第九十八話『別れの時』
クリスタの声に弾かれるように、わたしは窓際へと駆け寄り、ガラスにへばりつくようにして眼下を見下ろした。レンも、ギルも、セネカも、息を呑んでその光景に釘付けになった。
下からの凄まじい衝撃波は、大陸そのものが完全に砕け散る余波だった。
王宮の壁や周囲の建物が崩壊し、絶望的な質量の濁流が、数万年の栄華を誇ったオリハルコンのピラミッドや、美しく整備された都市区画を無慈悲に飲み込んでいく。大地の裂け目からは赤いマグマが吹き上がり、海水と触れ合って大量の水蒸気を夜空へと噴き上げていた。
神の箱庭が、完全に死を迎えようとしている。
だけど、その地獄絵図の中で、ひときわ巨大な爆発が第7区画から聞こえてきた。
確かあの下にあるものって……。
王宮直属の生体兵器研究所である【メデューサのマザーラボ】!?!?!?
「……あの下にはラボが」
セネカが、震える声で呟いた。その直後だった。
崩れ落ちる王宮の瓦礫の中から、無数の『影』が一斉に解き放たれたのだ。
バサバサバサッ!!
夜空に向かって、真っ白な巨大な翼を広げた馬の群れが、いななきを上げながら飛翔していく。その横を、ライオンの巨躯に人間の顔と鷲の翼を持った異形の獣が、重力から解放されたように力強く風を切り裂いていく。
ヴィマナの窓のすぐ外を、それらの生き物が次々と通り過ぎて、本物の星空へと散っていく。
「これは……」
ギルが目を剥いてガラスに額をぶつけている。
空だけではない。荒れ狂う眼下の海でも、信じられない光景が広がっていた。
巨大な牛の頭と筋骨隆々の人間の肉体を持った巨人たちが、沈みゆく大陸から逃れるように、波を掻き分けて力強く泳いでいる。さらにその足元を縫うように、上半身が美しく、下半身が魚のヒレを持った者たちが、水飛沫を上げて広大な外洋へと飛び出していくのが見えた。
「あ! あの時のオオカミくん!」
セネカが窓に両手を押し当て、何やら顔見知りのキメラを発見したみたいだ。
「セネカ。オオカミくんって……」
セネカの視線の先を見ると、夜空にはばたくペガサスの大群の中に、翼の生えたオオカミが飛んでいた。
「レン! ヴィマナを止めて!」
「なんだよセネカ」
「いいから止めろ。救出するんだ」
レンがヴィマナの操縦桿のレバーを引いて、空中で一時停止する。セネカがヴィマナのハッチを開き、空中でバランスを取れずよろめいているオオカミの前足を引っ張り上げ、ヴィマナの中に引き込んだ。
「アォォン アオォオン グルルルル……」
ドサっという重たい音と共に、オオカミの咆哮が聞こえたけれど、ひどく弱っているせいか頼りない声だった。
「メドゥーサのマザーラボに潜入したときに『後で絶対助けるからね』って約束したのに、地下が崩壊したから助けられなかったんだ……」
セネカはみんなに説明するようにつぶやく。そのオオカミの身体を抱きしめ、『ごめんね、ごめんね』と繰り返し頭を撫でていた。その一部始終を見ていたギルが恐る恐る尋ねる。
「そいつ危険じゃねえのか……」
「危険じゃねえよ! ギル! コイツ、ムー大陸で飼うぞ!」
「ムー大陸で飼うだと……? また、ムチャクチャなこと言いやがる……外来種の持ち込みとか法律で禁止されてたら、犯罪だぞ?」
「国家反逆罪の私たちだ。今さら、犯罪とか言うな」
「はぁ……お前にしては鋭く切り込むな……。おいクリスタ、お前の龍のOSで治療できるか?」
「あ、はい……。このオオカミさんの治療ですね! 了解しました!」
クリスタはレンを治療したときのように、両手をオオカミの身体にかざす。
「──システム・レティクル、開門。母なる大地の脈動を、この者の欠損ログへ同期します」
