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第11話 銀の狙撃手

 華やかなドレスのまま、エルネスタとドミトリは走り出す。


「エルネスタ様……!?」

 狼狽する御者の声が背後から聞こえるが、振り返る余裕はない。


 北方の凍銀の森に向けて、ドミトリが雪を蹴立てて走る。エルネスタはその背を追いかける。


「ワンッ」

 ドミトリはエルネスタの身体を持ち上げて、自身に乗せようとする。

「無理よ!」

 そう言ったものの、エルネスタに一つの閃きが浮かぶ。

「もしかして……」

 心を落ち着かせて、意識を自身の身体へと集中させる。

 ふわっと身体が軽くなった。

 感情に左右され、無差別に周囲の物を浮かせてしまうエルネスタだったが、浮力の対象は自分自身にも適用できるようだ。

 

「ドミトリ!」

 軽くなったエルネスタはドミトリの背中に捕まる。

 エルネスタを乗せたドミトリは、更に早足で、森の方へと走って行った。

 

 しばらくすると、前方に薄暗い森が見えてきた。――凍銀の森だ。


 森の境界線を、超える。


 森に入ると冷たい霧が満ちていて、奥へ進むたびに濃くなり、視界が悪くなっていく。

 前方には茂った木々と、仄暗い霧しか見えないが、徐々に不穏な銃撃音が聞こえてくる。

 ――戦場が近い。


 エルネスタは息を整える。

 そして――。


『エル様にひとつ、秘密を教えます』


 ギルベルトが、最後の夜に教えてくれた秘密。

 エルネスタは目を閉じた。

 

 けたたましい銃声。

 轟音と咆哮。

 その音をすり抜けるようにして、探し出す――“静寂の中心”。


『そこに自分がいます』


「……」 



 ――……見つけた。


「ドミトリ! ここから斜め右方向ですわ!」


 ドミトリはエルネスタの指示に従い、右斜め前へと突っ走る。


 しばらく進む。

 銃声が遠ざかる。

 辿り着いたのは、戦場とは逆方向の場所だった――。

 

 静寂。


 音が雪に吸い込まれ、人の声はおろか、鳥の鳴き声も聞こえない。


 エルネスタはもう一度、目を瞑り、耳を研ぎ澄ます。


 静寂の中で、微かな気配があった。

 エルネスタが大好きな音――。


 目を見開いた瞬間――。


 カンッ。


 木の上の枝から、発砲音が聞こえた。

 茂みから見えたのは、黒い銃口――ギルベルトの狙撃銃だ。


「ギル!」


 名前を呼んだ瞬間だった。



 パアンッ!


 銃声が遠方から聞こえた。

 音が近づく。

 ギルベルトの狙撃銃の方角へ――。


 エルネスタは頭で考えたわけではない。

 考える時間さえなかった。

 ただ、ギルベルトを守りたい、その一心だった。


 その想いが、小さな空気の気泡になって、銃弾のように発射される。

 ――標的は、ギルベルトに迫り来る敵兵の銃弾だ。


 コンッ。

 気泡は銃弾へと命中し、そのまま軌道を逸らす。


 銃弾が、ギルベルトが潜む場所から、わずか三十センチだけ逸れた。


「ギル! 無事ですの!?」


 自身を呼ぶ小さな声に、ギルベルトは驚愕に目を見開き、すぐさま木の上からエルネスタの前へと飛び降りた。


「エル様……っ! なぜ、こんな死地へ……!」

「ギル……!」

 ドミトリから降りたエルネスタは、白い花がぱっと綻ぶような笑顔を向ける。

 そして、ギルベルトに抱きついた。

「ギルを、連れ戻しにきましたわ。……わたくしを置いていかないで」

 

 ギルベルトはなかなか、現実の実感が湧かなかった。

 自分は幻影か、走馬灯を見ているのだろうか――。


 だが、自身を抱きしめる体温と、胸近くで微かに聞こえる小さな心音は本物だった。


「エル様……」


 迷いながら、ギルベルトがエルネスタの背中にそっと手を置いたときだった。


 近づいてくる足跡がある――その数は、三人。


 はっとしたギルベルトは、とっさにエルネスタを抱きかかえて近くの茂みへと移動する。

「来いっ! ドミトリ!」


 ギルベルトを追うように、ドミトリも茂みの中へと身を隠した。


「この辺だったよな……」

「ああ、銃弾が飛んできたのはここだ」

 敵兵たちの話し声。


 エルネスタとギルベルトは息を潜める。


「さっきの弾は当たったのか」

「いや……。手ごたえはあったが、死体がない」


 足音が更に近づく。


「気をつけろよ。近くに潜んでるかもしれない」

「おそらく“銀の狙撃手”だ」


 腕の中の、エルネスタの小さな身体が強張るのが分かった。


「探せ。仕留めれば莫大な報酬だ。生かして帰すな」

 敵の冷酷な声が、すぐそこまで迫る。


 ギルベルトは腕の中のエルネスタを、壊れ物を扱うように、けれど絶対に離さないという強い力で抱きしめ直した。

 ――自分は、この冷たい雪の上で、心を削りながらただ死んでいく兵士だった。 引き金を引くたび、心はすり減り、それでも生き残った自分は、いつ死んでも構わない――そう思っていた。

