第八十八話『最終データ』
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カチャリ、と。
冷たく乾いた金属音が、響いた。
いつもお母さんがピカピカに磨き上げている、緑色のモザイクタイル。その上に転がったのは、お父さんが肌身離さず持っていた『懐中時計』だった。
お母さんの背中にしがみつきながら、わたしは震える目でそれを見つめていた。
『これはね、星空の音がするんだよ』と、お父さんがいつも優しい笑顔で見せてくれた大切な宝物だ。
それを、黒い軍服を着た恐ろしい男──お父さんが『メストル』と呼んだおじさんが、黒いブーツの先で拾い上げる。
キッチンには、火薬の焦げたツンとする匂いと、お母さんが作ってくれていたビーフシチューの甘くて温かい匂いが不気味に混ざり合っていた。
「……フッ。なるほど」
メストルおじさんの腕の機械から、青白い光が照射され、懐中時計を舐めるように包み込んだ。
その光を覗き込んだ瞬間、彼の口角が歓喜に吊り上がる。
「これが『重力関数の最終データ』か。アトランティスを沈めるほどの過剰なエネルギーを完全に制御し、新世界の神となるための絶対的なコア……。こんな陳腐なガラクタの中に隠していたとはな」
だが、その歪な笑顔は、わずか数秒で凍りついた。
ピピッ、と機械が冷たいエラー音を鳴らす。
青白い光のホログラムに『0 byte』という虚無の数字が浮かび上がった。
「な……ッ!?」
メストルおじさんの顔が、驚愕から、今まで見たこともないような激しい怒りへと変貌していく。額に青筋が浮かび、持っていた懐中時計をギリィッ!と握りつぶさんばかりに力を込めた。
「中身が空だ……! 貴様、これはレプリカか!!」
鼓膜を破るような怒声。
隣に立つ、透き通るような銀髪の綺麗な女の人──エルメアという人が、微かに眉をひそめてお父さんを睨みつけた。
「本物はどこだ!!」
銃口を突きつけられ、喉元に死を突きつけられているというのに、お父さんは真っ直ぐにメストルおじさんを見つめ返したまま、静かに答えた。
「……もう、君の手は届かないところにある」
その言葉が、引き金だった。
──パァァァンッ!!
青白い閃光が弾けた。
世界から、一瞬だけ音が消えたような気がした。
「お父、さん……?」
スローモーションのように、お父さんの体が大きく後ろへ吹き飛ぶ。
いつも少しヨレていた白い研究服の胸の真ん中に、真っ黒な穴が空いていた。そこから、信じられないほどの量の赤い血が、間欠泉のように噴き出した。
ドサリと、重いものが床に崩れ落ちる音。
「あなたァァッ!!」
鼓膜を劈くような悲鳴を上げたのは、わたしを庇っていたお母さんだった。
お母さんはわたしを抱きしめていた腕を解き、血だまりの中に倒れたお父さんの元へ狂ったように駆け寄ろうとした。
「邪魔だ、女」
冷酷な声と共に、二度目の閃光が走る。
──パァァァンッ!!
「あ……」
熱い何かが、私の頬にビチャリと飛び散った。
鉄の匂いがした。
お母さんの体が、まるで糸が切れた操り人形のように、不自然な角度でぐらりと傾く。
そして、お父さんの血だまりの上に重なるようにして、力なく倒れ込んだ。
「お母さん……? お父さん……っ?」
声が出なかった。息の仕方が分からなくなった。
緑色のタイルが、あっという間にドロドロの赤黒い海に変わっていく。
お母さんの背中から流れ出す血が、わたしの小さな足元まで這い寄ってきて、パジャマの裾を赤く染めた。温かかった。その生々しい温度が、わたしから正気を奪い去っていく。
「あ、あああ……あああああぁぁぁッ!!」
わたしは血の海の中にへたり込み、両親の骸に向かって絶叫した。
どうして。なんで。さっきまで、あんなに温かいシチューを囲んで、笑い合っていたのに。どうして、わたしのお父さんとお母さんが、こんな冷たい床で、動かなくなっているの?
