第八十五話『神と天使』
その時だった。
背後で、絶対的な静寂を保っていたはずの特異点制御室に、耳障りな異音が響いた。
──ガチンッ!
私が振り返ると、部屋の片隅で完全に静止していたはずの『重力歪曲計』の金属球が、激しくブレて床に落下していた。
アトラスの感情的なノイズなどではない。これは──星そのものが発する巨大な悲鳴だ。
私はすぐさま作業デスクの光子演算記録器を操作し、地下深くのクリスタル・ネットワークから地脈データを引き出した。空間に展開されたホログラムの数値を見て、私は己の目を疑った。
「……バカな」
演算結果が示しているのは、地殻の完全な崩壊。オリハルコンと人工太陽による無秩序なエネルギーの過剰抽出が、すでにこの大陸の限界点を突破しているという事実だった。
──アトランティスは、沈む。
王宮の奥底でふんぞり返る他の十人王すら気づいていない、絶対的な死の宣告。1200万人という人間が海の底へ引きずり込まれる、その事実を前にして──私の唇は、自然と歪な弧を描いていた。
絶望ではない。強烈な優越感と歓喜だ。
「──あなたも、気づいていたのね。メストル」
完全に無音であるはずの特異点制御室に、硬質な靴音が響いた。
振り返る必要はなかった。私と同じように、個人的な感傷を極限まで排除した、冷たく透き通るような声。背後の暗がりから、人工太陽の液状クリスタルの光の中へ、エルメアが静かに歩み出てきた。
彼女のプラチナブロンドの髪が、脈動する青い光を受けて妖しく輝いている。世界が滅ぶという事実を前にしても、彼女の端正な顔立ちには恐怖など微塵も存在しない。あるのは、氷のように冷酷な知的好奇心だけだ。
「無断で私のラボに入るとは、感心しないな。エルメア」
「十人王の監視をかいくぐるには、ここしかなかったのよ。それに……」
エルメアは私の横に並び立ち、空中に展開された崩壊のホログラムを見上げた。彼女の白魚のような指先が、空間に浮かぶ破滅の数式をなぞる。
「私の独自の演算も、全く同じ未来を弾き出したわ。この大陸のシステムは、もう保たない。沈みゆく泥舟の船長たちに、今さら真実を伝えて何になるというの? 彼らはもう、次の時代には不要な旧世代の遺物よ」
ふふっ、と。彼女は微かに笑った。それは、私がかつて見たどの数式よりも残酷で、背筋が凍るほど美しい微笑みだった。
「アトランティスという器が壊れるなら、新しい器を用意すればいい。そうでしょう? 海を渡った先には、まだ手付かずの未開の地が広がっている。エジプト、ギリシャ、シュメール、バビロニア、マヤ……。あの愚かな蛮族どもが這いつくばる土地に、我々の完璧な『支配のピラミッド』を、そっくりそのまま構築し直せばいい」
私の脳髄を、痺れるような快感が駆け抜けた。
そうだ。人工太陽という物理的な縛りがなくなっても構わない。宗教と恐怖、そして目に見えないインプラントによる徹底した情報統制で、人間の『脳内』に直接鳥籠を作るのだ。
「私と貴女の二人だけで、新世界秩序を築くと言うのか」
「ええ。メストル、あなたが新しい世界の『神』になるのなら……私は、あなたの意志を実行する『天使』になってあげる」
エルメアは私の胸元にそっと手を触れ、見上げるようにして冷たい瞳を細めた。そこにあるのは、男女の情愛などという陳腐なものではない。狂気すらも凍りつくような、純度百パーセントの合理と野望の共有。
これぞ、私が求めていた真の共鳴だ。アトラスが語るような、温かく生ぬるい愛の共鳴などではない。究極の管理社会を生み出すための、冷徹なる悪魔の契約。
「……悪くない提案だ、エルメア」
私は彼女の細い肩を引き寄せ、アトランティスの滅亡を告げる真っ赤なエラー表示を背に、静かに笑い合った。
「だが、そのためには一つだけ足りないものがある。莫大なエネルギーを完全に制御し、新世界を創世するためのコア……アトラスが隠し持っている『重力関数』の最終データだ」
その最終データが紙という媒体なのか、クリスタルなのか、はたまた別のものなのかは分からない。だが、奴を恫喝して『重力関数の最終データ』を吐かせればいい。
「ええ。異端審問で悠長に口を割らせている時間はないわね。……今夜、直接摘み取りに行きましょうか」
二人の視線が交差する。
世界が海に呑まれるカウントダウンが静かに刻まれる中、特異点制御室の奥深くで、新世界の神と冷酷な天使が誕生した瞬間だった。




