第九十二話『タイムリミット』
わたしはすべてを思い出した。それどころか、自分の見ていない視点の物語も、しっかりと把握できてしまったことに驚愕する。すべての記憶を取り戻した後、レンにお姫様だっこされたまま、鉄塔の上からアトランティスの人々を眺める。数万年ぶりの星空のせいか、人々の騒ぎ声が耳を劈く。だけどそれすら、今のわたしにはどこか遠くの世界のように感じられる。
だって、わたしの隣にはレンがいるから……。
やばい……直視できない……。今のレンはあの時、お父さんが言ってくれた『いつかわたしが好きになる男の子』の理想像そのものだったからだ。常識に抗う男──。このアトランティスに数万年ぶりの星空を降らせ、支配と奴隷の歴史を終わらせた男──。心臓がきゅっとなる。このシチュエーションに上手く合う言葉が見つからない。
「レン……わたし思い出したの……」
「ああ。分かってる……」
「ハァ!? なんで分かんのよ!」
「お前のキャッシュデータを削除したときがあったろう?」
「う……うん……」
「もし何かあった時のために、リンコとオレの脳を同期しておいたんだ。も──もちろん、プライバシーに触れる内容とか思考ログにはハッキングしてない」
「だからそれはアンタの尺度でしょ! 離してよ!」
「離さないっ」
「……っ」
わたしの脳がパニックを起こす。トットットッと、心臓の動悸が速くなっていくのを感じる。
「だからアンタもさっきの記憶……見れたわけ……?」
「ああ」
「………っ」
わたしはこの記憶をレンに見られて、不思議と……嫌な感じがしなかった。多分、わたし一人がこの記憶を見ていたら、とてもじゃないけれど耐えきれそうになかったからだ。パニックを起こして、死んでしまいたくなったに違いない。だけど、今──、綺麗な星空があって、レンの落ち着く鼓動の音が聞こえて、肌で触れ合うアイツの体温がある。
「リンコ。こっち向いて」
わたしの背中に回された腕がクイッと持ち上げられる。胴体が起こされ、レンの顔が至近距離にある。息がかかるくらい近い。コイツが何をしようとしてるか、野暮だけど予測してしまった……。
「ちょっと待って。こころの準備が──」
自分の口から出たとは思えないほど、情けなく震えた声だった。
かつて特殊部隊の司令官として、冷徹に引き金を引いていたわたしはどこへ行ったのだろう。今のわたしは、レンの腕の中に回収された、ただの壊れかけの操り人形だ。
実の親が惨殺された記憶。メストルたちに自我を蹂躙されていたおぞましい事実。脳内のプロテクトが弾け飛んだ衝撃で、視界がチカチカと暗転しそうになる。
けれど、倒れそうなわたしをこの世界に繋ぎ止めているのは、脳の同期の向こうから容赦なく流れ込んでくる、レンの感情の濁流だった。
バカみたいに熱くて、ぶっきらぼうで、それでいてわたしを絶対に壊さないようにと必死に抱きしめる、痛いほどの執着。
(ああ、もう、うるさい……)
同期しているせいで、どっちの心臓がこんなに脈打っているのか分からない。数万年ぶりの星空の冷気の中で、レンの体温だけが異常に熱かった。
言い訳を探すように泳がせたわたしの視線を、レンの色素の薄い瞳が真っ向から捕らえる。からかうような余裕なんて、彼にも一切なかった。ただの、余裕のない男の目。
「……ん」
拒絶する間も、身構える隙もなかった。 影が落ちてきたと思った瞬間には、唇に、あいつの感触が押し当てられていた。
息が止まる。レンの匂いと、かすかな鉄の味が、わたしの口内を満たしていく。
脳の最深部で悲鳴を上げていた凄惨な過去のノイズが、レンの唇から伝わる圧倒的な力強さによって、強制的にミュートされていくのが分かった。優しさなんて上等なものじゃない。それは、わたしの絶望を力づくで奪い取っていくような、強引で、けれどどうしようもなく救われてしまう口づけだった。
レンの服を掴むわたしの指先に、じわじわと感覚が戻ってくる。過去に起こった出来事なんて、もうどうでもよかった。レンの息吹だけが、今のわたしの、たった一つの現実。
「ぷは……」
息が止まってしまほどの口づけ。自分の胸の鼓動がバカみたいに高鳴っている。唇を離し、しばらくお互いの肩が上下する。
「息出来ないんだけど……」
本当はすごく嬉しかったけど、いつものようにレンにはちょっと意地を張る。それもレンからしたらお見通しみたいで、じっとただ甘い表情でわたしを見つめていた。
「オレも」
「あんたがやったことでしょ……っ」
