第38話 音の消失
めずらしく出ている霧が、じわじわと周囲の視界を侵食していく。
ギルベルトは馬車に乗り込み、シートに深く腰掛けた。
目を閉じ、全神経を『耳』へと集中させる。
しんと静まり返った空気の向こう、温室へと歩いていくエルネスタの、小さく規則正しい、愛らしい足音が聞こえる。衣服が擦れる音。そして、トク、トク、と刻まれる、あの濁りのない純粋な心音。
(……捉えた)
どれほど距離が離れようと、この音が聞こえている限り、自分はエルネスタの盾であれる。
だが、ギルベルトの本能は、依然として猛烈な警鐘を鳴らし続けていた。
すぐ近くに停まっている、主人のいないあの黒い馬車を窓から見た。
窓は黒いカーテンで遮断されているため、目の良いギルベルトでさえ、中を見ることは叶わない。
(耳の意識を、黒い馬車に移すか……。——いや。エル様から耳を離すわけにはいかない)
そのときだった。
トクン、と。
エルネスタの心音が、奇妙に跳ね上がった。
(エル様――!?)
ギルベルトが目を見開いた瞬間。
温室の方向から、白い霧が奔流となって庭園を呑み込み、ギルベルトのいる馬車へと急速に流れ込んできた。
ただの気象の霧ではない。濃密で、ねっとりとした白濁の障壁。
森でエルネスタと引き離された霧とは、量も濃度も比べ物にならない。
――五感が、急速に奪われていく。
世界から一切の音が消え、静寂の深海に沈められたかのように、エルネスタの鼓動が完全に掻き消された。
「くそっ……!」
ハメられた。
ギルベルトは躊躇なく馬車の扉を蹴り開け、霧の中へと飛び出した。
五感が狂う中、戦場仕込みの勘だけでエルネスタのいた方向へと地を蹴る。
◇
その数分前。
硝子の温室では、エルネスタは愕然としていた。
部屋に足を踏み入れた自分を待っていたのは、貴族のお茶会などではなく、クロード・ザハリアスだったからだ。
「クロード様がなぜここに……?」
クロードもお茶会に招かれたのだろうか。
いや、そんなことはない。
エルネスタは、すぐに気付く。
温室はお茶会の準備などされていない、無機質な部屋だったからだ。
「エルネスタ様を待っていたのですよ。我が友人、セレスティーヌ嬢の協力を得て――」
琥珀色の妖艶な瞳がエルネスタを捉える。
「貴方と忠犬を引き離したのです」
ぞくりと背筋が冷えた。
エルネスタは慌てて踵を返し、温室を飛び出そうとする。
だがそのとき――セレスティーヌの身体から大量の霧が沸き上がった。
霧によって視界と聴覚を完全に奪われていく。
(ギル……っ!!)
恐怖に身をすくませるエルネスタの耳元で、クロードが告げた。
「――おとなしくしてもらいましょう、シルヴェスタ家の『王冠』」
低い、凪いだ声。
エルネスタがハッと息を呑んだ瞬間、黒い礼装に身を包んだクロード・ザハリアスが、エルネスタに手を伸ばした。
「……っ!」
エルネスタの防衛本能が、無意識に周囲の『重力』を書き換えようとする。
だが、クロードが唇を歪めた瞬間、彼を中心とした空間の空気が、ピきりとガラスが凍りつくような音を立てて変質した。
エルネスタの重力は届かない。空間そのものが、重力を拒絶していた。
「ふぇっ……っ!?」
「無駄ですよ。私の前では、あらゆる干渉が意味をなさない」
それが後に、『空間の断絶』と呼ばれるクロード・ザハリアスの異能だと知ることになる。
あらゆる干渉を寄せ付けない絶対領域。
それを見ていたセレスティーヌは、思わず息を吞む。
クロードの異能を間近で見たのは初めてだった。
親族たちがもてはやす『王冠』が、一切なすすべなく、無残にあしらわれる様が、見ていて心地いい。
クロードは何事もなかったかのように、エルの華奢な身体を抱きとめる。
「では私はこれで。セレスティーヌ嬢、今までで一番素晴らしい霧でしたよ」
クロードが不敵な笑みを浮かべ、セレスティーヌに言い残し、硝子の温室を後にした。
その足で裏口へと向かい、あらかじめ裏口に回らせていた黒い馬車へと容赦なくエルネスタを押し込んだ。
「出してくれ。例の場所へ」
クロードの冷たい命令を受け、黒い馬車は霧の煙る不気味な街路へと、音もなく疾走していった。
◇
「……エル様っ!!!」
霧が晴れ、ギルベルトが硝子の温室へと飛び込んできたときには、誰も居なかった。
部屋の中で、自身の呼吸だけが響く。
割れたティーカップに、倒れた椅子。床に散らばったライラックの紫の花びら――エルネスタの髪飾りだ。
そして——
エルネスタの音だけが、ない。
「あら、遅かったわね、従順な忠犬さん」
暗い部屋の影から、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべるセレスティーヌが、ゆっくりと姿を見せた。
ド、ンッ!!!