「チッ……無駄な時間を取らせおって。おい、家の中を徹底的に探せ。データの痕跡が残っているはずだ」
わたしの悲鳴などまるで聞こえていないかのように、メストルおじさんが衛兵たちに冷酷に指示を出す。
「待って、メストル」
エルメアという女性が、冷え切った目でわたしを指差した。
「あの男が、自分の命よりも大切な最終データを、ただの『家の中』なんかに隠すと思う? ……まさか」
「リン、コ……」
血の海の中で、微かに動くものがあった。
胸を撃ち抜かれ、口から大量の血を吐き出しながら
お父さんが、這いつくばって、わたしの方へ手を伸ばしていた。
「お父さん! お父さん……っ、死なないで、いやだっ!」
わたしは泣き叫びながら、お父さんの血まみれの手を両手で強く握りしめた。命の火が消えかけているお父さんの手は、恐ろしいほどに冷たかった。
お父さんは、真っ赤に染まった指先で、わたしの額にそっと触れた。
その瞬間。
わたしの頭の奥底で、カチリ、と。巨大な時計の針が進むような、不思議な音が鳴り響いた。
お父さんの指先から、淡く輝く青い光の粒子が溢れ出し、わたしの額を突き抜けて、脳の奥深くへと流れ込んでいく。痛くはなかった。ただ、途方もない情報量の波が、わたしの命そのものと複雑に絡み合い、強固な鎖となっていく感覚があった。
「な、なんだこれは……!? 計器の数値が跳ね上がっている!」
特務衛兵の一人が慌てたように叫ぶ。
メストルおじさんとエルメアの顔色が、同時に青ざめた。
「よせ……まさか、貴様!」
『……メストル。これで君は絶対に、リンコを殺せない』
声にならなかったお父さんの言葉が、不思議と空間全体に響き渡った。それは、お父さんの脳波が直接、彼らのインプラントに干渉しているということは、幼いわたしでも分かった。
『僕の命と引き換えに……リンコの脳内最深部に、我々がかつて研究した最高傑作……【SSS級の生体プロテクト】を起動させた。本物の重力関数のデータは、この子の脳の深層に封印した……』
「なんだと……ッ!?」
メストルおじさんが、信じられないものを見るように後ずさった。
『このデータは、リンコの生命活動と完全にリンクしている。彼女が死ねば、データも破損し完全に消滅する。力ずくで取り出そうとしても、自己破壊プログラムが作動する……。君が新世界を創るための鍵は、もう、この子を生かし続けることでしか手に入らない』
「貴様ァッ!! 自分の娘を人質にしたというのか!!」
激昂したメストルおじさんが、再びお父さんに銃口を向けた。
でも、お父さんは全く怯えることなく、口元に微かな笑みを浮かべた。
『違う。これは……愛する娘を、君たちの狂気から守るための……最後の盾だ』
お父さんの瞳から、すっと、最後の光が消えかけていた。
わたしの額に触れていた青い光の粒子が、ゆっくりと収束し、わたしの脳内に重くて冷たい『何か』を確実に残して消えていく。
「お父さん……! お父さん……っ!!」
わたしを見つめる、優しくて、大きくて、澄み切った瞳。
死の淵にあっても、その瞳の奥には、どこまでも広がる『本物の星空』が映っていた。
メストルおじさんはさっきまで手に持っていた『レプリカの懐中時計』を、苛立って投げ捨てる──。血だまりの中にポチャリと音を立てたその懐中時計にたいし、お父さんは最後の力を振り絞って、それを拾い上げた。
「いいか。王宮の人工太陽に騙されるな。いつか必ず、この時計が動く時がくる……」
その血まみれの『レプリカの懐中時計』をわたしの掌にそっとに置く。
「あ……ぅ……あっ……」
「リンコ……いつか、本当の、星空、を……」
それが、お父さんの最後の言葉だった。
わたしの額に触れていた血まみれの手が、力なく滑り落ちる。
パシャリと、血の海に落ちたその手は、もう二度と、わたしを撫でてくれることはなかった。
絶望の淵で、わたしはただ、両親の血にまみれながら泣き叫ぶことしかできなかった。
わたしを睨み下ろす、メストルおじさんの恐ろしい顔。
コンロの上で、誰も食べる人のいなくなったビーフシチューが、グツグツと焦げていく音だけが、地獄のように冷たいキッチンに虚しく響き続けていた。




