第34話 離れない
翌日の午後。
エルネスタとギルベルトは、いつも通り、館近くの森の中にいた。
エルネスタの特訓のためである。
「ねえギル。昨日のわたくし、頑張っていたでしょう?」
エルネスタは無邪気な顔で、ギルベルトを見上げた。
「……ええ」
応える声が少しだけ掠れる。
「ギルが特訓してくれたおかげですわ。みんな、びっくりしてましたもの」
ギルベルトの脳裏に昨晩マーヤが言っていた言葉が蘇る。
『あなたがこの半年間で、エル様の能力を完成に導いてしまったのです』
抉れるような胸の痛みを覚え、ギルベルトは目を伏せた。
「どうしましたの?」
エルネスタは目をぱちぱちさせた。
「いえ」
「ねえ」
エルネスタは、声を落とす。
「わたくし、これで“欠落令嬢”ではないわよね」
ギルベルトは少し驚いたように、エルネスタを見た。
エルネスタは少しだけ困ったように笑う。
「知っていますわ。陰で欠落令嬢と呼ばれていること。自分のことですもの」
「エル様……」
「……ですが、昨日は完璧でしたでしょう? もう、そんな風に言う人はいませんわ」
エルネスタは、誇らしげに胸を張った。
「だから……わたくしを褒めてくださいまし」
エルネスタは、自分が「欠落令嬢」と呼ばれていることを知っていた。
知っていても、お披露目の場で逃げ出さなかった。
エルネスタは真っ直ぐ、ギルベルトだけを見つめていた。
褒めてほしい。その瞳は、それだけを訴えていた。
すべては、この半年間、自分を信じて隣に立ち続けてくれた護衛のため。
エルネスタの藍色の瞳は、濁りのない純粋な光でギルベルトを真っ直ぐに映している。
その瞳が、何よりも鋭く、甘美な刃となってギルベルトの胸に突き刺さる。
(俺が……引き金を引いてしまった……)
ギルベルトは溢れそうになる感情を抑え込むように、深く、重く息を吐き出した。
そして、エルネスタの前にゆっくりと片膝を突く。
視線を同じ高さに合わせ、小さな両手を、手袋越しにそっと包み込んだ。
「エル様。あなたは最初から、何も欠けてなどいません。……誰があなたを何と呼ぼうと、関係ありません」
「ギル……」
エルネスタの耳が、ギルベルトの言葉にピクリと動いた。
冷徹で、けれどどこか縋るような彼の音。
エルネスタは、ギルベルトの大きな手に一度視線をおとしてから、口を開いた。
「ねえ、『王冠』って何なのかしら」
ギルベルトの動きが止まる。
「交流会で、長老やクロード様が言っていた。わたくしは『王冠』だって」
憂いを帯びた藍色の瞳で、エルネスタは続ける。
「今まで、欠落令嬢と呼ばれて気味悪がられていたのに……。みんな、おかしかったですわ。お父様もお母様も、叔母様も。セレスティーヌ様も……」
ギルベルトは答えなかった。
代わりに、包み込んだ手に僅かに力を込める。
「ギル?」
「……今は知らなくていい」
低い声だった。
「エル様はエル様です。あなたが何者であっても、俺があなたを護ります。……ですから、エル様」
ギルベルトはジャケットの内側、銀の弾丸が込められた漆黒の狙撃銃にそっと意識を這わせながら、エルの手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
「俺の目の届く場所から、離れないでください」
ひんやりとした、けれども滑らかな風が二人の間を流れていく。
「当たり前ですわ。わたくし、あの日に決めましたもの」
エルネスタは、ふわりと笑う。
あの日――ギルベルトが一人で死地へ向かい、エルネスタはドミトリと共に、凍銀の森まで彼を迎えに行った。
「二度と、ギルから絶対に離れませんわ」
ギルベルトは言葉を失った。
森の木々が風に揺れる。
どれほど危険な未来が待っているのか。
どれほど多くの人間が、これからエルネスタを狙うのか。
彼はもう知ってしまった。
それでも――目の前の少女は、迷いなく笑う。
「……そうですか」
ギルベルトは静かに微笑んだ。
だが、灰色の瞳の奥には、青い熱が宿る。
防弾プレートの下に忍ばせた銃に、誓うように触れる。
(それなら俺は……誰からもエルを奪わせない)
ギルベルトは立ち上がった。
「エル様。昨日は見事でした」
褒められたエルネスタの顔が、ぱっと明るくなった。
「やった」
「ですが……」
昨日、重力操作の途中で呼吸が乱れていたエルネスタを思い出す。
「もっと伸ばせます」
「ええ! 今日も特訓ですわ!」
ギルベルトは静かに頷いた。
――もう、引き金は引かれていた。




