第20話 霧の罠 ②
音が消えた。
小鳥の鳴き声も、葉擦れの音も、ギルの足音も――。
おまけに視界が真っ白で、何も見えない。
「ギル! どこですの?」
先ほどまで隣に居た。
近くに居るはずだ。
エルネスタは探るように、あちこちに手を伸ばす。
だが、その手は空を切るばかりで、何にも掠らない。
「ギル―!」
名前を呼ぶ。
耳の良いギルベルトになら、届くはずだ。
だが、気配が全くなかった。
(どうしよう……)
その不安を感じた矢先だった。
徐々に手足の感覚が薄らいでいく。
「え……」
そのときだった。
「可哀想」
女の声だった。
霧の向こうから、くすくすと笑う声が聞こえる。
「誰?」
返事はない。笑い声だけが聞こえる。
「一人ぼっちになってしまって」
「エル様」
霧の奥から、低い声が響いた。
エルネスタの顔がぱっと上がる。
「ギル!」
だが。
その声は、どこかおかしかった。
ギルベルトの声なのに、音が、冷たい。
ぞわりと背筋が粟立つ。
「違う……ギルじゃない」
エルネスタは一歩後ずさる。
感覚が薄れているからか、足が絡まって、つまずきそうになった。
視界に、紅い輝きが入る。
その光は、ドレスの右ポケットから放たれていた。
そっと取り出すと、先ほどまで緑色だったアレキサンドライトが、深紅色に輝いている。それはまるで――血の色のようだ。
「これは……」
ふっと白い霧が、エルネスタの腕を覆う。
気付けば赤い光ごと、アレキサンドライトが消えていた。
「……っ」
怖い。胸の奥が、ぎゅうっと苦しくなる。
そのとき。
ポケットの奥で、指先が小さな丸みに触れた。
「……あ」
ギルがくれた、赤い実。
エルネスタは縋るように、それを握り締めた。
次の瞬間。
ふわり、と、赤い実が白い霧の中へ浮かび上がる。
その周囲だけ、不自然なほど静かだった。
一方のギルベルトは、息を吐き出してから、目を瞑った。
静寂は慣れている。だが、音が無いのは初めてだった。
――不気味だ。
視界と聴覚だけでなく、身体感覚まで遠のいていくような。
だが、必ず、エルネスタの音を見つけてみせる。
耳を研ぎ澄ませる。
無音だと思っていたが、もやりとした霧に似た低音が、絶えずに続いていた。
どこかに必ず、違う音が紛れているはずだ。
――見つけた。
一か所だけ、透き通ったような、静寂の場所がある。
ギルベルトは、かっと目を見開いた。
「エル様……!」
次の瞬間。
雪を蹴り上げるように、ギルベルトは霧の中を駆け出した。
白い霧が頬を掠める。
方向感覚が狂う。木々の位置すら歪んで見えた。
だが、止まれない。
静寂の場所だけを頼りに、ギルベルトは一直線に森を駆け抜ける。
「無駄よ」
女の笑い声が響いた。
その直後。白い霧が刃のように渦巻き、ギルベルトの視界を塞ぐ。
ギルベルトは舌打ちした。
音が、また歪み、静寂の場所が遠ざかる。
ギルベルトは、懐から黒い短銃を抜いた。
灰色の瞳が、鋭く細められる。
「……そこか」
引き金を引く。
カンッ。
弾丸は霧の流れを切り裂き、木々の間を貫いた。
次の瞬間――女の小さな舌打ちが、霧の奥で響く。
霧の濃度が和らいだ。
その一瞬の隙を、ギルベルトは見逃さない。
白い霧の中に、ぽつりと赤が浮かんで見えた。
見覚えのある色だった。
「あれは……」
エルネスタに手渡した赤い実だ。
「エル様!」
ギルベルトは、赤い実を目指して駆け出す。
そしてその実を掴むように、手を伸ばした――。
赤い実を掴んだ瞬間。
「ギル!」
自身の名前を呼ぶ声と共に、手の甲にそっと小さな手が置かれる。
「エル様!?」
見つけた。
霧の中で、やっと、エルネスタの姿を――。
ギルベルトは両腕で、その小さな身体を思いきり抱きしめる。
「エル様……っ!」
「ギル……! ギル、ギル……っ!」
腕の中では、エルネスタが泣きながら顔を埋めていた。
「エル様、大丈夫ですか!?」
鼻を啜ったあと、エルネスタは顔を上げた。
「大丈夫ですわ! 怖かったけど、ギルが見つけてくれましたもの!」
ギルベルトは安堵からため息を漏らす。そして、もう一度強くエルネスタを抱きしめた。
「ギル……ちょっと苦しいですわ」
気付けば、霧の結界が晴れていた。
木々の隙間から、淡い陽光が差し込んでいる。
ギルベルトは、ゆっくりとエルネスタを腕の中から離した。
「……歩けますか」
「はい」
エルネスタは小さく頷く。
そのとき。
ギルベルトの視線が、雪の上へ落ちた。赤い実が一粒、転がっている。霧の中で、エルネスタの手から落ちたのだろう。
ギルベルトはしゃがみ込み、それを拾い上げた。
白い雪の上で、その実だけが小さく赤い。
「エル様」
差し出された掌を、エルネスタは見つめる。
「……これのおかげで、見つけられました」
エルネスタは目を丸くした。
それから、ふわりと笑う。
「なら、ちゃんと持っておかないといけませんわね」
エルネスタは、その赤い実を大事そうに受け取った。
ギルベルトは、そんな彼女を見つめながら、静かに目を細める。
森の奥では、小鳥の鳴き声が戻り始めていた。




