第八十一話『記憶の中のお風呂』
脱衣所で服を脱ぎ、浴室の扉を開ける。モワッとした温かい湯気が、ふわりとわたしたちの体を包み込んだ。
そこは、お母さんのキッチンと同じように、いつだってピカピカに磨き上げられた清潔な空間だった。
淡いベージュの、大理石みたいな模様が入った壁。天井近くにある丸い照明が、浴室全体を柔らかく温かな光で満たしている。
横に長く伸びた鏡には、湯気で少し霞んだお父さんとわたしの姿が映っていた。真っ白なバスタブには、すでにたっぷりのお湯が張られている。
「ほら、リンコ。先に頭を洗ってしまおう」
お父さんは風呂椅子を促すと、壁に備え付けられたシャワーヘッドを手に取り、温度を確かめてからわたしの頭にお湯をかけ始めた。
「あったかーい」
シャワーの優しい水圧と一緒に、お父さんの大きな手が、わたしの頭をすっぽりと包み込む。
お父さんの手は、研究ばかりしている科学者の手とは思えないくらい、少しゴツゴツして大きかった。だけど、その指の動きは、信じられないくらい繊細で、優しい。
『いいか、リンコ。頭を洗う時は、絶対に爪を立てちゃだめだ。指の腹を使って、こうやって頭皮を優しく揉みほぐすように洗うんだ。下から上へ、円を描くようにな』
たっぷりの泡がわたしの髪を包み込み、シャワシャワと心地よい音を立てる。
『頭にはたくさん神経が通ってるからな。こうやって優しくマッサージしてやると、一日の疲れがすーっと抜けていくんだ。髪の毛だってサラサラになる』
指先がリズミカルに頭皮を滑る。力が入りすぎず、かといって弱すぎもしない、絶妙な力加減。まるで頭の中のモヤモヤまで全部洗い流してくれるような、うっとりするような心地よさだった。
──あぁ。
記憶の奔流の中で、わたしは別の情景を思い出していた。
メストルの植え付けた偽のインプラント記憶。孤児院の大浴場だ。
そこで、猫みたいに目を細めて、とろけそうな顔をしていたセネカの姿を。
そしてお風呂上りに、セネカが言った言葉。
【──今日のお風呂でリンコ様に頭を洗ってもらったとき、超ヤバかったです!! プロの技です! なんか免許とか資格持ってるんですか? 美容師の!】
【──ああ。あれはね。学校のイジメっ子たちに泥水を頭からぶっかけられた時、泣きながら自分で頭を洗ったから、頭の洗い方だけは、無駄に上手くなっちゃたんだよね……】
そうだ──。イジメられてたから上手くなったのではない。本当の父親の記憶を、思い出せないわたしが作り上げた、ただの『つじつま合わせ』だった。
あれは──わたしがずっと昔から知っていた、大好きな『お父さんの手つき』そのものだったのだ。お父さんがわたしにしてくれたように、わたしも無意識のうちに、大切な友達をその手つきで癒やしてあげていた。
『ほら、流すぞ。目をつぶって』
シャワーの音が浴室に響き、泡と一緒に、温かいお湯が背中を伝ってするすると落ちていく。
「どうだ? 気持ちよかっただろ?」
泡を綺麗に洗い流し終えたお父さんが、鏡越しにウインクをしてくる。
わたしは振り返って、満面の笑みで大きく頷いた。
「うん! お父さんのシャワー、世界で一番好き!」
「ははっ、そりゃあ光栄だな。じゃあ、次はお父さんの背中を流してくれ」
「任せて! お父さんに教えてもらった通りにやってあげるから!」
お父さんは照れくさそうに笑いながら、濡れたわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれた。
黒い床に響く、シャワーの音と、二人の笑い声。
湯気で満たされたその空間は、どんな立派な王宮よりも、ずっとずっと温かくて、愛に溢れた、わたしたちだけの小さなお城だった。




