われているのかもしれない。
(自分がエル様を助けにくることは、クロードも想定内。森の中には既に、敵や罠が待ち構えているはずだ)
耳に神経を集中させる。
今のところ、『人間の音』は聞こえない。
……だが、静かすぎた。
風が針葉樹の梢を揺らす音。枝葉に積もった雪が、ときおり重みに耐えきれず、どさりと落ちる音。長靴の下で雪が軋む音。それらは確かにある。
だが、鳥の羽ばたきがない。小動物が雪の下を走る気配もない。
森そのものが、息を潜めていた。
ギルベルトは足を止めた。
前方に倒木がある。雪に半ば埋もれ、自然に倒れたもののように見えた。だが、その周囲だけ雪の積もり方が浅い。
ギルベルトはゆっくり片膝をつき、手袋をした指で雪の表面を払った。
白の下から、細い銀線が現れる。
ワイヤーだ。
張り方は粗くない。雪と倒木の影を利用し、足を掛けた者が転ぶ角度に合わせて仕掛けられている。転倒そのものが目的ではない。倒れた瞬間、近くに潜む者が撃つ。
ギルベルトは息を殺し、視線だけで周囲を洗った。
右手奥の幹に、雪が不自然に剥げた跡がある。合図用の小さな鈴か、発火具か。どちらにせよ、引っかかれば位置を知らせる仕掛けだ。
銃剣を抜き、雪の中へ静かに差し入れる。凍った地面に固定された留め具を探り当て、刃先で少しずつ浮かせた。
金属が軋む。
ギルベルトは動きを止めた。
風が吹く。
枝が揺れ、遠くで雪が落ちた。
その音に紛れさせるように、留め具を外す。ワイヤーは力を失い、雪の上へ細く垂れた。
……まだ進める。
ギルベルトは足跡を残さぬよう、樹木の根元と雪の硬い場所を選びながら歩いた。
白い外套に雪が積もり、肩の輪郭を曖昧にしていく。帽子の縁にも白が重なり、遠目には人影ではなく、枝の影か雪の起伏にしか見えないはずだった。
それでも、相手はこちらを待っている。
クロードは、自分が来ると分かっている。
エルネスタを攫った以上、ギルベルトが追うことなど考えるまでもない。ならば、この森はすでに狩場ではなく、処刑場として整えられている。
だが、誰の処刑場になるかは、まだ決まっていない。
数歩進んだところで、ギルベルトはふと立ち止まった。
足元に、小さな花があった。
雪の隙間から、淡い紫の花弁がわずかに覗いている。凍銀の森で、こんな時期に咲くものではない。強い風に折られず、雪に埋もれながら、それでも薄く首を上げていた。
ギルベルトは、その花を踏まぬように足をずらした。
だが、その瞬間だった。
ぱさり、と頭上で雪が落ちた。
ギルベルトは身体を沈める。
ガンッ。
重々しい銃声と共に、弾丸が、先ほどまで彼の頭があった空間を裂き、背後の樹皮を抉った。乾いた木片が雪の上に散る。
(敵の狙撃手か)
ギルベルトは転がるように幹の影へ入り、背負っていた狙撃銃を手に取った。すぐに反撃はしない。まだ位置が曖昧だ。
撃ってきた方角は前方左。距離は百五十から二百。風は右から左。
長年戦場で磨いた感覚が、瞬時に距離と風向きを弾き出す。
雪が音を吸っているため、位置までは絞り切れない。
二発目が来ない。
相手も、こちらがどこへ消えたか探っているようだ。
ギルベルトは細く息を吐いて、目を閉じた。
自分を見るな。
周りを見ろ。
風がどこから吹くか。雪がどこに溜まるか。どの音が、不自然に消えているか。
かすかな呼吸音が耳に滑り込んできた。
いや――潜伏している人間のものにしては、あまりにも、自然すぎる。
呼吸音ではない。
ヂヂ……。
革手袋が銃床を握り直す、微細な軋み。
――そこか。
ギルベルトは幹の影から銃口だけを滑らせた。照準器の先に、雪を被った枝が重なっている。その奥に、ほとんど白と見分けのつかない布が見えた。
敵も白装束だ。
だが、甘い。
雪に紛れるには、動きを殺すだけでは足りない。森に音を返さなければならない。あまりに沈黙しすぎれば、そこだけが空洞になる。
ギルベルトは息を吐いた。
引き金を引く。
カンッ。
鋭い銃声が、凍銀の森にひとつだけ響いた。
少し遅れて、枝葉に積もった雪が崩れ落ちる。白い塊と一緒に、人の身体が木の上から落ちた。鈍い音が、雪の中へ沈む。
ギルベルトはすぐに場所を変えた。
一人で待っていたとは考えにくい。
案の定、すぐ右手の奥で、何かが動いた。気配を殺しきれなかった兵士が、仲間の死に反応したのだ。
ギルベルトは倒木の影へ身を滑らせる。
「どこだ……?」
低い声がする。
「今のは、誰が撃たれた」
もう一人の声だ。
さらに奥に、足音を消そうとして失敗している者がいる。雪に慣れていない。研究施設の兵か、急ごしらえの護衛か。
ギルベルトは銃を構え直した。
弾丸は、限られている。時間も、限られている。
だが、自分がここで倒れれば、エルネスタのもとへ辿り着く者はいない。
その事実だけが、身体から余分な震えを消していく。
「探せ。近くにいるはずだ」
兵士の声が近づく。
ギルベルトは白い外套の裾を雪の上へ馴染ませた。銃身にも薄く雪を被せ、白景色へ擬態していく。呼吸を浅くする。
敵の足音が、三歩。
二歩。
一歩。
茂みの向こうに、黒い銃口が見えた。
遅い。
ギルベルトの指が動く。
カンッ。
兵士が声もなく倒れた。
もう一発。
カンッ。
「いたぞ!」
最後の一人が叫ぶ。だが叫んだことで、位置を知らせた。
ギルベルトは身を翻す。敵の銃声が背後で弾け、雪を抉った。白い粉が舞い上がり、視界を一瞬だけ塞ぐ。
その白の中で、ギルベルトは立ち上がった。
敵兵の顔が恐怖に引き攣った。
おそらく、見えたのだろう。
雪の中から音もなく現れた、白い外套の男が。
銀髪も、外套も、銃身に積もった雪さえも、森の白と同じ色をしている。
「し……」
敵兵が後ずさる。
「白い、死神……」
ギルベルトは答えなかった。
引き金を引く。
銃声のあと、森はまた静かになった。
空を見上げると、雪は強くなっていた。
足跡はすぐに消える。こちらにとっても、敵にとっても同じ条件だ。
ギルベルトは銀の弾丸を装填し直した。
白い息が、すぐに雪に溶ける。




