第八十話『記憶の中』
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わたしの視界いっぱいに広がる、無数の光の瞬き。
それを見た瞬間だった。
メストルに埋め込まれたインプラントが消え去り、本物の夜空を見た瞬間──これまで分厚い壁に阻まれていた『何か』が、せき止められていたダムが決壊するように、わたしの脳裏へと一気に流れ込んできた。
──トントン、トントン……。
遠くで、リズミカルな包丁の音が聞こえる。
星空の光が滲み、ふわりと、温かくて懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。
気がつけば、わたしの意識は深い記憶の底へと潜り込んでいた。
そこは、少し手狭だけれど、隅々まで手入れが行き届いた温かなキッチンだった。
ピカピカに磨き上げられたステンレスの大きなシンク。壁の一面には、レトロで可愛らしい緑色のモザイクタイルが敷き詰められている。
壁掛けのエーテル瞬間湯沸かし器に、整然と並べられたお玉やフライ返し。黒い電子レンジの横には、使い込まれた調味料の瓶が並んでいた。
木枠の窓からは、柔らかく温かい午後の日差しが差し込み、足元の無垢の板張りの床を優しく照らしている。
『ほら、リンコ。お肉はね、こうやって包丁の背で丁寧に繊維を叩いてあげるの。そうすると、安いお肉でもびっくりするくらい柔らかくなるのよ』
シンクの隣の調理台で、誰かが笑いかけてくる。
顔はまだ、光に包まれてはっきりと見えない。けれど、その声は信じられないくらい優しくて、安心しきってしまうような響きを持っていた。
『スープのアクは、こまめにすくってね。少し手間だけど、そうすれば宝石みたいに透き通った琥珀色のスープになるから』
『昨日から残ってカチカチになっちゃった雑穀パンはね、こうやって卵とミルクにしっかり浸して焼けば、とびきりのフレンチトーストに生まれ変わるの。魔法みたいでしょ?』
並んで立ったステンレスの調理台。
背伸びをして覗き込んだ鍋の中でコトコトと煮える、琥珀色のスープ。
不器用なわたしの手を優しく包み込み、一緒に包丁を握ってくれた、少し荒れた温かい手。
──孤児院の薄暗いキッチンで、自分でも理由がわからないまま、無意識のうちに完璧な手際でこなしていたあの下ごしらえも。
──『神様からの授かりものだ』と褒められ、首を傾げていたあの料理の数々も。
決して、神様なんかがくれたものじゃなかった。
本能でも、天性の才能でもなかった。
それは全部、この緑色のタイルのキッチンで、大好きだった『お母さん』から教わった、かけがえのない日常の記憶だったのだ。
『お母さん──わたし、まだそんな難しいことできないよ』
光に包まれてはっきりと見えなかった顔が、徐々に露わになっていく。そこに立っていたのは、わたしと同じ金髪でサラサラのロングヘア、腰当たりまで伸びる流麗な髪、大人っぽいエプロンに、三角巾、わたしを覗き込む姿は端正な顔立ちで、えらく美人だ。
『難しいことないわ──。そのうち出来る、なんたって私の娘だもの』
私の娘……。思い出した。わたしの母は元料理人で、お父さんは──
『じゃあ、いつか作れるようになる!』
『リンコならすぐ出来るわよ。将来、好きな男の子でも出来たら作ってあげなさい』
『男の子……』
わたしは、あまり男の子が好きではない。いつもわたしにだけちょっかいをかけてくるし、付け回してくるし、意地悪で、素直じゃなくて、乱暴で、自分勝手な生き物だから。
だけど──お父さんは好きだ。だってお父さんは──
「ただいま」
玄関の扉がガチャリと開くと、そこに立っていたのはお父さんの姿だった。スラリと伸びた長い脚に、白衣を纏っている。黒い髪で、横顔はシュッとしていて、俗にいうイケメンっていうやつだ。わたしのお父さんとお母さんは、アトランティスの基準で見ると、間違いなく美男美女の夫婦である。
「「おかえりなさい!」」
「今日はちょっと遅かったじゃない。仕事が長引いたのかしら」
「ああ。科学神官会議が長引いてね。お──今日はリンコも作ってくれるのか?」
「うん! お母さんがね。昔働いてたビュッフェで作ってたレシピ教えてもらってたの!」
「なに!? あの店のレシピは企業秘密だぞ? 情報漏洩は禁止されているはずだが……」
父はいつも冗談めいたことを言う人だ。
「もう、お父さんったら余計なこと言わなくてもいいの。情報漏洩だなんて、まだ小さいこの子には覚えなくていい言葉よ」
「じょうほうろーえー?」
「秘密を漏らすってことさ」
「ふーん」
お父さんは科学者だ──。
いつも難しいことや、知らない知識を教えてくれる。スパイとかじょうほーろーえーとか物騒なワードが多い気がする……。だけど──
「そう言えばフリーエネルギーの研究でしょう? 将来クリスタルとオリハルコンでこのアトランティスの電力を賄うっていう……」
「ああそうだね」
ふりーえねるぎー!!! わたしはこの言葉が好きだ。
「ほら。出来たから二人とも椅子に座って」
「「はーい」」
わたしは食卓につくと、いつも父の研究について机から身を乗り出して話を聞く。
