第九十五話『最後の関門』
さっき鉄塔の上でキスをしてくれた時の熱はどこへやら、今のレンの横顔はひどく険しく、前だけを真っ直ぐに見据えている。同期している脳の片隅からは、彼が必死に『何か』を計算し、思考を巡らせているノイズが伝わってきた。
──地殻変動の全エネルギーをマスクに補給し、本来の時代へ帰るか。
──それとも、わたしと共にムー大陸へ逃げるか。
お父さんが突きつけた、究極の選択。
レンは『まずはお前を絶対に死なせない』と言ってくれたけれど、それはつまり、彼自身がどちらの道を選ぶか、まだ答えを出していないということだ。わたしのために令和への帰還を諦めさせるなんて、そんなの、重すぎる。だけど……彼がいなくなることを想像すると、胸の奥が張り裂けそうになるのも事実だった。
「リンコ、止まれ!」
唐突に、レンがわたしの腕を強く引いた。
ハッとして足を止めた瞬間、わたしたちの目の前数メートルのところへ、巨大な石柱が轟音を立てて崩れ落ちてきた。
「きゃあっ!?」
クリスタが悲鳴を上げ、セネカが咄嗟に彼女を庇う。
濛々(もうもう)と舞い上がる粉塵。もしレンが止めてくれなければ、わたしは間違いなく下敷きになっていた。
「ボーッとしてんじゃねえ。いつものお前らしくないぞ」
粉塵越しに、レンが呆れたように、けれどどこか心配そうな目を向けてくる。
「……っ、分かってる。ちょっと考え事してただけ」
強がって見せると、レンはそれ以上は何も言わず、崩れた瓦礫を乗り越えるために先に立って手を差し出してくれた。その手のひらの温かさが、痛いほどに伝わってくる。
ガガガガガッ……!!
再び、大地が大きくうねった。今度の揺れはさっきまでとは桁違いだ。周囲の建物が一斉にひび割れ、ガラスが砕け散る音が夜空に響き渡る。地殻崩壊のタイムリミットが、もうすぐそこまで迫っている。
「急ぐぞ! 運河はもうすぐだ!」
レンの叫び声に急かされるように、わたしたちは瓦礫を乗り越え、無我夢中で駆け抜ける。
そして──
視界を遮っていた巨大な防護壁のゲートの前にあるセキュリティ──オリハルコンのパイプにレンがバールを突き立てる。いつものコイツのハッキングだ。レンのまわりに火花が散ると、セキュリティが解除される音が聞こえる。こんな状況のせいか、いつもより手早くこなしているように見える。
防護壁のゲートを抜けた瞬間、生温かい潮風が全身を打ち据えた。
「着いた……っ!」
息を切らして立ち止まる。
目の前に広がっていたのは、海へと続く巨大な人工の水路──【ポセイドンの大運河】だった。
だが、その壮大な光景よりも先にわたしたちの目を釘付けにしたのは、運河の中央ドックに停泊している、ぬらりとした黒光りする巨大な流線型の機体だった。
王宮の特権階級だけが所有を許された、反重力飛行船【ヴィマナ】。
あれさえ奪えば、この沈みゆく大陸から脱出できる。
「おい……マジかよ……」
ギルが絶望的な声を漏らした。
ヴィマナの周辺──運河の乗船ゲートには、プラズマライフルで完全武装した王宮の親衛隊が、隙間なくズラリと陣形を組んでいたのだ。そして彼らの中心で、パニックになることもなく冷徹に指揮を執っている男の姿があった。
「あれは……」
わたしはゴクリと息を呑んだ。
まだ、終わっていなかったのだ。わたしたちがこの星空の下で生き延びるためには、最後にあの壁を越えなければならない。
防護壁を抜けた先、運河の乗船ゲート。プラズマライフルを構え、ズラリと陣形を組んだ王宮親衛隊の中心で、崩壊の地鳴りなどまるで聞こえていないかのように、悠然と佇む人影があった。
仕立ての良い漆黒の最高級法衣。感情を微塵も感じさせない、爬虫類のように冷酷な瞳。
「誰だ、あのジジイ……。こんな状況で、まるで散歩でもしてるみてえな顔しやがって」
「王宮の……偉い人ですか?」
レンが油断なく身構え、クリスタが怯えたように身をすくませる。レンは、バールを強く握り直しながら、見知らぬその男を鋭く睨みつけていた。彼らにとって、あの男はヴィマナを塞ぐ『不気味な指揮官』に過ぎない。
だが、わたしは違う。知っている。アトランティスで生きる者なら、誰もが知るその顔。
「クロムウェル……教皇……」
その名を口にした、次の瞬間だった。
──ガァァンッ!!
