第19話 霧の罠 ①
雪が止むどころか、翌日の朝は快晴だった。
山脈近くの気温の低い土地らしく、空気が透き通っている。
エルネスタは館の前で、森に向かって深呼吸をした。
今から、ギルベルトと共に森へ行く。
昨晩のダンスパーティが成功だったので、今日一日だけ、マーヤがレッスンを休みにしてくれたのだ。
「行きましょう」
そう言ってギルベルトは、エルネスタに向けて手を差し出した。
「ふぇ……」
エルネスタは、斜め前に立つギルベルトを見上げる。
彼の目はエルネスタではなく、真っすぐ前方を捉えていた。
森の中ではたまに手を繋ぐが、初めから手を差し出されたのは初めてだった。
胸の奥がくすぐったいのに、どこか温かい。
「はい!」
エルネスタは勢いよく、その大きな手を取った。
ギルベルトは彼女の小さな手を包み込むように、なおかつ、しっかりと繋ぎ返す。
これからも、絶対に離さないと言わんばかりに。
二人は、森の中へと入った。
いつもの静寂。
晴れているからか、動物たちの気配がいつもより濃い。
エルネスタは自身の左胸につけた、アレキサンドライトのピンブローチを見遣る。
「あ!」
つい、声が出た。
昨日、馬車の中で紅く光っていたその石が、今は緑色に光っている。
「すごいですわ。色が違います」
エルネスタは高揚気味に告げる。
ギルベルトは、胸のブローチを冷たく一瞥したきり、何も言わない。
「太陽の下では緑色。人工光の下では赤紫色。マーヤが言っていたのは本当だったのだわ!」
エルネスタはアレキサンドライトを見下げながら、感嘆の息を漏らす。
「きれいですわ~」
エルネスタは陽光へ翳すように、胸元へ触れた。
だが隣のギルベルトは、無言のまま前を見ている。
エルネスタは少しだけ唇を尖らせた。
「……ギルは、これを綺麗だと思いませんの?」
「……」
「やっぱり、つけてほしくないの?」
ギルベルトは数秒黙り込む。
雪を踏む音だけが続いた。
「……似合っています」
低い声だった。
「ですが、自分は好きではない」
エルネスタは目をぱちくりさせた。
何かを考えるように、視線をもう一度ブローチへと戻す。
「……」
しばらくしてから、エルネスタはすっとギルベルトの手を離す。
はっとしたギルベルトが、エルネスタを見遣ると、彼女は慣れない手つきでブローチを外そうとしていた。
「エル様?」
「外しますわ。きれいだけど、この森では合ってない気がしました」
エルネスタはブローチをそっと外す。
陽光を受けていた緑の石が、彼女の掌の中へ隠れた。
ギルベルトは僅かに目を見開く。
「……自分は、そこまで言っていません」
「でも、ギルは好きではないのでしょう?」
エルネスタは不思議そうに首を傾げた。
「なら、今日はつけませんわ」
その言葉に、ギルベルトは口を噤む。
胸の奥が、妙に熱かった。
ギルベルトは、その熱から意識を逸らすように、視線を泳がせる。
ふと、視界に小さな赤が目に入った。
――懐かしい。
戦場で、敵を撃つために草陰に潜伏していたとき、空腹を紛らわすために食べていた。
ギルベルトはそれに近づく。
「ギル?」
「……懐かしいと思って」
ギルベルトは、小さく赤い実をひとつ千切る。
「なんですの?」
エルネスタは、ギルベルトの掌に置かれた実を覗き込んだ。
「名前は知らないのですが、戦場でよく食べていました」
「美味しいのですか?」
「鹿肉の方が美味いです」
即答だった。
だが、エルネスタは興味津々といった目で、その実を見つめる。
「食べてみたいですわ」
「どうぞ」
ギルベルトは実を手渡した。
エルネスタは口の中へ実を放り込む。
「甘酸っぱいですわね」
「はい」
ギルベルトも、実を二粒取って口へ入れる。
そして、さらにいくつか実を千切った。
「エル様。今日一日森に居られるので、普段行かない場所へ行こうと思っています」
「まあ!」
エルネスタの顔がぱっと明るくなった。
「お腹が空くかもしれません。念のためにこの実を持っていきましょう」
「分かりましたわ」
エルネスタはギルベルトから赤い実を受け取り、ドレスのポケットへ入れた。
二人は、雪の積もった森の奥を歩いていく。
木々の隙間から光が差し込み、雪面がきらきらと輝いていた。
「綺麗ですわ……」
エルネスタが小さく呟く。
だが。ギルベルトの足が、ぴたりと止まった。
「……ギル?」
ギルベルトは答えない。
灰色の瞳が、前方を見据えている。
いつの間にか、森の奥に白い霧が漂っていた。
「朝霧かしら?」
カサ、と右側で枝が鳴った。
ギルベルトが即座に視線を向ける。
だが――次の瞬間には、左側から鳥の羽音が響いた。
「……」
ギルベルトの眉が寄る。
(……おかしい。距離感が、ズレている)
「どうしたのです?」
ギルベルトの緊張感に反応したエルネスタが、尋ねる。
「……少し違和感が」
「違和感?」
エルネスタは、辺りをきょろきょろと見渡した。
ひんやりとした冷気が、エルネスタの頬を掠めた。
覚えがある。
嫌な、予感――。
「エル様、こちらへ」
ギルベルトが手を差し出した瞬間――。
白い霧が、一気に二人の間へ流れ込んだ。
「……っ!」
視界が真っ白に染まる。
繋ごうとした手が、するりと滑った。
「エル様?」
名前を呼ぶも、エルネスタから返答がない。
近くにいるはずなのに、気配も、音も――何も感じない。
「エル様!」
ギルベルトの声が、霧の中へ鋭く響く。
またしても返事はない。視界は白いままだ。
音が歪む。
位置が分からない。
ギルベルトは舌打ちした。
――冷静になれ。
焦れば、余計に耳が狂う。