レンが焦ってるわたしを見て笑う。それに釣られて笑ってしまいそうになったけど、照れ隠しでそっぽを向く。
レンがお姫様抱っこからわたしを下ろそうとする。さっきからボロボロなのにずっと抱きかかえられたままだと申し訳ない……。
「立てる? 高いところ怖いとかない?」
「んん、平気。特殊部隊で色んな場所行ってたから。わたしがそこらのか弱い女の子に見えるわけ?」
「見えるときもあれば見えないときもある」
「なにそれ……」
ゆっくりと優しく降ろされると、その下に広がるのは暗黒の世界だった。人のざわめきだけが聞こえるけれど、その詳細な情報は掴みとれない。
そのままじいっと星空に照らされたレンの顔を見つめる。なんかコイツも顔が赤い。彼なりに勇気を振り絞ってくれたのか、ほっと胸を撫でおろした表情だった。
なんで同期してんのに、そんなに慎重なんだろう……。
あ──っ。
そこでわたしは思ってしまう。思考ログを盗み見たり、プライバシーに触れることは本当にしてないんだ……。いくらレンでも王宮相手に偽装データを混入させたり、ハッキングをしたりするわたし相手にそこまでのことが出来るとは思えない。
「レン……ちなみになんだけど……」
「ん? どした?」
「わたしと脳内を同期させるってどこまで知れるわけ?」
「そうだな。リンコが、危険な目にあったときの生体ログデータと助けるために必要な表層記憶の思考ログデータだけ」
「表層記憶……?」
「人が知られたくないとか秘密にしたいとか、プライバシーの情報は脳のある部分に格納される。それが深層記憶。そこには自分が自分にかけるプロテクトがある。オレはそこには一切触れていない。アトランティスには『個人情報秘密保護法』ってのが一応ある。まあ、機能していないから外部から入られ放題だけどな」
「あー。脳内メモリー・レンタルとか今問題になってるもんね」
「そう、誰かの知られたくない秘密が保存されたクリスタルの流出とかは頻繁にある。地下街で知人だった女の子が、その流出のせいで、自殺した──」
わたしは突然の重たい話に、目を丸くする。
「そう……なんだ……」
「そういうのも知ってるから、オレは人の記憶とかには土足で入らない。絶対に──」
そっか。コイツがこういう奴だってのは分かってた。わたしの気持ちを知ったから、キスをしてくれたわけじゃない。確かめるためだ。だからこんなにも慎重で、こんなにも勇気を出してくれたってことが分かる。
この星空だってコイツが命がけでわたしに見せてくれたもの。
「あのさ。星空っていつもこうなの? すごすぎない?」
「いや──」
「え? 違うの?」
わたしは夜空を見上げる。頭上には、絵本で見た星空よりも遥かに多く、流れ星が一線、また一線と通り過ぎる。
「今日は1年に1度のペルセウス座流星群。普段よりも見える星や流れ星が多い。ペルセウスはギリシャ神話で、メドゥーサを討伐した英雄だ」
「ギリシャ神話?」
「そう──アトランティスより後世の未来で語り継がれる神話だけど──」
「だけど?」
「アトランティスのことだ」
「え!?」
思わず息を呑む。偶然にしては出来過ぎていると思いながら、レンの紡がれる言葉に耳を傾ける。
「事実をそのまま残すと異端審問にかけられるから、おとぎ話や神話として『圧縮データ』を後世に残すんだろう。それを次世代の人間が解凍ファイルにするんだ。リンコのお父さんがこのキーホルダーをリンコに渡したみたいにな」
レンは背中のカバンにぶら下がっているキーホルダーを手のひらに乗せた。
「これって……」
わたしもポケットからアトラスくんのキーホルダーを取り出す。お父さんからもらった大切な形見。レンのキーホルダーとわたしのキーホルダー……。それらをよく見てみると──
「あれ……? これよく見てみるとデザインが違う……」
「!?」
わたしがそう言うとレンも目を大きく見開く。細部の造形はほとんど変わらないが、ポージングが違う。わたしの持っているキーホルダーは天球儀を支えることに成功しているが、レンの持っているキーホルダーは、足を滑らせて後ろ向きに倒れている。
「これって……」
レンがそう言った瞬間だった──
ブォォォン──というノイズがわたしの脳内でうなる。すると空中にホログラム展開され、SSSという画面から男性の声が聞こえてきた。わたしのよく知っている声。ずっと聞きたかった声。ずっと忘れていた声──
『久しぶりだな──リンコ──』
……お、とうさん……?