脳髄を直接、巨大なハンマーで殴りつけられたような凄まじい激痛が走った。
「あ……、がっ……!?」
わたしはSSS級のインプラントが剥がれた後、さまざまな記憶の断片を見た──。しかしそれはまだ、パズルのピースが全て埋まったわけではない。わたしの意識はまた、肉体を離れ、時空を超え、俯瞰で『世界の記憶』へと強制的にアクセスさせられていく。
『──見たな、シスター』
頭の中に流れ込んできたのは、見たこともない大聖堂の奥深く、教皇専用の執務室
そして、暗闇に包まれた部屋の中で、ハッと息を呑んで後ずさりする一人の女性の姿だった。
『ライ、ラ……?』
俯瞰するわたしの視界の中で、ライラが震えていた。彼女の目の前には、下層市民から命のエネルギー(エーテル)を搾取し続けるモニターの光と、ワイングラスを傾けるクロムウェルがいる。
逃げようとしたライラの背後から、漆黒の法衣を着た暗殺者たちが音もなく現れた。
『やめ、やめて……!』
わたしは声にならない絶叫を上げた。手が届かない。これは過去だ。世界の記憶が突きつけてくる、絶対に変えられない凄惨な事実。
暗殺者たちの凶刃が、無慈悲にライラの細い身体を貫いた。
一度ではない。二度、三度……何度も、何度も。
「あ……うっ……」
鮮血が執務室の絨毯をどす黒く染め上げていく。ライラの口から血の泡が吹き出し、知的好奇心に満ちていたあの美しい瞳から光が失われ、虚空を見つめて痙攣する。
その悍ましい惨殺の光景を、クロムウェルはまるで虫の死骸でも見るかのような冷たい目で見下ろしていた。
『──地下街の暴徒に殺されたことにしておけ。遺体はそのままマザーラボでクリスタルにしろ。合同葬式には空の棺を用意すればいい』
そこで、記憶の奔流がプツンと途切れた。
「ああ、あああ、ああああああああっ!!!」
現実に引き戻されたわたしは、喉が裂けるほどの絶叫を上げ、両手で頭を抱え込んで石畳に崩れ落ちた。
嘘だ。暴徒に殺されたなんて嘘だ。全部、全部コイツが……この男がライラを殺したんだ!!
胃の内容物が込み上げそうになったが、吐くことに恐怖を感じ、寸前のところで気を張って我慢する。わたしは自らの爪で顔を掻き毟りそうになるほど錯乱した。
「おい! リンコ! どうした、しっかりしろ!」
「リンコ様! 大丈夫ですか!」
レンとセネカが慌ててしゃがみ込み、わたしの肩を触れる。
ギルとクリスタはクロムウェルを警戒するように、まっすぐと見据えている。
レンを見上げた瞬間、同期している脳の片隅から、レンの張り裂けそうな『思考のノイズ』がダイレクトに伝わってきた。
(──今、この地殻変動の莫大な全エネルギーをタイムリープマシンの起動に回せば、オレは元の時代に帰れる)
(──だが、ここでオレが帰還を選べば、目の前で泣き崩れるリンコは、間違いなくあの不気味な指揮官たちに蜂の巣にされる)
(──だから……コイツを倒してから、帰還の道を選ぶか一緒にムー大陸へ逃亡するかの二択。そのための時間はあと……)
わたしのために、そんなに苦しまないで。そう言いたいのに、極限のトラウマで声帯が麻痺して言葉が出ない。
「……ほう」
大地がうねり、阿鼻叫喚の混乱が広がる中、運河の向こうからクロムウェルが冷ややかな目で見下ろしていた。
「メストルの娘か。どうやら、その反応だと真実を知ったみたいだな。……哀れなものだ。真実を知り得ぬままでいれば、そうして絶望に狂うこともなかったものを──」
教皇の酷薄な声が、潮風に乗って鼓膜を打つ。
「てめえ……何しやがった……!」
レンが、わたしを庇うように立ち上がり、クロムウェルに向かって鋭い殺気を放った。
だが、教皇クロムウェルは、血走った目で睨みつけてくるレンを見て、心底不思議そうに鼻で笑った。
「何をしたかだと? 気が触れたか、地下街のネズミ。メストルから話は聞いていたが、ただの出来損ないの娘ではないか。勝手に発狂して喚いているだけだろう」
クロムウェルは、わたしの身に何が起きたのかなど微塵も理解していなかった。本当の父親であるアトラスが仕込んだSSS級インプラントのことも、レンが偽の記憶を剥がしたことも知らない。
こいつは、メストルのように全てを掌握しているわけでもない。ただ他人の上前をはねて偉ぶっているだけの、底の浅い小悪党に過ぎないのだ。
だが──。
(……ッ!?)