「ひっ……!?」
凄まじい衝撃音と共に、セレスティーヌのすぐ真横の壁に、漆黒の狙撃銃の銃口が容赦なく叩きつけられた。衣服の隙間から覗くギルベルトの灰色の瞳は、完全に底知れない漆黒の殺意で燃え上がっている。
「エル様はどこだ」
低く、地を這うような声音。いつも礼儀正しかった護衛の面影は一切ない。今目の前にいるのは、かつて戦場で無数の命を奪ってきた、本物の人殺しの眼差しだった。
「な、何よその目は……! 不敬ですわよ! ここはローゼンベルクの――」
「どこへ連れて行ったと聞いている。次の一言で答えなければ、この場であなたの頭を消し飛ばす」
カチリ、と銃の安全装置が外れる金属音が、静かな温室に響く。
セレスティーヌは全身の血の気が引き、喉が恐怖でひきつった。この男は本気だ。ここで自分が調子に乗れば、本当に殺される。
「く、クロード様が……連れて行かれたわよ……!」
セレスティーヌは恐怖に震えながらも、悔しさと歪んだ愉悦を混ぜ合わせたような引きつった笑みを浮かべた。
「クロード様が、国家研究施設へ運ぶと言っていたわ。一般人は立ち入ることすら許されない、あの……極寒の奥深くにある、おぞましい場所へね! もう二度と、あなたの手の届かない場所へ行ったのよ、ざまあみろわ……!」
ギルベルトはそれ以上、セレスティーヌを視界に入れることすら気汚いと言わんばかりに、冷たく舌打ちをして銃を引き抜いた。
自身への侮蔑を感じ取ったセレスティーヌは、拳を握った。
今、目の前の男を刺激するのは危険だと、頭では分かる。
だが溢れる衝動を抑えることが出来ず、ギルベルトの背中に向かって震える声で言った。
「ど……どうして、みんなエルネスタなの!? 王冠、王冠って……」
ギルベルトは振り返ることなく、横目だけで、セレスティーヌを見据える。
凍えるほど冷徹な視線。
「王冠など関係ない。エル様だからだ」
セレスティーヌは唇を噛みしめる。
「理解できないわ!! 貴方、エルネスタなんかのためにこんな不敬を働いてまで……っ!!」
「理解できないのは貴方の方だ。クロードに協力し、エル様を誘拐した。俺は今から公爵たちに事態を報告する。いずれ”ローゼンブルクがシルヴェスタを裏切った”と騒ぎになるだろう」
セレスティーヌの顔がみるみる蒼白くなっていく。
「クロードの甘言に乗せられ、自身の居場所を失ったのは貴方の方だ」
ふつりと糸が切られたように、セレスティーヌはその場にしゃがみ込んだ。
(待っていてください、エル様)
ギルベルトは疾風のごとく温室を飛び出し、シルヴェスタの本邸へと馬車を飛ばした。