緑色の光がオオカミの周囲に展開され、オオカミの皮膚の表面で、焼き切れていたエーテル神経の回路が、緑の光の糸によって超高速で再プログラミング──修復されていくのが見える。内臓の微細な損傷ログが次々と正常値へと書き換えられ、オオカミの呼吸が穏やかになっていくのがわかった。さすがクリスタだ。
「眠っちゃいましたね。しばらくは起きないでしょう。目覚めたらオオカミさんの食べられそうなものを与えてください」
「ツキシマレンの肉とか食うかな」
「お前どんだけオレに敵対心もってんだよ」
セネカとレンがそんな掛け合いをする中、
ガコンッ──と、ヴィマナの機体が大きく揺れる。
「はわわわわ! ペガサスさんの大群に衝突しましたァ……」
「おいレン。進路を変えろ」
「わーってるって」
レンがヴィマナのレバーを下ろす。ヴィマナはものの数秒でペガサスの大群を通り抜け、わたしは遠くからキメラたちの大行進を眺めた。それはペルセウス座流星群と相まって、かなりカオスな情景だ。
アトランティスの狂った実験によって生み出され、アトランティスという檻の中で一生を終えるはずだったキメラたち。彼らは大陸の死と引き換えに、初めて本当の自由を手に入れた。
「……なるほどな」
わたしの背後から操縦を終えて、窓の外を見下ろしていたレンが、低く、納得したような声を漏らした。
彼の瞳には、飛翔する馬や、波間を泳ぐ牛頭の巨人の姿が、令和の歴史データと照らし合わされるように映り込んでいた。
「ペガサスに、スフィンクス。海にはミノタウロスと、人魚か」
「え……?」
わたしが振り返ると、レンは窓ガラスに手をつき、薄く笑みを浮かべていた。それは、ハッカーとして世界の真理のパズルを一つ解き明かしたような、どこか清々しい顔だった。
「アトランティスが海に沈み、あの檻から逃げ出したキメラたちが世界中へと散らばっていく……。この崩壊のあと、あいつらはギリシャ神話で『架空の生物』として語り継がれるってことだな」
「ああ、あんたの言ってた、神話は圧縮データって話ね……」
「ああ。オレのいた未来の歴史じゃ、アトランティス大陸の存在も、あいつらキメラも、全部ただのおとぎ話として片付けられてる。だけど……現実は違った。あいつらは神話なんかじゃねえ。この時代を必死に生きて、自由を勝ち取った立派な『命』だ」
レンの言葉に、セネカが弾かれたように振り向き、その瞳をパァッと輝かせた。
「神話……! じゃあ、あの子たちの生きた証は、レンの時代にもちゃんと残ってるってことか!?」
「ああ、残ってる。世界中の誰もが知る、最高の物語としてな」
レンがぶっきらぼうに、けれど優しい声で答えると、セネカは『よかったぁぁ……!』とその場にへたり込んで泣きじゃくった。クリスタが慌てて『はわわ、よしよしです』とセネカの背中を撫でている。
神話の誕生。
この壮絶な終わりは、決して悲劇だけじゃない。新しい世界が始まる、確かな第一歩なんだ。
『──感動しているところ悪いが、いよいよ限界だ』
再び、ホログラムのお父さんの声が緊迫感を持って響き渡った。
『地殻崩壊のエネルギー値が、タイムリープマシンの起動に必要な規定値を突破した。この数分間だけ、次元の壁が最も薄くなる。……レン君。未来へ帰るワームホールを開くなら、今しかない』
その言葉が落ちた瞬間、貨物室の空気が再び凍りついた。
レンが直結させているヴィマナのメインコンソールに繋がれた【デジタルマスク】が、莫大なエネルギーを吸い上げて脈打つように青白い光を放ち始めたのだ。
──時が、来てしまった。
窓の外の美しい神話の光景から一転、わたしたちは否応なしに『究極の選択』の結末を突きつけられた。
レンはゆっくりと窓際から離れ、青白く光るデジタルマスクと、ホログラムのお父さんに向き直った。