レンの脳内に、うずくまるわたしから『同期』を通じて、強烈なフラッシュバックが流れ込んでいった。
薄暗い執務室。倒れる美しいシスター。飛び散る血。そして、それを冷笑しながら見下ろす、目の前のこの男の姿。
『──地下街の暴徒に殺されたことにしておけ』
その声がレンの脳の奥で再生された瞬間、レンの中で何かが決定的にブチッと千切れた。
「……お前か。リンコの……大切なシスターを殺ったのは、お前だったのか」
「ハッ。何の話をしているかは知らんが、全隊撃て!」
クロムウェルが親衛隊に命じた、その時だった。
ズドォォォォン!!
地殻崩壊のすさまじい揺れが、運河の足場を大きく跳ね上げた。親衛隊たちの銃口がブレたその一瞬の隙を、激怒に沸騰したレンの反射神経が見逃すはずがなかった。
プラズマの射線を掻き潜り、レンは一気にクロムウェルの懐へと踏み込んだ。
「ひっ──」
小悪党のメッキが剥がれ、クロムウェルの顔に無様な恐怖が浮かぶ。
レンは右手に握りしめていたオリハルコン製のバールを、一切の躊躇なく、フルスイングで教皇の顔面に叩き込んだ。
ゴォッ!! という鈍い破砕音。
「あべばッ!?」
クロムウェルの鼻骨が完全に砕け、前歯が数本吹き飛んだ。最高級の法衣を血と鼻水で汚し、教皇は無様に白目を剥いて石畳にブッ倒れる。
「てめえはここで楽に死ねると思うなよ」
レンは気絶したクロムウェルの首根っこを乱暴に掴み上げた。
「ギル! そこの防護壁のロープ寄越せ! コイツを縛り上げろ!」
「お前マジか……。ここに置いていくんじゃなくてお持ち帰りかよ……」
「今まで地下街や地上の人間を拷問してエーテル搾り取ってきたクソ野郎だ。たっぷり礼をしてから空の旅を楽しんでもらう」
ギルは一瞬あっけに取られたが、すぐに悪びれた笑みを浮かべ、手早くクロムウェルを亀甲縛りのように厳重に縛り上げた。
「セネカ! リンコを頼む!」
「任せてください!」
セネカが錯乱状態から抜け出しきれないわたしを抱え上げ、ヴィマナの中へ飛び込む。レンはそのままバールをヴィマナの物理コンソールに深々と突き立て、強引に配線を引きずり出してスパークさせながら、ショートカット・コマンドを直接打ち込んだ。純粋で暴力的な物理ハッキングだ。
「リンコ、大丈夫か?」
「うん……もう……平気」
「ヴィマナを動かす、仕上げのハッキング作業頼んでいいか?」
レンの優しい声と、温かい脳内同期のノイズに背中を押され、わたしはハッと我に返った。涙でぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に拭い、操縦桿を握りしめる。
(わたしが……やらなきゃ!)
ヴィマナが凄まじい轟音と共に浮上する。迫り来る濁流が親衛隊を飲み込んでいくのを眼下に、漆黒の機体はアトランティスの空を突き破り、本物の星空へと飛び立った。




