第10話 セレスティーヌの霧
「あれ?」
「なんだか肌寒いような……」
ひんやりとした冷気を感じた貴族たちは、身震いをした。
その冷気は、ローストを食べているエルネスタに集まっていくかのように、彼女の身体を覆った。
寒い。
ぶるりと身体が震えた矢先――。
視界が真っ黒になった。
周囲の声が遠のいていく。手足に力が入らない。フォークを持っている手や、立っている地面の感覚さえ失われていく。
(なにこれ……)
ただ在るのは、自身の身体をねっとりと覆う冷気だけだ。
恐怖を感じたエルネスタは、急な呼吸困難に陥った。気持ち悪くて、せっかく食べた鹿肉を吐きそうになる。
(怖い……!)
心の中で、そう叫んだ瞬間――。
かたり。
がちゃん。
がちゃん。
がちゃん、がちゃん――。
「きゃあっ。食器が浮き上がりましたわ……!」
セレスティーヌが大きな声を張り上げた。
貴族たちがテーブルの方を見渡す。
「なんだこれは!?」
「食器やお菓子が浮いてる……?」
バリン!
「皿が割れたぞ!」
サンルームの花瓶、さらにはセレスティーヌの椅子までが、不気味な音を立てて宙へと浮き上がり、回転し始める。
「怪物だわ!」
「化け物!」
貴族たちの本物の悲鳴が、霧の中に溶けていく。
エルネスタは言葉を発することもできず、小さな身体を震わせている。
その様子を見たセレスティーヌは、一人でほくそ笑んだ。
(そろそろ、トドメを刺しましょうか……)
セレスティーヌはエルネスタへと近づいた。
「エルネスタ様? 顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
エルネスタは顔面蒼白のまま、焦点が合わずに、身体が小刻みに震えている。
「そういえば」
セレスティーヌはわざとらしく一拍間を置いて、あたりを見渡した。
「今日はあの野犬……失礼。護衛はおりませんのね」
エルネスタの肩がわずかに揺れる。
(ギル……)
ギルベルトの姿が脳裏に浮かんだエルネスタの視界が、少しだけ開けた。
一昨日の夜。
ギルベルトは自分にだけ秘密を教えてくれた。
『位置を知るには、自分を見るのではなく、周りを見るのです。そして、『どの音が不自然に消えているか』を』
『もし世界が静まり返ったなら、その静寂の最も深い中心に、自分が潜んでいます』
『音が消えた方向を見据えてください。そこに自分がいます』
「大丈夫……失敗しても、わたくしには……一番静かな場所に……ギルが……」
エルネスタは落ち着かせるように、そっと胸に手を置いた。
(耳を澄ませる……)
霧の中から「ギルの気配」を探すために。
静かな場所――。
ギルベルトの足音。
気配。
それを辿るように、感覚を研ぎ澄ませる。
(……ギル?)
確かにある。
ここから離れているけど、そう遠くない気がする。
距離は、わからない。
それがギルベルトだと、確信はできない。
ただ、その静寂だけは、どうしても気になった。
そのとき。
ワンッ!
(……ドミトリの声)
ドミトリの鳴き声を見つけた。
ギルベルトの気配よりも、かなり近くに。
(そうだ。ドミトリも一緒だった)
エルネスタの乱れた鼓動が、規則的に収まっていく。
浮いた食器や花瓶、椅子がゆっくり弧を描き、もとの位置へと戻っていった。
貴族たちから、安堵の雰囲気が漂う。
その一方で、セレスティーヌは顔を悔しそうに歪めた。
そして――。
何かを思いついたかのように、薄ら笑みを浮かべる。
セレスティーヌはそっと、エルネスタの耳元に唇を近付けた。
「無駄ですわ。あの男はもう、二度と戻らない死地へ向かわせましたもの」
セレスティーヌの言葉が脳天を貫いた瞬間、その場の空気が一瞬、ぴたりと止まった。
エルネスタの瞳から光が消える。
「……死地?」
「そうですわ。あの男は、凍銀の森へ向かわせましたの。あそこは、帰って来れる場所ではありませんわ」
凍銀の森――。
ここから北側、隣国との国境付近に広がる雪深い森林地帯だ。気温は常に零度付近。地面は年中雪に覆われ、昼なお薄暗い。館からそう遠く離れてはいない。だがその森には、人の営みを拒むような、暗澹とした静けさがあった。
バリンッ。
「なんだ?」
その音が一発目だった。
バリンッ。
バリンッ。
バリンッ。
バリンッ。
等間隔で連射される狙撃に似た音と共に、窓ガラスがドミノ倒しのように割れて行く。
「な、なんですの!?」
説明のつかない状況に、その場に居た貴族たちが怯えだした。
「まさか……」
セレスティーヌの右半身が、ぶるりと震えた。
右側――エルネスタから、異様な雰囲気を感じ取ったからだ。
はっとして、エルネスタに視線を向ける。
セレスティーヌは息を呑んだ。
エルネスタの凍てつくような視線が、セレスティーヌを鋭く射貫く。
「ギルに何かしたら、指を切り落としますわ」
セレスティーヌがその異様な気迫に怯んだ隙に、エルネスタはドレスの裾を掴み上げるようにして、駆け出した。
そしてそのまま、サンルームを飛び出す。
貴族たちの騒然とする声を置き去りにして、全力で馬車へと走る。
「ドミトリ……! ドミトリッ!!」
主人のただならぬ気配を察したドミトリが、馬車の前で、すでに牙を剥いて立ち上がっている。
「ギルが……ギルが、凍銀の森にいるの。お願い、ドミトリ。彼の匂いを追って!」




