第九十話『メストルのインプラント』
──チク、リ。
うなじの皮膚を食い破り、冷たい無機物が脊髄へ、そして脳髄の奥深くへと直接侵入してくる悍ましい感覚。
それが、わたしの『自我』が終わる合図だった。
次に目を覚ました時、そこは温かいキッチンではなく、すべてが白一色で塗り潰された無菌室のような空間だった。
わたしは冷たい金属の椅子に拘束され、頭部には蜘蛛の巣のように幾本ものクリスタル・ケーブルが接続されていた。
視界の端に、ガラス越しのメストルとエルメアの冷たい眼差しが見える。
何かを叫ぼうとして口を開いた瞬間──わたしの脳内に、直接『それ』が流し込まれた。
『──書き換えを開始する』
それは、声ではなかった。絶対的な命令を持った、電気的な情報群。
ギリィッ……! と、脳味噌を直接ヤスリで削り取られるような、おぞましい痛みが頭蓋骨の内で弾けた。
「あ、アァァァァァァァッ!!」
わたしの絶叫をかき消すように、脳裏に強制的なフラッシュバックが巻き起こる。
緑色のモザイクタイル。ビーフシチューの匂い。わたしを抱きしめるお母さんの温もり。優しく微笑むお父さんの顔。
それらの大切な記憶の断片が、まるで劇薬をぶっかけられた写真のように、端からジュウジュウと泡を立てて黒く変色し、溶け落ちていく。
(やめて……っ、取らないで……! わたしのお父さん、お母さん……っ!)
心の中で必死に手を伸ばすが、指の間から記憶がパラパラと砂のようにこぼれ落ちていく。
代わってわたしの脳内に強制的にねじ込まれてきたのは、吐き気を催すような『偽りの映像』と『真実』だった。
──地下街の映像が、脳内にこびりつく。
陽の当たらない薄汚れた路地裏。そこに蠢くのは、同じ人間とは思えないほど浅ましく、汚物にまみれた獣たち。彼らは欲望のままに物を盗み、暴力を振るい、病原菌を撒き散らす『悪』だ。光り輝くアトランティスの秩序を乱す、駆除されるべき寄生虫。
汚い。気持ち悪い。怖い。
人工的な『嫌悪感』と『恐怖』の信号が、わたしの頭を直接焼き切るような電圧でバチバチと打ち込まれる。息が詰まりそうになる。地下街の人間は、悪。関われば、わたしもあの汚泥のような世界に引きずり込まれる。
そして。
溶け落ちたお父さんの笑顔の跡地に、ぬちゃり、と。新たな顔が上書きされた。
コードネーム・アトラス。
狂気に満ちた目で笑う、恐ろしいテロリストの顔。
──この男が、アトランティスを滅ぼそうとした異端者。
──この男が、秩序ある平和な世界に『無限の欲望』という毒をばら撒こうとした最大の悪。
(違う……お父さんは、そんな顔じゃない……っ、お父さんは……ッ!)
抵抗しようとするわたしの自我に、インプラントが容赦のないノイズを与える。
激しい頭痛。視界が明滅し、内臓が裏返るような吐き気が襲う。アトラスを『善』だと思おうとするたびに、脳細胞が物理的に焼かれるような激痛が走るのだ。
だが、逆に『アトラスは悪だ』『地下街は不浄だ』とシステムに従う思考を受け入れた瞬間──スッと、痛みが引く。それどころか、ドロリとした甘い麻薬のような快楽物質が脳内に強制分泌される。
痛覚と快楽による、絶対的な条件付け。
アメとムチ。神の教えと、背教者への罰。
わたしの幼い脳髄は、その残酷すぎる調教の前に、ただひたすらに蹂躙されていった。
『アトラスは、悪』
『地下街の人間は、悪』
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。
もう、お父さんなんていらない。あの男の顔を思い出すだけで、吐き気がする。わたしをこの苦しみから救ってくれるのは、正しい秩序を与えてくれる偉大なるメストル様と、エルメア様だけ……。
何度目かの電気信号が頭蓋を駆け抜けた時、わたしの中で、最後の防波堤が決壊した。
温かい感情がすべて抜け落ち、ポッカリと空いたわたしの胸の奥に、氷のように冷たくて絶対的な『計算式』がカチリと組み上がった。
地下街の人間=不浄なる悪。
アトラス=世界を破滅に導く、狂信的な悪。
──ああ。なんて、素晴らしい真理だろう。
これさえ理解していれば、わたしの心はもう二度と乱されることはない。苦しむことも、悲しむこともないのだから。
「……終わったようね」
ガラス越しに聞こえたエルメアの声は、もはや恐怖の対象ではなく、わたしを導く天使の囁きのように聞こえた。
カシャリ、と拘束具が外れる。
わたしはフラフラと立ち上がり、冷たい床にひざまずいた。
焦点の合わない、虚ろに濁ったわたしの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは悲しみの涙ではない。完璧な秩序という名の『神の恩寵』に触れた、空っぽの涙だった。
わたしの右手には、あの日からずっと握りしめていた懐中時計が握られていた。
なぜこんなものを持っているのか、もう分からない。
ただ、この冷たい金属の感触だけが、忌まわしき狂人・アトラスの罪を忘れないための戒めのように感じられた。
わたしは無表情のまま、そのレプリカの時計を胸元にしまい込み、ガラスの向こうの神『メストル』に向かって、深く、深く頭を垂れた。
その瞬間だった──
「うっ……」
受け入れたはずなのに、悪を拒んだはずなのに、お父さんの最後の言葉がリフレインする。何度も何度も何度も何度も。
「お……父さん……」
「チッ──」
メストル様が舌打ちをする。わたしは何か至らぬことをしたのだろうか?