『座標の計算は完了している。あとは君が、そのコンソールから最終コマンドを打ち込むだけだ』
「……ええ。ありがとうございます。アトラスさん」
レンは短く答え、メインコンソールに置かれたデジタルマスクに手を伸ばした。
ブォンッ……! と、機内の空気が震える。デジタルマスクがアトランティスの崩壊エネルギーと、わたしの松果体から送られる星時計のデータを猛烈な勢いで吸い上げ、空間そのものを歪めるような眩い光を放ち始めた。
「時空断層、干渉開始。特異点座標……西暦二〇二X年、日本」
レンの指がコンソールを叩くたび、機内の中心に、青白い光の渦──時空の穴が、少しずつその口を開き始める。オゾンに似た焦げたような匂いが、冷たい空気と一緒に鼻腔を突いた。
帰るんだ。
本当に、レンは未来に帰ってしまう。
頭では分かっている。それが正しい歴史のルートで、彼にしかできない使命だってことくらい。だけど、足がすくんで、視界が滲んで、呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が苦しい。
『レン君』
ワームホールが完全に開きかける直前、ホログラムのお父さんが優しく声をかけた。
『君には、大きな借りができたね。私の愛する娘を……リンコを、あの地獄から救い出してくれて、本当にありがとう』
その言葉に、コンソールを叩いていたレンの手がピタリと止まった。
彼は少しだけ俯いた後、ゆっくりと振り返り、わたしを見た。
「……アトラスさん」
レンのその声はひどく震えていた。
「オレは……リンコに救われたんです。初めは特殊部隊と地下街の人間で敵対していた。だけど、コイツのまっすぐな姿勢とか、努力家なところとか、純粋で、好奇心旺盛なところを見てたら、こんなオレでも何かを変えられるかもしれないって初めて思えた……ちょっと手がかかって、素直じゃなくて、すぐ意地張るメンドクサイやつだけど……」
レンが一歩、わたしの方へ歩み寄る。
「……最高に、いい女だ。オレにはもったいないくらいにな」
「っ……バカ……」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの中でギリギリ持ち堪えていたダムが決壊した。
意地なんて、もう張れなかった。
わたしは無我夢中で駆け出し、レンの胸に飛び込んだ。
ドンッ、と勢いよくぶつかったわたしを、レンの力強い両腕がしっかりと受け止め、折れるんじゃないかと思うくらい強く、強く抱きしめ返してくれた。
「レン……やだ、帰らないで……っ! 一緒に、ムー大陸に……」
みっともなく泣きじゃくりながら、彼の服の背中をギュッと握りしめる。
同期している脳のネットワークを通じて、レンの感情が、言葉の何千倍もの情報量でわたしの心に流れ込んでくる。
──帰りたくない。
──お前を手放したくない。
──ギルたちと、バカ笑いしながら新しい世界を生きてみたかった。
痛いほどのその本音に、わたしの涙は止まらなくなった。
「オレだって……帰りたくねえよ……ッ」
レンの掠れた声が、わたしの耳元で震えていた。彼の頬からこぼれた熱い滴が、わたしの首筋に落ちるのが分かった。
「だけど……オレがここで逃げたら、お前たちが命懸けで勝ち取ったこの『自由』が、未来に繋がらなくなる。……お前が生きたこの時代の証明を、キメラたちが空を飛んだこの神話の真実を、オレが令和の時代で……絶対に証明してやるから」
「レン……っ」
「だから、泣くな……」
レンはそう言って、少しだけ身を離すと、両手でわたしの涙でぐしゃぐしゃになった頬を包み込んだ。
そして、何も言わずに、わたしの唇に深く、熱いキスをした。
