第八十三話『円形大審問講堂にて』
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メストルは見下ろしていた。
アトランティスの最高科学意思決定機関──『円形大審問講堂』の最上層。黒い大理石で冷酷なまでに磨き上げられた高官席から、すり鉢状になったはるか底面を。
頭上の巨大クリスタルから放たれる一筋の暴力的なスポットライトが、演壇に立つ一人の男を白日の下に晒している。
コードネーム・アトラス。
このアトランティスを生み出した神と同じ名前を語っている。彼はアトランティスが誇る希代の天才であり、そして今や、王宮の秩序を根底から覆そうとしている最大の『異端』。
周囲の座席を埋め尽くす数百人の科学神官たちが、彼に向けて嘲笑と敵意の囁きを浴びせている。古代の劇場を模したこの講堂は、上層のささやき声が重低音のノイズとなって底面へ降り注ぐように計算されていた。圧倒的な権威の重圧。並の人間なら立っていることすら困難なその空間で、しかしアトラスは、ただ静かに前を見据えていた。
視力を強化したメストルの網膜が、彼の姿を克明に捉える。
神聖な議場の場だというのに、彼の着ている白衣はどこかヨレていて、袖口には微かに茶色いシミ──おそらくは家庭の食卓でついたであろう汚れがこびりついていた。
(……浅ましい)
メストルは内心で毒づいた。家庭などという個人的な感傷に身をやつしているから、そんなノイズにまみれた風体で平然としていられるのだ。
「──以上が、私の提唱する『重力関数』の最終モデルです。これを用いれば、宇宙の波長と共鳴し、無限のフリーエネルギーをこのアトランティスに、いや、世界中の人々に届けることが可能となります」
アトラスのよく通る声が、講堂に響く。
彼の傍らで浮遊するオリハルコン製の多面体プロジェクターから、淡い青色のホログラムが空間に展開されていた。
空中に浮かび上がる、複雑にして流麗な数式の群れ。
それを見た瞬間、メストルのインプラントで制御されたはずの心臓が、不快なリズムで脈打った。
(美しい。忌々しいほどに、完璧な数式だ。)
かつて同じ研究室で肩を並べたメストルにはわかる。アトラスは真理に到達している。アトランティスを覆う人工太陽という『鳥籠』を破壊し、外宇宙の無限のエネルギーを引き出す絶対的な鍵。メストルには到底思いつくことのできなかった、飛躍的な発想の産物。
メストルの内に激しい嫉妬が、胸の奥で黒く渦を巻く。だが、それ以上に……強い『危惧』があった。
(無限のエネルギーだと? そんなものを愚かな人類に与えてどうなる?)
人間は、どこまでも身勝手で貪欲な生き物だ。無限を与えられれば、『足るを知る』どころか際限のない欲望を膨張させ、最終的に互いを殺し合い、この星ごと自滅するに決まっている。
だからこそ、限られた光(人工太陽)の下で、我々一部の優秀な管理者が完璧にエネルギーを統制し、愚民たちを飼い慣らす必要があるのだ。それこそが、人類を長続きさせる唯一の最適解なのだから。
メストルは手元にある漆黒の『黒曜石パネル』に、細く冷たい指先を滑らせた。
アトラスの構築した青い数式に対する、強制的な検閲プログラムの実行。
メストルが決定キーを叩いた瞬間、講堂の中央で美しく明滅していたホログラムが、まるで猛毒に侵食されるように赤く変色し始めた。
「な、なんだ……!?」
「数式が崩壊していくぞ!」
科学神官たちがどよめく中、論理矛盾のノイズを強制的に注入された方程式は、ガラガラと音を立てるように崩れ去り、中空に『ERROR(異端)』の冷酷な赤い文字が浮かび上がった。
壁面に規則正しく埋め込まれたベリアル聖教の巨大クリスタルが、不気味な赤黒い光を放つ。
「そこまでだ、アトラス神官」
メストルはマイクを通し、絶対的な冷たさを孕んだ声で講堂全体を制圧した。
「貴殿の理論には致命的な論理破綻が認められた。計算式はノイズにまみれ、現実の物理法則から著しく逸脱している。──否。それ以前に、王宮が定めた人工太陽の恩恵を否定し、存在もしない『星空』の力を騙るなど、ベリアル聖教の教義に対する明確な反逆である」
メストルの宣告に、周囲の神官たちが同調してアトラスを非難し始める。
偽りのエラー。完璧に構築された嘘のエラー。これで、彼の方程式は『狂人の妄言』として歴史の闇に葬られる。人類の平和な管理社会は守られたのだ。
そう思った時だった。
赤いエラー文字の残骸越しに、底面に立つアトラスが、すっと顔を上げた。
はるか上層にいるメストルと、真っ直ぐに視線が交差する。
メストルは、息を呑んだ。
これほどの仕打ちを受け、自身の人生を賭けた研究を理不尽に踏みにじられたというのに。
アトラスの瞳には、絶望も、怒りも、憎悪すらも宿っていなかったのだ。
そこにあるのは、純然たる『哀れみ』。
偽りの天井の下でしか生きられない我々を憂うような、途方もなく澄み切った瞳。メストルたちがどんなに分厚い壁で空を覆い隠そうとも、彼だけは、その瞳の奥に『本物の星空』を見続けている。
「……メストル」
声は届かないはずなのに、彼の唇がメストルの名を紡いだのがわかった。
白衣のポケットが微かに膨らんでいる。以前彼が嬉しそうに見せびらかしてきた、スラムの子供が作ったという不格好なウサギのキーホルダーが入っているのだろう。
あんな陳腐なガラクタに、全宇宙を背負わせようとする男。
常識に抗い、愛や共鳴といった不確かなもので世界を変えようとする、どこまでも愚かで、残酷なまでに眩しい男。
「……衛兵。アトラス神官を連行しろ。異端審問にかける」
メストルは自身の声がわずかに震えるのを嫌悪しながら、冷たく言い放った。
黒曜石のパネルから手を離す。指先は、ひどく冷え切っている。
「待ってください」
そこに鋭く切り込んできたのは、凛とした声色。この科学神官会議で、唯一の女性『エルメア』の存在だった。
「わたくしも、異端だとは思います。が、しかし──科学の進歩と発展には、時として異端思想が蒙昧な信徒たちに光を与える場合もあるかと」
メストルはエルメアに恋をしていた。だが、恋愛や家庭などという個人的な感傷に身をやつしていると正常な判断ができなくなる。メストルのインプラントは、徹底的に個人的な感傷を排除している。だからこそ、同じく個人的な感傷を持たないエルメアは魅力的に思えた。エルメアは感傷で、アトラスを庇ったわけではない。
かつて、エルメアはこう言っていた。
【──異端審問にかけるときは、異端者が研究内容のすべてを解読した時でも遅くない。】
【──そこからベリアル聖教にとって有益な情報を異端者から徹底的に聞き出し、我々の科学を発展させればいい。】
「フッ──。貴女の言う通りかもしれんな。どうやら私は個人的な感情で、アトラス神官を裁こうとしていた。少し頭を冷やしてくるよ」
メストルはそう言って、円形大審問講堂の上階にある出口へと歩み出した。




