第七十話『絶望的な状況』
私はバグってる。リンコ様が死ぬかもしれないって状況の時に普通なら『助けなきゃ』ということで頭が一色になるはず。
それもこれも、王宮の地獄みたいなマザーラボで感情も価値観も実験室でめちゃくちゃにバグらされた結果だ。リンコ様の命の危機っていうシリアスな状況で、私は『リンコ様と本気で籍を入れること』しか考えていなかった。
『リンコ様を助ける=婚姻届けを出す(ツキシマレンに勝つ)』
というバグった等式が本気で直結している。
だけど、私はバグった自分を思い悩まない。
王宮の狂った人体実験が、皮肉にも『絶対にリンコ様をお救い出来る』という確信を生み出したんだ。
自らの研究が仇になったな──。
いけ、ツキシマレン──
※※※
「オラァァァァァァッッッッ!!!!!!」
カゲロウのように透けかけたセネカがレバーの前からパッと飛び退いた、その一瞬の隙。
オレは床の緑色の汚泥を強く蹴り、両手で大上段に構えた鉄バールを、カプセルの主電源基板へと全力で振り下ろした。
デジタルマスクの奥で、高速テクノの重低音が脳の髄を激しく揺さぶる。焦りも、恐怖も、すべての雑音が消え失せ、目の前のクソな機械を破壊することだけにオレの全脳波が同調していた。
ドガシャァァァァンッッッ!!!!!
火花が、薬品の霧の中に爆発的な光を撒き散らす。
分厚い金属製の制御パネルがバールの直撃でひしゃげ、超微細な電子基板が粉々に砕け散った。
チチチ、ジジジジジッ、と部屋全体の警告灯が激しく明滅し、カプセルの上部で非情に秒数を削っていたデジタルタイマーが、残り『00:00:12』のところでピタリと停止した。
ゴボゴボと不気味な脈動を繰り返していた無数の黒いコードの動きが止まり、カプセルを満たしていた蛍光緑の培養液が、シュウウウウと音を立てて下層へと一気に排水され始める。
「ロック、強制解除されたぞ! レン、ガラスを割れ!」
背後で防衛タレットを撃ち落としたギルが、硝煙の向こうから叫ぶ。
「言われなくてもっっ!!」
オレはバールを横に構え直し、培養液が抜けて露わになったガラスカプセルの中心へと、渾身の力で突きを放った。
ガキィィィン! と強烈な衝撃が腕に跳ね返る。王宮特有の強化ガラスだ。だが、デジタルマスクのエーテルビートに乗ったオレの筋力は、とっくに限界を超えている。
「戻ってこい、リンコォォォッ!!!!」
二撃目。バールの先端がガラスの表面に鋭い亀裂を走らせる。
三撃目──パリィィィィィンッッッ!!!!!
派手に砕け散ったガラスの破片と共に、カプセルの内壁に繋がれていた無数の医療コードがブチブチと引きちぎれた。
液体の抜けたカプセルの底へ、糸の切れた人形のように崩れ落ちていくリンコの身体。
オレはバールを床に投げ捨て、薬品の霧の中に滑り込みながら、アイツの華奢な肩をその両腕で強く抱き止めた。
ずっしりとした、だけど確かな人間の重みが、オレの腕の中に返ってくる。
「……おい、リンコ! 目を覚ませ! リンコ!」
リンコの身体には、まだ微かに電子火花がチカチカと漏れている。その呼吸は、浅く、酷く冷たかった。
オレがリンコの体を揺さぶったその時、オレのすぐ横に、輪郭がギリギリまで薄くなったセネカがフッと音もなく膝をついた。
「私のおかげだ。感謝しろ。ゴミ虫」
声が掠れかかっているセネカが、透けた手でリンコの冷たい頬に触れようとして、やはりすり抜けていく。
「ああ、ありがとな。セネカ。お前がいなかったら危なかった」
ギルがセネカの服の襟元につけていたGPS通信機を回収する。ギルは空中に展開されるホログラムをタッチしたりスライドしたりしながら、その通信機から発信されるセネカの位置情報の画面を閉じた。
「おい。いつの間に……というか、半透明なのに服だけ実体化してるのか?」
「ああ。秘密基地から出るときにセネカの動きをチェックするためにつけた。セネカの身体が『透明、半透明』になるってだけで、別に触れたものが半透明になるわけじゃない」
じゃあ、なんで服着れてるの? そのロジックだと服がバサッて下に落ちて『全裸』になるのでは? 色々考えだすと面倒臭いので思考をストップさせる。漫画やアニメ特有のご都合主義ってやつだった……。
オレが色々考えてるとギルは『そんなことよりだ』と言う。
「先にセネカが潜入していなかったら本当に危なかった。──というより、間に合わなかっただろうな」
「ああ、セネカ。よくやった。ありがとうな」
セネカは相変わらず、ふふんと鼻を高くする。
「だが、コイツは危なっかしいから一応、まだGPS通信機はつけておくか」
再び通信機をセネカの襟元につけ、ギルが出口に向かって歩き出す。
オレはリンコを背中に背負い、バールを拾い上げた。
「ギル、クリスタ! アイツを連れてここを脱出するぞ!」
オレたちはリンコを救い出した。とっととここから脱出してNTR秘密基地へ帰ろう。
「……クリスタ、エーテル波の残量を──」
ギルが言いかけた、その瞬間だった。
ピタ、と。
耳の奥を直接ぶん殴っていたデジタルマスクのテクノミュージックが、不自然なほどの『完全な無音』に切り替わった。
(……あ? スピーカーの故障か……?)