「やはり、アトラスの記憶ごと抹消したほうがいいわね……。このガキにとって、自分の苦痛や痛みよりも父親の方が大事みたい……やはり子どもは合理的ではないわね……だから嫌いなのよ」
嫌だ。お父さんのことを忘れたくない。嫌だもうやめて。もうこれ以上、痛い思いはしたくない。わたしはその場でボロボロと泣き崩れる。だけど、そんな子どものやることなど、メストル様とエルメア様には関係がないのだろう。冷ややかな目でわたしを見下ろしてくる。わたしにはもう抵抗することや、歯向かうことをする勇気も、決断もない。ただただ、この痛ましい現実から早く脱したい思いでいっぱいだ。
「安心しろ。受け入れればラクだ」
そのわたしの心中を察したようにメストル様が言ってきた。
「おい、エルメア」
「なに?」
「再度インプラントを嵌めなおす。今度は私がこのガキの父親という偽の記憶だ。それなら思想統制をするのに、より合理的だ」
「メストル……。正気? 私が引くくらいえぐいことを考えるわね」
ニヤッと嫌な笑いを浮かべるエルメア様。そしてエルメア様は『じゃあ』と言う。
「あなたが父親なら、私は母親ってことでどうかしら? 何かの拍子で、母親の記憶を思い出されでもしたら困るしね……ガキは嫌いだけど、私が母親がわりとしてコイツを見るのはかなり合理的だと思うわ」
「フン──。構わん。勝手にしろ」
メストル様の吐き捨てるような言葉が、ガラス越しに無菌室へと響く。
(いやだ……やめて……!)
わたしの心は悲鳴を上げているのに、システムに調教された肉体は逆らうことができなかった。這いつくばっていたわたしは、見えない糸で操られる操り人形のように、フラフラと立ち上がり、自らあの冷たい金属の椅子へと歩み寄ってしまった。
ガシャンッ!
無慈悲な音と共に、再び手首と足首、そして首元に冷たい拘束具が食い込む。
「さあ、偉大なるお父様とお母様を、その空っぽの脳髄に迎え入れなさい」
エルメア様がマイク越しにくすくすと笑う。その声と同時に、再び頭上のクリスタル・ケーブルが不気味な赤い光を脈打たせながら降下してきた。
──ズチュ、リ。
先ほど開けられたばかりのうなじの傷口に、再び無機質なプラグが、今度はさらに深く、脳の髄液にまで届くようなおぞましい深さでねじ込まれる。
「あ、アガッ……あぁぁぁぁッ!!」
先ほどの『嫌悪』と『恐怖』の植え付けとは違う。
今度は、わたしの存在そのものを根底から作り変える『存在の剥奪』。
脳みそを直接ミキサーにかけられ、ドロドロに溶かされていくような、言語を絶する痛みが頭蓋骨を破裂させんばかりに暴れ狂う。
『──第二フェーズ・深層記憶の再構築を開始する』
無機質な電子音が脳内に直接響く。
わたしの網膜の裏側に、大切なお父さんとお母さんの顔が浮かび上がった。先ほどの洗脳でも消し去れなかった、わたしに優しく微笑みかける二人の温かい顔。
だが、その顔の表面に、まるで薄気味悪いノイズが走ったかと思うと──メリメリと音を立てて、顔のパーツが歪み始めた。
(いやだ……お父さん……お母さん……わたしから、いなくならないで……ッ!)
