第39話 雪装束
「……何ということだ……!」
シルヴェスタ公爵の掠れた声が、広間に落ちた。
ギルベルトから報告を受けた公爵夫妻は、その場で顔面蒼白となり、崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。
マーヤもまた、絶望に唇を噛み締め、小刻みに震えている。
ザハリアス侯爵家は、爵位こそシルヴェスタ公爵家より下だが、国家研究施設を取り仕切っており、一部の王族たちとズブズブの関係と聞く。
公爵家といえど、政治的な手続きや裏での交渉を挟まねば、軍事要塞である研究施設へすぐさま兵を動かすことなど不可能だった。
「まさか……セレスティーヌ様が……ザハリアス侯爵と繋がっていたなんて……もしかしたらローゼンブルク家自体が……」
公爵夫人が震える声で漏らす。
「セレスティーヌ様の発言から、独断のように思われます」
ギルベルトが告げる。
重い雰囲気が漂った。
大人たちがその圧倒的な現実の前に硬直する中、ギルベルトは静かに、だがはっきりとした口調で言う。
「すべては、自分の失態です。あの方を一人にし、敵の罠を見抜けなかった」
公爵夫妻の前に歩み出ると、深く一礼した。
「いや……」
力なく答えるも、公爵の声色は暗澹に満ちている。
「とにかく……財政会の顔見知りに一人ずつ当たらねば……」
公爵がよろよろと椅子から立ち上がろうとした矢先、ギルベルトは公爵の前に立ちふさがった。
「お館様。政治の動きを待っている時間はありません。……俺に、エル様を迎えに行く許可を」
「な……なんだと……」
驚愕したのは公爵だけではない。隣にいる夫人、そしてマーヤも大きく目を見開いてギルベルトを見た。
「国家研究施設は、あの凍銀の森奥にある軍事要塞ですよ……。一人で乗り込むなんて自殺行為です」
マーヤの声は掠れている。
「承知しています。ですが――早くしなければ、エル様が何をされるか分からない」
マーヤは息を呑んだ。
その灰色の瞳の奥の『青い熱』は、すでに冷徹な決意の氷へと変わっていたからだ。
(これが……戦場で”銀の狙撃手”と恐れられた男……)
シルヴェスタ公爵夫人は眩暈でよろめいた。
過去、『王冠』を発現したシルヴェスタの娘は、研究施設へ連れ去られ、心身を壊して戻ってきた――そんな話を夫人は幼い頃から聞かされていた。
「……分かった」
シルヴェスタ公爵は、重く、口を開いた。
「エルネスタを……連れ戻してくれ」
「必ず」
ギルベルトは一礼だけして、部屋を出て行った。
「あなた……」
公爵夫人が縋るように、公爵の袖を掴む。
「分かっている……ギルベルトと言えど……いや。私たちにできることをしよう」
公爵は立ち上がり、広間を出て行った。
その後を夫人も付いて行く。
そしてマーヤは公爵夫妻とは別に、地下の蔵へと向かった。
ギルベルトは自室へ戻ると、静かに扉へ鍵を掛けた。
かちり、と小さな金属音が響く。
部屋には最低限の家具しかない。
寝台、机、衣装棚。そして壁際に置かれた、長細い黒い木箱。
ギルベルトは迷いなく木箱の前へ膝をつき、留め金を外した。
蓋がゆっくりと持ち上がる。
中に収められていたのは、一挺の狙撃銃だった。
漆黒の銃身は丁寧に磨き上げられ、窓から差し込む薄曇りの光を鈍く映している。
ギルベルトは白い布を取り出し、銃身をゆっくりと拭いた。
ガンオイルの匂いが静かに部屋へ広がる。
引き金、照準器、遊底と、慣れた手つきで一つずつ点検していく。
どこにも狂いはない。
続いて、小箱を開く。
中には銀色に鈍く輝く弾丸が整然と並んでいた。
一本、また一本と、傷の有無を確かめるように指先で転がした。
――問題はない。
薬室へ一発、予備を革製の弾帯へ収める。
何百回、何千回と繰り返してきた準備だ。動作に一切の淀みはない。
今までと違うのは、狙う相手だけだ。
これまで照準の先にいたのは敵兵だった。
今、銃口の向こうにいるのは――エルネスタを奪った者たち。
ギルベルトは静かに遊底を引いた。
乾いた金属音が部屋に響く。
それは銀の狙撃手が、再び戦場へ戻る合図だった。
戦場で死んだはずの男が、静かに息を吹き返す。
そのとき、扉をノックする音が聞こえた。
「ギルベルト様」
マーヤの声だ。
ギルベルトは鍵を解き、扉を開く。
そこには、白い外套を胸に抱え、片手でトランクケースを持ったマーヤが神妙な顔つきで佇んでいた。
「これを持っていきなさい」
マーヤは白い外套と帽子を差し出した。
「これは……」
「防寒外套と防寒帽です」
中に羽毛がたっぷり入っているのか、生地が膨らんでぽこぽこしている。フード部分と帽子には、それぞれ縁に毛皮が施されていた。
「……動きづらそうですね」
正直な感想を述べる。
「そんなことを言っている場合ですか。凍銀の森は氷点下です。それからこれを」
マーヤはトランクケースを開く。
中には、防寒長靴と保存食、そして一丁の銃剣が入っていた。
「銃剣……ですか」
「ええ。地下の倉庫にありました」
ギルベルトは迷いなく、その銃剣を手にする。
「これは……いいですね」
彼の口角が上がる。
薄暗い部屋の中で、マーヤが持った蝋燭の灯りが、ギルベルトの顔を照らした。
普段とは異なる、狙撃手としての笑み。
ギルベルトは踵を返し、持ち物をミリタリーリュックに入れた。
手渡された白い防寒具をひとつずつ身に纏う。
漆黒の護衛は、瞬く間に白銀の狙撃手へと姿を変えた。
「ギルベルト様。貴方一人に背負わせるなど、酷だと十分承知しています。……ですがあえて言います」
マーヤは真っ直ぐにギルベルトを見つめた。
「ご部運を」
「ええ」
ギルベルトは静かに笑った。
あの日。凍銀の森で、自分を迎えに来てくれた少女がいた。
今度は、自分が迎えに行く。
白銀の世界のどこかで、あの人はきっと、自分の銃声を待っている。
ギルベルトは静かに扉を開けた。
凍てつく森へ向けて、一歩を踏み出す。
――第三章・完――