そう思った次の瞬間、オレたちの足元に溜まっていた緑色の汚泥が、重力を無視して一斉に天井へと吸い上がり始めた。
マザーラボの空気そのものがドロリと凝固し、全身を強烈な不快感と、肌を刺すような『絶対的な支配者』の気配が支配する。
「フハハ、実に見事な救出劇だった。社会のゴミ。レン」
薬品の霧の向こう、解体室の天井から蛇みたいにのたうち回る黒いコードの隙間から、その男は音もなく、まるで空間から染み出すように現れた。
高級な王宮の衣服を微塵も汚さず、優雅に髪をかき上げる男──リンコの偽の父親、メストル。
「メストル……っ!! クソ野郎、そこにいたのか!!」
オレはリンコを背負ったまま、床の鉄バールをガチリと掴み直した。かつてこの手の中のバールで、コイツがリンコに植え付けた偽のインプラントをブチ剥がしてやった時の、あの硬い手応えが脳裏に蘇る。
だが、メストルはオレの怒声など耳にも留めず、退屈そうに指先をパチンと鳴らした。
──ドォォォォォォンッッッ!!!!!
「が、はっ……!?」
目に見えない超高密度の衝撃波が、空間ごとオレたちを薙ぎ払った。
防ぐことも、避けることもできない。背中のリンコを庇うのが精一杯だったオレの身体は、バールを持ったまま数十メートルも後ろへ吹き飛ばされ、マザーラボのぶ厚いコンクリート壁に正面から激しく叩きつけられた。背中にはリンコがいるので受け身が取れない。
「レン!!」
「う、あぁッ……!」
ギルが銃を構える暇もなく床を転がり、クリスタは放っていたエーテル波を強制的に逆流させられたのか、マスクのバイザーにヒビが入る。
「あ、う……リンコ、さま……」
セネカが、必死にメストルの足元へ這い寄ろうとする。だがメストルは、その透けかけた身体をただの空気のように踏みつけ、一歩、また一歩と、オレの腕から転がり落ちたリンコの元へと歩みを進める。
「チッ……オラァッ!!」
オレは口の中の血を吐き捨て、ひび割れた視界の中でバールを地面に突き立てて無理やり立ち上がろうとした。だけど、全身の筋肉が王宮の重力制御に圧し潰されて、指一本動かすのすら重い。
メストルは、意識を失ったままのリンコの前に立つと、冷酷にその前髪を指先でなぞった。
「私の可愛い人形をよくもバグらせてくれたな、下層街のゴミめ。だが、私の周波数さえあれば、何度でもこの娘の頭を染め直すことができる」
「触んじゃねえ……っ! その汚ぇ手を離せッ!!」
オレは喉を血で濡らしながら咆哮した。
「お前は私の手元にいるべきだ、リンコ。再び特殊部隊の総司令官として、あの目障りな地下街を、社会不適合者どもを一匹残らず殲滅してもらうためにな」
ムネセウスや他の十人王は、リンコをキメラの部品として解体する方向だ。一体、このメストル、リンコを手元に残すことに何のメリットがある!?
特殊部隊として使える駒なんていくらでもいるはずだろ!?
メストルが静かに腕を持ち上げると、リンコの華奢な身体がふわりと宙に浮き、彼の背後に展開した歪んだ空間の裂け目へとゆっくりと吸い込まれていく。
「待て……待てよォォォッ!!!」
必死に伸ばしたオレの手は、届かない。
目の前で、せっかく救い出したリンコの姿が、再びあの王宮の暗黒の奥へ、地獄へと連れ去られていく。
「フ。愚かな地下街の人間め」
クソみたいな嘲笑を残し、メストルはリンコと共に空間の向こうへと完全に消失した。
後に残されたのは、静まり返ったマザーラボの最深部と、完全に叩き潰されたオレたちの、激しい絶望の呼吸の音だけだった──。