空中に展開されたホログラムにお父さんが出てきたのは、声がした時と同時だった。
「おとうさん!?」
レンは呆気にとられた表情。わたしは死んだはずのお父さんとの再会に驚きを隠せなかったので間髪入れずに言葉を発する。
「なんで? どうして? これってどういう……」
『リンコ……お前にこんな辛い思いばかりさせてすまなかった……。僕がここにいるということは、アトランティスの人工太陽をブラックアウトさせることに成功したんだね』
「待って! お父さん!」
『いきなりで驚くのも無理はない。だけど──長く話している時間もないんだ。これは僕であって僕ではない。本当の僕はもう死んでいるんだ。これは僕が生前に残した記憶データから算出された人工知能』
「人工知能……」
久しぶりの再会だけど、その言葉を聞いて落胆してしまう。どんなに手を伸ばしても、もう本当のお父さんには出会えないという事実をまざまざと見せつけられているみたいだからだ。
『ツキシマレンくんと言ったね。リンコの中からずっと見ていたよ。リンコを助けてくれてありがとう』
ずっと見てたって!? まさか……。
キスしたところもお父さんに見られてたわけ?!?! 実の親に見られるとかどんな羞恥プレイよ! 結婚式の誓いのキスならともかく、まだわたしとレンは付き合ってもいないし、ファーストキスだ……。
そんなわたしの浮ついた気持ちと、心の中のツッコミには我関せず、レンは神妙な面持ちでお父さんに言う。
「アトラスさん。あなたのAIがここに出てきたということは、何か伝えたいことが……?」
『ああ。端的に言おう。この大陸は明日の朝までに沈む──』
その言葉がホログラムから発せられた直後だった。
ズズズズズ……ッ! と、地の底から湧き上がるような重低音が空気を震わせた。わたしたちが立っている鉄塔が不気味な軋み声を上げ、眼下に広がる暗黒の街から、悲鳴にも似たどよめきが巻き起こる。
「……もしかしてオレが、巨大ピラミッドを大停電させたから……?」
レンが鋭い声で問う。その横顔には、世界を壊してしまったことへの僅かな焦燥が滲んでいた。しかし、空中に浮かぶアトラス──お父さんは、静かに首を横に振った。
『君だけの責任じゃない。どのみち限界だったんだ。あのピラミッドは、民衆から処刑などの恐怖で搾取したエーテルを使って、マグマの暴走と地殻崩壊を無理やり抑え込んでいた【時限爆弾のピン】に過ぎない。君がピンを抜いたことで崩壊は早まったが、いずれにせよ、大陸のエネルギーはとうの昔に枯渇していた。ピンが抜けた今、大陸の崩壊を止める術はない』
「そんな……じゃあ、みんな死んじゃうの!?」
わたしはSSS級のプロテクトが剥がれた時に重大なことを記憶の奥底に追いやり、蓋をしていた。そうだ、王宮の図書室で見たエンリルとエンキの記憶だ。あまりにもたくさんの情報量で感覚が麻痺し、『大陸が沈む』という現実から目を背けていた。
かつてエンキのホログラムが語っていた『3回目の海没』。それがまさに今、現実になろうとしている。わたしが息を呑むと、お父さんはどこか慈愛に満ちた瞳でわたしを見つめた。
『リンコ、大丈夫だ。ポセイドンの大運河には、王宮の人間の所有するヴィマナが停泊している。それを奪ってこの大陸から逃げるんだ。恐らくメストル以外の十人王はこの事実に気付いていない。どうやらこの世界線ではレンくんがメストルを倒した影響で、次の文明での計画──ギリシャや、エジプトや、バビロニアで奴隷文化を引き継ぐこともなくなったみたいだしね』
「でも、お父さん……」
わたしはずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「どうして未来の『ギリシャ』のことなんて知ってるの? どうして、アトランティスより後の時代のことが分かるの?」
お父さんは、生前と変わらない、少し悪戯っぽい天才の笑みを浮かべた。
『僕はね、リンコ。メストルたちの狂った新世界秩序と、この大陸の破滅に気づいた時から、あるものを極秘裏に開発していたんだ。……【クロノス・エンジン】。君たちの言葉で言えば、タイムマシンだよ』
