↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

35/46

第35話 猟犬と研究者

 親族懇親会が終わった頃には、夜も更けていた。

 ローゼンベルク公爵邸の廊下は静まり返っている。


 セレスティーヌは乱暴にパウダールームの扉を閉めた。

 ばたん、と大きな音が廊下に響く。


 普段の彼女なら決してしない振る舞いだった。

 だが今夜ばかりは、そんな余裕はなかった。


 鏡台に映るのは、完璧に着飾った公爵令嬢。

 数時間前にはその姿が誇りだった。

 だが今は、赤いドレスも、丁寧に結い上げられた髪も、宝石も、何もかもが腹立たしかった。

 耳の奥では、まだ親族たちの声が反響している。


『王冠ではないのか』


『初代以来かもしれん』


『エルネスタ様が』


『エルネスタ様は』


『エルネスタ様』


 セレスティーヌは鏡台の上に置かれていたブラシを掴んだ。

 投げつけたい衝動に駆られる。


 だが、できなかった。

 もし傷がつけば、母に叱責される。


 結局、自分はそういう娘なのだ。


 ブラシを握り締めたまま、唇を噛む。


「どうして……」

 掠れた声が漏れた。

「どうして、いつもあの子なの……」


「セレスティーヌ嬢」

 低く穏やかな声が、セレスティーヌの耳奥へ届いた。

 扉越しに、あの男の気配を感じる。

 セレスティーヌは弾かれたように扉を開けた。


 そこには、黒い礼装をした琥珀色の瞳の男が、優雅な笑みを湛えて佇んでいた。


「クロード様……!」

「失礼」

 貴族女性のパウダールームに入ることを許される男性など、親しく限られた者だけだというのに、何ともない様子で、クロードは部屋の中へ足を踏み入れた。


「セレスティーヌ」

 琥珀色の瞳が、セレスティーヌに向く。

 敬称を外した呼び方。

 それだけで、セレスティーヌの胸に熱が灯る。

「今日はありがとうございました」

「え?」

「あなたのおかげで、『王冠』を直に見ることが出来た」


 その瞬間、仄かだった胸の熱は、沸騰するかのように熱くなった。

 無意識に顔が歪む。


 クロードはセレスティーヌの胸の内を知っているかのように、不敵な笑みを浮かべた。


「機嫌が悪そうですね」


 

 クロードは立ち尽くすセレスティーヌに、音もなく歩み寄った。

 ばさりと、彼の長い黒髪が礼服の肩で揺れる。


「……クロード様には、わたくしの無様な姿がそんなに滑稽に映りますの?」


 セレスティーヌは琥珀色の瞳を睨み据えた。

 怒りで声が震えている。

 だが、クロードの長い指先が、セレスティーヌの剥き出しの鎖骨、そのすぐ近くの細い肩へそっと触れた瞬間、彼女の背筋に甘い電流が走った。


「滅相もない。あなたの霧は完璧だった」


 クロードはセレスティーヌの顔を覗き込み、耳元で低く囁く。


「ただ……相手が悪すぎた。あれが、絶対的な『王冠』の力です。数百年に一度しか現れないシルヴェスタの真髄」


「っ……!」


 セレスティーヌは激しく息を呑み、ブラシを握る手に血の気が引くほど力を込めた。

 誰も彼もがエルネスタを褒めちぎる。

 自分がどれほど努力して完璧な淑女を演じても、母親からは失望のため息をつかれ、欲しかった称賛はすべて、あの何も知らない無垢な従姉妹へと流れていく。


「あの子は……エルネスタは、自分の能力の意味すら分かっていませんでしたわ!『ふぇっ?』なんて、間抜けな声を上げて……! あの子は欠落令嬢ですのよ!」


「分かっていないからこそ、価値があるのですよ」

 クロードの細められた琥珀色の瞳の奥に、冷徹な狂気が光る。

「あれほどの異能を、公爵家の庭に埋めておくのは惜しい。正しく扱えば、この国の歴史が動きます」


(歴史が動くですって……!?)

 

 セレスティーヌの心臓がどくりと跳ねる。


「セレスティーヌ。あなたの母親は、あなたに失望しているようだった」


 セレスティーヌの胸が、ぎゅっと締め付けられる。

 クロードの言葉は、彼女が最も触れられたくない傷口を、優しく、そして残酷に抉り開けた。


「このままでは、あなたは一生、エルネスタの影だ。ローゼンベルクの家系も、本家であるシルヴェスタに一生頭が上がらないままでいいのですか?」


「そんなの……嫌ですわ……!」


 セレスティーヌは、クロードの礼服の胸元を縋るように掴んだ。

 本当は分かっている。

 自分は、彼の手のひらの上で踊らされている猟犬に過ぎないと。

 けれど――。


『素晴らしかったわ。エルネスタ』


 讃える声色。

 優しい眼差し。

 誇りに思っている――そんな顔。


 自分には一切向けられない、母の慈愛。

 


「わたくしは、あの子に負けたくありません……! クロード様、わたくしに、何をお求めなのですか?」


 クロードは、罠に掛かった美しい獲物を見るように、妖艶に口角を上げた。

 そして、セレスティーヌの頬を、手袋越しにそっと撫でる。


「簡単なことです。あのエルネスタを影で支えている、目障りな『銀の狙撃手』……ギルベルトだったかな。まずは、彼に退場してもらいましょう。守護者を失った『王冠』など、ただの無防備な小鳥に過ぎない」


 クロードの脳裏に、あの懇親会の場で、自分に躊躇なく銃口を向けようとした、ギルベルトの冷徹な灰色の瞳が浮かぶ。

 あの生真面目な忠犬は、間違いなくこちらの目的にとって最大の障害になる。


「いいですね、セレスティーヌ。次のお茶会で、あなたにやってもらいたい仕事があります」


 クロードは静かに微笑んだ。

 その笑みは、獲物ではなく、盤上の駒を見つめる棋士のものだった。

 

 夜更けのパウダールーム。

 ランプの火がゆらりと揺れる。

 セレスティーヌは気づいていなかった。

 今、自ら差し出した手が、どこへ繋がっているのかを――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。