鉄塔の上で交わした時のキスよりも、ずっと悲しくて、ずっと優しいキスだった。脳の同期を通じて、お互いの魂の形まで溶け合うような、永遠にも似た一瞬。
背後で、ギルがわざとらしく口笛を吹いた。
「ま、お前らツンデレコンビの集大成としては、百点満点だな」
「……あぁっ。り、り、り、リンコ様!? いったい何を……ッ」
セネカが絶望した表情で、わたしたちを見ている。セネカ……ごめん……最後だからもう意地張れない……。
「はわわ……! す、素晴らしい純愛です……! わたし、この光景をOSのメモリに永久保存しますぅ……っ!」
クリスタは両手で顔を覆いながらも、指の隙間からバッチリとこちらをガン見していた。
唇を離したレンは、ギルたちの方を見て、恥ずかしそうにうつむく。自分でやったことなのに、だ。
レンって相変わらずこういうところがある。ガキっぽいというか、好きな相手に素直になれない小学生みたいな。だけど、中間休みのドッジボールでは好きな女の子の前で本気出す感じ。後戻りできなかったり引き返せない場面では、勝負に出る。こういういざという時には男を見せてくれる姿に、わたしは……そう……こういう部分にドハマりしてしまったのだ……。
「まあまあ。みなまで言うな」
ギルがレンの肩をポンと叩くと、レンは恨めしそうな顔でギルを見た。もはや、わたしより意地っ張りかもしれない。そりゃわたしだって、みんなの前で、それにお父さんの前でキスするのは、死ぬほど恥ずかしいけれど。
「ギル。セネカ。クリスタ。……リンコのこと、頼んだぞ。絶対、幸せにしてやってくれ」
「ああ、当たり前だ」
ギルが腕を組んでしっかりとわたしたちを見据える。
「当たり前だ! 絶対お前なんかよりリンコ様を幸せにしてみせる!!!!」
セネカが本気の憎しみの目でレンを見る……。
そんなセネカの目を軽くかわすようにレンは最後に言う。
「あとこれは重要なことだ。リンコがメストルに埋め込まれたガワのインプラントの残響キャッシュ。オレがもうあっちの世界に戻っちまうから、定期的なメンテナンスができねえ。だからこれ……三か月分のパッチだ。三か月もあれば、20年分のキャッシュデータを削除できるっていう計算もした」
レンがクリスタルを渡してくる。そう言えば、わたしは定期的に頭痛が起こる身体になってしまったんだった……。放って置くと脳が焼き切れてしまい死んでしまうという。いつの間にこんなものを作っていたんだろうか……。
「タイムリープマシンを作ってる時に、同時進行でこれも作っててな。リンコ、オレにメンテナンスされるの嫌だったみたいだから」
本当にもう……。今なら、全然良いと思ってたり……。だけど、わたしのためにそこまでしてくれることを嬉しく思う。
「あ、ありがと……」
わたしがそう言うとレンは最後にもう一度、わたしの目を見た。
「……じゃあな、リンコ。愛してる」
その言葉と共に、レンの身体が後ずさりし、渦巻くワームホールの青白い光の中へと足を踏み入れた。
本当にレンが行ってしまう。
わたしは最後に愛してると言われたのに、その言葉を返してあげる余裕もなく、ただ名前を叫んだ。
「レンッ……!!」
わたしが手を伸ばす。
レンもこちらへ手を伸ばし、指先がほんのわずかに触れ合った──次の瞬間。
カァァァァァァンッ……!!!
機内を真っ白な閃光が包み込み、鼓膜を突き破るような轟音と共に、時空の穴が弾けた。
光が収まった後。
メインコンソールの上には、焼き切れて黒く焦げた『デジタルマスク』だけがポツンと残され……レンの姿は、影も形もなく消え去っていた。
一つの狂った世界が終わり、一つの別れを経て……わたしたちを乗せた漆黒のヴィマナは、夜明けが近づく星空を、ムー大陸へ向かって静かに飛び続けていた。




