第七十四話『秘密の部屋』
※※※
王宮の地下、誰にも踏み荒らされることのない深淵。そこに広がる『アカシック・ライブラリー』は、アトランティスの権威そのものだ。
壁一面に並ぶのは、文字を追うための紙の束ではない。知識の結晶そのものだ。アトランティスが隠蔽してきた地上の滅亡史、人類のゲノムに施した幾重ものロック、そして星々を渡るための物理法則を歪めた真実の航法理論。
この部屋の空気は、凡夫の肺には毒だ。真実を知れば知るほど、その重圧に脳が耐えられず、ただの抜け殻と化すからだ。
だが、メストルの目の前で項垂れているこの『エラー端末』は、何度作り変えてもその核だけは汚れない。
「おい、目を開けろ」
メストルの声は、神殿の静寂を乱すことなく、冷酷に響く。
リンコは緩慢な動作で顔を上げた。かつて地下街でその洗脳を剥がされ、メストルを出し抜こうとした瞳には、今はただ虚無が宿っている。
メストルは手元に浮かべた、禍々しく青く光る『偽のインプラント』を見つめた。
地下街で過ごしたツキシマレンとの絆、人間として生きてきた記憶、それらすべてを塵に変えるための、美しき毒だ。これをうなじのプラグに差し込めば、リンコはまた、メストルにとって都合のいい『猟犬』に戻る。
「……ッ、う……ぅ……」
リンコは何かを拒もうと、喉の奥で獣のような音を漏らす。だが、メストルの重力制御下では、指先一つ動かすことすら許されない。
「お前が図書室で見たもの──レンとの思い出という名のバグが、お前の脳を蝕んでいる。だが案ずるな。私がすべてを『正常な歴史』に書き換えてやる」
メストルは彼女の髪を無造作に掻き上げ、うなじの接続ポートを露わにした。そこには、以前のインプラントの残滓が、まだ微かな痛みとなって刻まれているはずだ。
メストルは迷いなく、偽りの記憶が詰まった結晶をそのポートへと突き立てた。
──カチリ。
心地よい接続音が鳴り響く。
同時に、リンコの瞳から人間としての光が急速に失われていく。その代わりに、彼女の脳内に『王宮の忠実な端末として生きてきた』という、完璧に作り込まれた偽りの年表が、電流となって脳髄を焼き尽くしていく。
「あぁ……っ、うぁぁぁぁぁ……」
彼女が喉を引き攣らせて叫ぶ。それは失われたレンとの記憶への悲鳴ではない。脳が自身のアイデンティティを上書きされ、その歪みに絶望している音だ。
メストルはその様子を、まるで芸術品を眺めるような冷ややかな目で観察する。
「フハハハハ。今日からお前は、レンという男を知らない。お前はただ、王宮の秩序を守るために汚れた下層民を処理し続けてきた、私の誇り高き『防衛システム』だ」
リンコの瞳が、完全に凍りついた。
レンとの絆も、愛おしいと思った感情さえも──すべてがデータベースから消去され、空っぽの器に『殺戮のロジック』だけが整然と充填されていく。
メストルは彼女の顎を掴み、持ち上げた。
「さあ、猟犬よ。お前の『エラー』を修正したぞ。次は、地下から這い出してきたあの忌々しいネズミを、お前の手で解体してこい」
リンコは表情一つ変えず、ただ機械的な硬さで頷いた。
ああ、これだ。これこそが、メストルの管理する『正しいアトランティス』の姿だ。
(真実を知る者はこの図書室で静かに腐ればいい。外の世界には、私の書いた歴史だけを信じる人形がいればそれで十分なのだ)