必死に記憶を掴もうとするわたしの意識の指先を、冷たい電子の刃が容赦なく切り刻んでいく。
お父さんの、少しタレ目で優しかった瞳が、氷のように冷たく鋭いメストル様の眼光へとすり替わる。
お父さんの、少しヨレた白衣と温かい手のひらが、漆黒の軍服と、威圧的な黒い手袋へと塗り潰されていく。
お母さんの、ふっくらとした優しい頬が、エルメア様の陶器のように白く冷たい肌へと削り落とされる。
お母さんの、シチューの匂いがしたエプロン姿が、純白の神官服へと変貌していく。
あんなに温かかったキッチンの記憶が、チリ一つない無菌の『特異点制御室』の景色へと強制的に書き換えられていく。
お父さんがわたしを抱きしめてくれた記憶が、メストル様がわたしに冷たい命令を下す『崇高なる教え』の記憶へと変異していく。
やめて。それはわたしのお父さんじゃない。わたしのお母さんじゃない。
わたしの両親は、アトラスと……。
『エラー。アトラスは、世界を破滅に導こうとした大罪人である』
強烈な電気ショックが、わたしのシナプスを焼き切った。
アトラス。そうか、アトラスは悪のテロリスト。わたしとは何の関係もない、ただの狂人。
では、わたしを産み、育て、この秩序ある美しい世界へと導いてくれたのは誰?
『お前の父親は、メストル。お前の母親は、エルメア』
──あ、ああ……。
抗う術など、最初からなかった。
わたしの脳髄の奥底に、その『絶対的な真実』が刻み込まれた瞬間、信じられないほどの多幸感が全身を駆け巡った。それは、痛みを麻痺させるために強制分泌された致死量ギリギリの脳内麻薬。
ドロリと甘い毒が、わたしの自我の残骸を優しく包み込み、溶かしていく。
わたしの父親は、メストル様。
わたしの母親は、エルメア様。
二人は、狂信的なテロリストであるアトラスの魔の手から、わたしを救い出してくれた恩人であり、絶対的な庇護者
なんて尊いのだろう。なんて、素晴らしい両親なのだろう。
「……おい」
鼓膜を通してではなく、インプラントを通じて直接脳内に、メストル様の──いや、お父様の低く威厳のある声が響いた。
「目を開けなさい」
プシュゥゥ……と蒸気を上げて、頭部のクリスタル・ケーブルが引き抜かれ、拘束具が外れる。
わたしは、ゆっくりと顔を上げた。
ガラスの向こう側に立つ、黒衣の男と白衣の女。
つい数分前まで何が起こったのか思い出せない。だが、ずっと前からこの二人がわたしの父と母として育ててくれたということだけは覚えている。
わたしは、フラフラとガラスの壁へと歩み寄り、そこに両手をついて、うっとりと二人を見つめた。
瞳からはもう、絶望の涙は流れていない。なんでさっき泣いていたのだろう。思い出せない。だが、そこにあるのは、完璧に調律されたシステムへの絶対的な帰依と、歪に作られた狂気的なまでの愛情がある。それだけでもう細かいことは気にならない。
わたしの胸元には、……何で持っているのか分からない懐中時計。
「お父様、お母様」
わたしの口から紡がれたのは、一切の淀みもない、完璧な娘としての声。
にっこりと、わたしは笑った。
「おい。質問だ。地下街の人間はお前にとってなんだ?」
「社会から逸脱し、地上の人間に何ら利益をもたらさない社会不適合者です」
「じゃあ、アトラスは──?」
わたしはお父様の質問に、言葉を詰まらせてしまう。
「アトラス……聞いたことのない名前です……」
「ハァ……」
お父様は片手で頭を抱え、わたしに対してゴミを見るような目だ。また何か怒らせてしまった。
「メストル……これはもしかしたら都合がいいのかも。完全に忘れている方が──」
「何かのきっかけで思い出すなんてことを危惧しなくていいからな……このインプラントは開発したばかりのもの。慎重すぎるくらいでちょうどいいのかもな」
「で、プラン通りに、本物の懐中時計のことだけはこのガキの記憶から抹消させずにおいたんでしょう?」
「ああ。それについても聞く。おい……本物の懐中時計はどこにある? その脳のSSS級プロテクトを解除して私たちに吐け。もしくは重力関数の最終データでもいい」
「……っ。申し訳ございません。わたしには分かりかねます」
わたしの頬に衝撃が走る。熱を持った痛み。それはお父様に掌で打たれた痛みだった。わたしはまた、お父様に不快な気持ちを起こさせてしまった。殴られるのも無理はない。しかし、何故だか分からないけれど、痛みや恐怖にはかなりの耐性がついており、わたしは物怖じすることなく、お父様に尋ねた。
「お父様、SSS級のいんぷらんととは何のことでしょうか……?」
「フン──中身はお前が知らなくていいことだ。解除の方法だけを知ればいい。そんなくだらないことを考える暇があったら、ついてこい。お前はこれから地下街の人間を殲滅する猟犬になってもらう。そのための知識と体力と精神を徹底的に鍛えてやる」