「お父さん! 今日はどんな話してくれるの?」
「こら。リンコ行儀悪いわよ」
「いいじゃないか。女の子はちょっとお転婆な方が可愛いって、アトランティスのことわざにもあるだろう?」
「出たわ──あなたの悪いクセ。勝手に新しい辞書作る……」
お母さんとお父さんはいつも夫婦漫才を始める。それほど仲が良いってことだ、いつもわたしを笑顔にしてくれる。いつか、こんな夫婦になれるような、そんなボーイフレンドを見つけたいとか思ったり。男の子は今のところ嫌いだけど。
「だけど、あんまり無茶しないでね。あなたの研究をよく思ってない人間もいるわ。これまで王宮の権威に背くとか言って、ベリアル聖教の異端審問にかけられた科学者も大勢いるから」
わたしの家族はアトランティスでも珍しい無宗教者だ。だけど、神様を信じてないってわけじゃなくて、特定の宗派を持たないだけ。お父さんが言うには『フリーエネルギー』はあちこちに神様がいて、その神様から力をお借りして、いつか恩として返す。循環のエネルギーだという。
「ああ。気を付けるよ。リンコ──今日はとびきりの特ダネを持ってきた」
「なになに?」
「いつか父さんは、世界中の人に電気を届けて、差別や、貧困や、戦争をなくして平和な世界を作るって会議で話してきたんだ。そこには国境がなくて、すべての人種の人たちが豊かに暮らせる国をだな……」
「しっ──お父さん。声が大きいわ。誰かに聞かれてたら……」
いつもこの手の話になると、お母さんは周囲を警戒する。窓の外をきょろきょろ見たり、扉の向こうに誰かいるのではないかと怯える。そしてまた、ほっと胸を撫でおろし、話が再開する。
「すまない。この話をするときは声のボリュームを抑えるよ」
「するなとは言ってないけど、もうちょっと立場を考えた方がいいわ……」
食卓の上には、肉の切れ端で作ったビーフシチューがある。湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが立ち込める。
「そろそろ神に感謝をささげてから食事にするか」
お父さんのその言葉を合図に、三人とも手を合わせてからスプーンを持つ。
「「「いただきます」」」
わたしたちはベリアル聖教ではないけれど、いつも神に祈りを捧げてから食事をする。これはアトランティス全体ではかなり珍しいみたいだ。他の人たちは『さて食事にしよう』『食べようか』などの淡白な会話か、何も言わずに食べる。だけど、このいただきますには、生命をいただく、作ってくれた人の時間をいただくという感謝の儀式である。
温かいシチューをスプーンで口に運ぶと、濃厚な肉汁と、舌をピリッと刺激するスパイスの香りが、鼻腔をつく。
「美味しい!」
わたしがお母さんと共作した料理に感動し、思わず感嘆を漏らした。
「辛くなかったかしら?」
「ううん! これくらいが好き。いつものやつももちろん美味しいけどね!」
わたしが最初に口へ運んでそう言うと、お父さんもお母さんもそれに続いて
「めちゃくちゃ美味しいぞこれ」
『そうね──かなり、というか、私以上かも』とべた褒めしてくる。
お父さんはお父さんで、『いや、どちらがとは決められない。お互い別の頂点にたどり着いた神だよ』と、食卓で二人の神に囲まれてすごい嬉しそうだった……。
「じゃあ、今日のレシピはノートにメモしておくわ」
お母さんはそういうと、懐からノートを取り出し、今日の作った手順をメモしている。その間に『いつものわたしとお父さんの楽しい会話』が始まるのだ。
わたしは疑問に思ったことをお父さんに投げかける。
「フリーエネルギーが実現すると、なんで平和になるの?」
「そりゃあ、働かなくても『みんな』が平等に無料で電気を使えるんだ。無限にね」
「じゃあ、働くってなに?」
「んー難しいことを聞くなあ。リンコは……。そうだな」
お父さんは頭を抱えながら、もう片方の手で、ビーフシチューを口に運ぶ。それを十分に堪能した後、間髪入れずに答えを言ってくれた。
「義務じゃなくて権利だよ。働きたくても働けない人もいるし、働きたくないのに働いている人たちもいる。これでは循環のエネルギーが発生しない」
「うーん。むつかしい!」
「そうだな、例えば困っている人たちに手を差し伸べるのはやりたくてやることだろう? 誰かに強制されてやることじゃないんだ。お金がもらえるからするんじゃなくて、その人の笑顔を見るためにやることって言えばわかりやすいかなあ」
「あ、そういうことか!」
お父さんは分かりにくいことを分かりやすく言う天才だ。
「それに──本来なら働いてもらえるはずのお金がもらえずに、一部の偉い人たちに流れているんだ。そのお金が戦争の武器や、軍隊といった『平和』とは反対のものに使われている」
わたしたちはビーフシチューをいつの間にか食べ終え、話に熱中して時間を忘れていたことに気付く。
「あなた、今から家計簿つけるからリンコと先にお風呂すましておきなさい」
「リンコ。風呂入るか」
お父さんは脱衣所に向かうために箪笥からバスタオルや服を取り出す。わたしの分も箪笥から取り出し、わたしたちは脱衣所に向かった。




