第九十九話『アトラス』
午前4時半。わたしはずっと泣いていた……。セネカとクリスタに慰められながら、しくしくと嗚咽を漏らしながら、しばらくヴィマナで空を走行する。ほぼ無音の機内の中で、ふとギルを見やると、神妙な面持ちでお父さんのホログラムと対峙していた。
「リンコの親父。アンタの名前をもう一度教えてくれ」
ギルは眉間にしわを寄せながら、腕を組み、どうにも不可解という顔をしている。
「アトラス──」
その短い言葉を吐き終えると共に、ギルは『信じられない』と言った顔で、目を大きく見開く。
「十人王の最強格、その玉座にいる男の名前もアトラスだな」
わたしの涙が一気に引っ込んだ。アトラス……お父さんの名前を思い出した時には、その衝撃で気づいてなかったけど──そう言えば、アトラスはアトランティスを作った神の名前であることは、アトランティス市民であれば誰もが知っていることだ。ただ、神様の名前が由来って思ってたけど、やっぱりお父さんほどの人なら何かあるに違いない……。
『ギルくん。君はいいところを突くね。おっしゃる通り十人王のトップの名前もアトラスだ。関係……あるよ……。僕がメストルに殺されたあと、その名前と功績をすべて強奪し、絶対権力者として君臨した。星時計を奪えば、真の宇宙の支配者『アトラス』になれるという王宮のトップを巻き込んだ陰謀だよ』
「星時計のデータはリンコの松果体の中だろう? ということは、物体としての星時計を奴らは探していたということか」
「ご名答。この世界のどこかに僕が隠したんだ。データだけだと、地殻変動や、レンくんのデジタルマスク、さまざまな条件が合わさったときにしか発動しないようになっている。だけど、本体を使えば、いつ如何なるときでもタイムスリップできる」
「なんでそんな危険なものを……」
『危険だから隠したんだよ。奴ら支配層はそんなものがあればいくらでも歴史を改ざんするために使うだろうからね。だから本当の場所を君たちに教えて、守ってもらおうと思っていた。……だけど、アトランティスは崩壊したからその必要もないみたいだ』
お父さんのホログラムが徐々にノイズのような砂嵐が混じっていく。
ガガ……ジジッ……という古い無線通信機のような音。
『リンコ……、僕は星時計が止まる夜明け前5時に消える。そしてもう二度と起動しないんだ。最後になにか聞きたいことがあるなら今しかない。このAI、僕が知っている情報は3年前のもの。古い知識だけどね』
「え……お父さんが死んじゃったのはわたしが子どものころ……」
『言ったろう? 僕は記憶という媒体で時間遡行をしていたんだ。生前の僕は色んな世界、色んな時代を見てきた。戦争ばかりのきな臭い話も多いけど、愛の話もある』
「お父さん……」
わたしは、ずっと心の奥底に封じられていたけれど、今日ようやく形を取り戻した大切な記憶を口にした。
「あのね、鉄塔でインプラントが砕けたとき……わたし、思い出したの。本当のお母さんのこと」
ホログラムのお父さんが、わずかに目を見開く。
「小さい頃、お母さんと一緒にキッチンに立って、料理を作ってた記憶。温かいビーフシチューの匂いと、お母さんが笑いながら鍋をかき混ぜてる横顔……。わたし、その背中をずっと見てた。お母さんって、あんなに優しくて、温かい人だったんだね。お父さんしか知らないお母さんの部分知りたいな」
お父さんのノイズ混じりの顔が、これまでで一番、優しく、そして泣きそうに綻んだ。
『……ああ。思い出したんだね、リンコ。……そうだよ。君のお母さんは、本当に料理が好きでね。リンコの前では見せないけれど、本当は少し不器用で、よくパンを焦がしては誤魔化すように笑っていた』
ホログラムの手が、そっとわたしの頭を撫でるように動く。物理的な感触はないはずなのに、なぜかとても温かく感じた。
『意地っ張りで……さっきの君とレン君みたいに、素直じゃない人だった。でも、誰よりも真っ直ぐで、太陽みたいによく笑う女性だった。君のその気の強さと、愛情深いところは、本当にお母さんそっくりだよ』
「……そっか。わたし、お母さんに似てるんだ……」
『僕が十人王に逆らい、星時計の運命を狂わせてでも守りたかったのは、世界じゃない。君のお母さんが命を懸けて愛し、残してくれた、リンコ……君の未来だ』
ジジッ……ガガガッ……。
お父さんの足元から、光の粒子が少しずつ空気に溶けていく。
時間が、来る。
『悲しむことはないよ、リンコ。レン君は君の心の中に、僕は君の記憶の中に、そしてお母さんの温もりは、キッチンで君と繋いだその両手の中にある。君はもう、一人じゃない』
「うん……うんっ……! わたし、忘れない。ありがとう、お父さん。わたしを……産んでくれて、守ってくれて……ッ!」
『ギルくん、セネカさん、クリスタさん……娘を頼む。そして、リンコ。……どうか、幸せに』
ピィン……という、微かな電子音。
窓の外、水平線の向こうから、夜明けの光が差し込んだ。午前5時。
アトラスという神の名を持った、わたしの大好きなお父さんのホログラムは、朝焼けの光に溶け込むようにして、完全に消滅した。
「……さよなら、お父さん」
誰もいなくなった空間に、ぽつりと呟く。
不思議と、もう涙は出なかった。代わりに、胸の奥に灯った確かな温かさが、わたしの背中を押してくれている気がした。
振り返ると、ギルも、セネカも、クリスタも、優しい目でわたしを見守ってくれていた。
「……行くぞ、お前ら」
ギルが、わざとらしく明るい声で言う。
「神様も時間も支配者もいねえ、俺たちだけの新天地にな」
「おうよッ! ムー大陸に着いたら、リンコ様と一緒に最高のご飯を作るぞ! お母様直伝のスープ、わたしにも教えてくださいね! リンコ様ァァァ――」
セネカが涙を拭いながら、力強くガッツポーズをする。
「はわわ……! やっとムーに帰れます~ぅ。わたし、龍のOSで農業がんばりますっ! オオカミさんのごはんも、美味しいお野菜もいっぱい育てますから!」
クリスタが、眠っている翼の生えたオオカミを撫でながら微笑んだ。
わたしは、レンが最後に残してくれた三ヶ月分のパッチを胸に強く抱きしめ、窓の外を見た。
果てしなく広がる青い海。そして、琥珀色に輝く、新しい世界の夜明け。
──レン。あんたが帰った未来の空も、こんな風に綺麗に晴れてるの?
わたしはここで、みんなと生きていく……。あんたが命懸けで繋いでくれた、この歴史の先で。




