第八十九話『最後の抵抗』
絶望と恐怖、そして許容量を遥かに超えた凄惨な現実が、わたしの小さな脳の処理能力を完全にショートさせた。
鼻腔にねっとりとへばりつく、生温かい鉄の匂い。
火薬の煙。そして、コンロの上で焦げ続けるシチューの甘ったるい異臭。
それらが混ざり合った地獄のような空気を吸い込んだ瞬間、わたしの胃袋がビクンッと激しく痙攣した。
「う……あ、ッ……」
両親の死を理解するよりも早く、強烈な吐き気が喉元まで込み上げてくる。
口を塞ぐ間もなかった。わたしは両親の血だまりの中に両手をつき、胃の中身を激しくぶちまけた。
「オボァッ……! ゲホッ、うぇっ……あ、ぁぁ……ッ!!」
胃の中のものが、ドロドロの酸となって真っ赤な血の海に混ざっていく。
涙と鼻水と涎で顔をぐちゃぐちゃにしながら、わたしは何度も何度も胃液を吐き出した。それでも内臓を裏返して絞り上げるような痙攣は止まらず、喉の奥がヒューヒューと引き攣った音を立てる。
両親が殺された現実。次はこの男に自分も撃ち殺されるという絶対的な死の恐怖。
吐いても、吐いても、腹の底にへばりついた絶望は少しも吐き出せなかった。
わたしは自分の吐瀉物と両親の血にまみれながら、ただガチガチと歯の根を鳴らして震えることしかできなかった。
そんなわたしの無様な姿を、エルメアが汚物でも見るかのような酷薄な目で見下ろしていた。
「このガキにインプラントを」
エルメアの感情をそぎ落とした声。それを聞いたメストルはわたしの手首を強引に掴み、もう片方の手で襟足を引っ張る。
「離して! お父さんッ! お母さんッ!」
「大人しくしろ。殺すぞ」
その声を聞いた瞬間──わたしの全身は恐怖で石のように固まってしまう。あまりの恐怖に声どころか息すらも、ろくに吐くことができない。
「大人しくしていれば、命だけは助けてやる」
「…………っ」
もう嫌だ。これはきっと悪い夢を見ているに違いない。そうであれば早く目覚めてほしい。わたしの心から、抵抗するという感覚が徐々に失われていく。もうひと思いに殺してほしい。だけど──
わたしは最後にお父さんが託してくれたレプリカの懐中時計だけは強く強く、指の骨が鳴るほどに握りしめた。何故かそれだけは死んでも守らなければいけないような気がした。わたしは自分の命惜しさよりも、懐中時計を守るために頭上にいるメストルを必死の抵抗で睨みつける。
「なんだ……その目は……」
「やっぱりガキね。自分の命よりも、お父さんにもらったおもちゃが大事なんて。だからガキは嫌いなのよ。合理的じゃない……」
「フン──。どちみちそれは空っぽのレプリカ。だが、奴が最後、自分の娘に託したとなれば何か意味があるだろう。このガキに持たせておけば、何かが分かるかもしれん」
「そうね……」
今のわたしは、二人の会話が遠くで聞こえる感覚だ。徐々にこの状況に対して、何も感じなくなってくる。あやふやで現実感が乖離していく。こころが絶望で麻痺し、視界がどんどん暗くなっていく。薄れていく意識の中、最後にわたしが感じたのはうなじの冷たい感覚だった。