 ……エルネスタと出会うまでは――。

 彼女を守る使命を与えられ、恐怖を感じている暇はない。そう思うと、初めて、やっと息ができる気がした。

 そしてこの小さな主人は、ドレスを泥に塗らし、犬の背にまたがって、自分の「静寂の中心」を見つけ出してくれた。


 僅かな風が吹いた瞬間だった。

 敵兵が茂みに向けて発砲する。


 エルネスタの喉が、ひゅっと鳴った。


 弾丸はギルベルトの頬をわずかに掠り、一滴の血が、白い地面に赤く滲んでいく。


「……エル、怪我は?」

 小さく低い声だが、その勢いにエルネスタは顔を上げる。

 無言で首を横に振った。


 ギルベルトは少し安心したように、細く息を吐き出す。

 そして、茂み越しに、静かに銃を構え出した。

 ギルベルトを取り巻く雰囲気が、張り詰めるのが分かる。


「そこじゃなかったか」

「いや……微かに手応えはあった」


 エルネスタを守るように、ギルベルトは一歩だけ前へ出た。

 手元で安全装置を外す音が響く。――カチリ。


 凍てつく森に、硬質な金属音が美しく響き渡る。


 ギルベルトは茂みから音もなく立ち上がり、銃口を敵兵へと向けた。その背中は、エルネスタを外敵から完全に遮断する絶対的な壁だった。


 バンッ。


 その軽い音と共に、敵兵が一人地面へと倒れ込んだ。


「あいつだ……っ!」

 焦った別の兵士が、ギルベルトへ銃口を向ける。


 だが――。


 バンッ。


 二発目の銃声。

 焦った兵士は、引き金を引くことさえ許されず、そのまま雪の上へと崩れ落ちた。


 狙撃手(スナイパー)の領域に入ったギルベルトの射撃には、一切の無駄も、躊躇いもない。

 一撃、一殺。


「ひ、ひぃっ……!」

 残された最後の一人が、恐怖に顔を歪めて後ずさる。

 数秒前まで自分たちが追いつめていたはずの“銀の狙撃手”は、今や冷徹な死神そのものに見える。


 兵士は狂ったように引き金を連射する。

 だが、怯えに狂った弾丸は、ギルベルトの影にさえ掠りもしない。


 ギルベルトは冷ややかに、銃口をその男へと向け直した。

 その背中を見上げるエルネスタは、息を呑む。

 彼の背中から立ち上る、圧倒的な、剥き出しの殺意。そして、それ以上に深い――感情。

 けれど、それ以上に胸を震わせたのは、その背中が、自分を守るためだけに立っているのだと分かってしまったことだった。


「……下がっていろ、エル」

 低く、地を這うような声。


 引き金にかけられた指先に、力がこもる。


「――俺の標的には、絶対に触れさせない」


 バンッ。


 凍銀の森を揺るがした三発目の銃声が、最後の脅威を完全に消し去った。

 

 しんと、世界が静まり返る。

 音が雪に吸い込まれていく、本物の静寂。

 その最も深い中心に、ギルベルトは静かに銃を下げて、立ち尽くしていた。


 ギルベルトはゆっくりと振り返る。

 その灰色の瞳からは先ほどの狂気的な殺意は消え去り、痛いほどの愛おしさだけが揺れていた。


 彼は雪の上に膝をつき、エルネスタの目線に合わせる。

 頬に流れる一筋の赤。それを、エルネスタは先日の夜のように、小さな手でそっと拭った。


「……迎えに、きましたわ」


 エルネスタが微笑むと、ギルベルトは今度こそ、躊躇うことなくその小さな身体を強く、強く、腕の中に抱きしめ込んだ。


「……はい」

 

 冷たい霧の向こう、二人の帰るべき場所には、きっとマーヤたちが温かい暖炉の火を点けて待っている。

 もう二度と、この手を離さないと誓いながら、二人は白銀の森を歩み出した。



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