「タイム、マシン……!?」
『そう。僕は自らの意識をデータ化し、時間の概念を超えて世界の歴史を観測した。第1次、第2次の崩壊、そしてこれから起きる第3次の崩壊。その先に人類がどうなるのか。エンキ派とエンリル派の争いが、遥か未来のギリシャ神話や聖書にどう書き換えられ、圧縮されていくのかをすべて見てきた』
スケールが大きすぎる話に、わたしの脳はまたしてもショートしそうになる。王宮の科学神官たちがどんなに束になっても敵わない。わたしのお父さんは、たった一人で時間を超え、真理に辿り着いていたのだ。
『だが、歴史を観測できても、過去を直接改ざんすることはできなかった。だから僕は、すべてを君の脳内の最深部──SSS級プロテクトの奥底に託した。僕が死んだとき、メストルはリンコに偽のインプラントをはめ込むことは予測していた。だからプロテクトを二重に組んだんだ。1つ目はリンコを守るため。2つ目はメストルのインプラントが剥がれても僕や君の母さんの記憶を思い出せないようにした。こんな辛い記憶は一人で抱え込んではダメだ。いつか、数万年ぶりの星空の下で、この暗号を解き明かして、リンコを救うイレギュラーが現れることを祈ってね』
お父さんの視線が、わたしからレンへと移る。
そのホログラムの瞳は、まるでレンの魂の奥底までを見透かしているように鋭く、そして温かかった。
『ツキシマレンくん。君は、この時代の人間じゃないね?』
「……っ!」
レンの肩がビクッと跳ねた。わたしは驚いてレンの顔を見上げる。
この時代の人間じゃない?
じゃあ、コイツの言ってた令和とか日本とかの話って本当だったんだ……。いや、完全に信じてなかったわけじゃないけど、何もかもぶっ飛びすぎて思考がショートしてしまった故の半信半疑。かつてぼやけていた虚像が、ハッキリと輪郭となって露わになる。
『だが、レンくんがこのアトランティスにどういう形で転生してきたかは、僕にも分からない。……そう言えば、君たちがラジカル秘密基地で、デジタルマスクを改良して作っていたものがあるだろう?』
「……なんでそれを」
『言ったはずだ、すべて見ていたと。君たちが作っていたのは【タイムリープマシンの試作品】だ。だが、今のインフラエーテルでは膨大なエネルギーが足りず、通常時はまともに作動しないガラクタに過ぎない』
レンは唇を噛み締め、無言で頷いた。
お父さんは、足元で崩壊を始めているアトランティスの大地を指差した。
『だが、今なら話は別だ。この大陸が海没する瞬間に発生する、星規模の莫大な【地殻変動エネルギー】。これをすべて君のマスクの動力源としてバイパスさせれば、時空のゲートを完全に開くことができる』
「地殻変動の、エネルギー……」
『そうだ。大陸が沈むこと自体はもう誰にも止められない。だが、その破滅のエネルギーを利用することはできる。……レンくん。君に選択してほしい』
お父さんの声が、一段と低く、重くなった。
それは人類の叡智を極めた科学者としてではなく、ひとりの父親としての切実な響きを持っていた。
『一つは、ここに残り、リンコと共に東の果て──【ムー大陸】へ脱出する道。エンキ派が太平洋に築いたもう一つの文明だ。そこへ逃げれば、君たちはこの時代で生き延びることができる』
わたしと一緒に、ムー大陸へ……。
その言葉に、胸の奥がギュッと締め付けられる。
『もう一つは……地殻変動の全エネルギーをマスクに補給し、君自身が元いた【本来の時代】へタイムスリップして帰る道だ』
星空の下、夏のぬるい風がわたしたちの間を吹き抜けた。
お父さんの提示した究極の選択。
それはつまり、わたしとこの時代で生きるか、わたしを置いて未来へ帰るかという、残酷すぎる二択だった。
『君はどうしたい? アトランティスを救ってくれた君に、その権利がある』
レンは俯いたまま、動かない。
その前髪が落とす影で、どんな表情をしているのかわたしには分からなかった。ただ、同期しているはずの脳内からは、何の感情も流れてこなかった。まるで、彼自身が思考を完全に停止させてしまったかのように。




