第六十一話『ずるい』
こいつはズルい。せっかくネイルとか日本の浴衣? ってやつを事前にギルから聞いて、ホテルで王宮の使わなくなった服をリメイクして新調してきたのに『可愛い』の一言がない。化粧もかなり頑張った。
なのにだ。
その口下手をカバーするかのように圧倒的な『地下街を作った』『花火を見るのにVIP席を用意してくれた』『命を救った』『メストルが偽の父親であることを暴いた』という女心以上に、わたしの心そのものを拾い上げてしまった。だからもっと欲しい……と欲張りになってしまう。
わたしはチューハイをこくこくと少しだけ胃袋に流し込み、ぽーっとほろ酔いで繋いだ手の先にいる、豆電球に照らされたレンを見る。
屋台でイカ焼きを買ったり、金魚すくいしたり、りんご飴を買ったり、焼き鳥を食べたり、たこ焼きを食べたり。ほとんど食べ物に夢中で、楽しくなって笑い合ったりもした。花火大会が終わったためか、人ごみは徐々に減り、どんどん公園の奥深くへと足を踏み入れていく。公園の奥には見たことのない赤い柱のようなものがあり、その奥には鐘のようなものがあった。レンはそこの手前にある石段に腰掛ける。『ほら』といった顔で、手を引いてきたので、わたしも座ることにした。
レンは口をもごもごさせながら、
『今日の浴衣めちゃくちゃ可愛いな』と言ってきた。
はぁ!? 今!?!?!?!?
そうツッコミそうになりながらも、内心ずっと待っていた言葉なのでコクリと頭を下げる。
「あ、ありがと……」
やばい。目が見れない。
下を向いた視界の端で、リメイクした浴衣の裾が、地底の微かな風に小さく揺れている。
「……ほんと、不器用。そういうのは、最初に言いなさいよ……」
蚊の鳴くような声で毒づきながら、わたしは膝の上で自分の両手をせわしなく弄んだ。
さっきまでレンと繋がっていた右手には、まだ彼の、あの男の人特有のごつごつした温もりがはっきりと残っている。
──温かいな。
そう思った瞬間、脳裏の、一番深いところに澱のように沈んでいた『冷たい記憶』が、皮肉にも鮮明に呼び覚まされてしまった。
今までわたしの人生に差し出されてきた手は、こんな風に温かくわたしを救い上げてくれるものじゃなかった。わたしを捨て、わたしを突き放し、わたしを都合のいい道具として扱った、あの偽物の父親の、凍りつくように冷徹な手のひら──。
そんな世界の中で手を差し伸べてくれたセネカだって、わたしの『信じている』という思いが届かず、世界のトータルの視認数でジャッジされる。胸の底が苦しい。痛い。今にも泣きだしそうになってしまう。呼吸が浅くなっていくと同時に、わたしは瞼が徐々に濡れていくのを感じた。泣いちゃダメ……。せっかくレンがこんな楽しい思い出を作ってくれたのに。
だけど、一度決壊を始めた感情の濁流は、わたしの貧弱な理性の堤防なんて簡単に押し流していった。
「……う、く……っ」
必死に奥歯を噛み締めたけれど、喉の奥から小さな嗚咽が漏れてしまう。
視界が涙で完全に歪み、小さな豆電球の灯りに照らされたレンの姿が、水の中に沈んだみたいにぐにゃぐにゃに滲んでいく。
この世界は、最初から狂っている。
学校でも居場所なんてなくて、いつも虐げられていた。自分の存在価値を証明したくて、信じていた特殊部隊へ合格するために、わたしは青春時代のすべてを投げ打って血を吐くような思いで勉強してきた。なのに、そんな努力のすべてを嘲笑うように、王宮は洗脳周波数という名のフリーエネルギーを独占し、一般市民の記憶を家畜みたいにいじくり回して支配する。
周りから視認されなくなって身体が透けていく人間なんて、この世界では珍しくもないとギルが言っていた。王宮の冷酷な定期監査が入った時、『全体からのアクセス数の少ない不要なユーザー』と判断されれば、存在確率ゼロとして、初めから存在しなかったものとして世界から完全に消去されてしまう。
レンがわたしの脳内に嵌め込まれていた偽インプラントを、バールで無理やり剥ぎ取ってくれた時、わたしは救われたはずだった。
なのに、その代償として発生した最悪の因果のバグ。あのメストルに捨てられた暗闇の底で、わたしを人間として見つけてくれた『セネカとの出会い』という、原因と結果のタイムラインをわたしは失ってしまった。
レンがバールを振り下ろしたあの瞬間から、セネカの身体の向こう側が、嘘みたいに半透明に透けて見えたあの光景が、今も網膜にこびりついて離れない。
わたしがどれだけセネカを信じていても、因果の糸が千切れたら、世界全体のジャッジ視認数から、セネカの存在が零れ落ちようとしている。王宮の監査が来たら、セネカは、元からこの世界にいなかったことにされて消されてしまう。
「……レン……、わたし……、わたし、は……っ!」
一度溢れ出した涙はもう止まらなかった。ボロボロと、新調したばかりの浴衣の膝の上に、大きなシミを作っていく。
こんなに温かい場所にいるのに。今、レンに優しく手を引かれているのが、嘘みたいに幸せなのに。それすらも失ってしまうのが怖い。ライラも失い、セネカも危険にさらされ、レンだって命を狙われている──、いつか失うなら初めから──
──そんな風に、自分で自分の心を凍らせて逃げようとした、その瞬間だった。
視界を塞ぐ涙の向こうから、そっと、温かい質量が頬に触れた。
レンの手だった。わたしの零れ落ちる涙を、世界の何よりも愛おしいものを掬うように、指先で優しく拭ってくれる。
「言っただろ。王宮がどんな非情な手を使おうが、その度にオレがフリーエネルギーでお前らを守るって──」
優しく、けれど世界のどんなシステムよりも絶対的な確信を孕んだ声。
まるでわたしの臆病な心を見透かすように、レンは視線をまっすぐ逸らさず、じっとわたしを見つめてくる。周りの喧騒が遠ざかり、世界から音が消えて、まるでこの場所だけ時が止まったみたいに錯覚する。
その真っ直ぐな瞳を見た瞬間、わたしの胸の奥で、張り詰めていた何かが音を立てて千切れた。
「……っ、……ぅ、ん……!」
嗚咽混じりの声が、かろうじて言葉の形を成したかどうかも分からない。
次の瞬間、わたしは自分の理性が追いつくよりも早く、引力に引かれるようにレンの胸へと飛び込んでいた。
──もう、我慢できなかった。
浴衣の生地が擦れる音と一緒に、レンの体温が、その広い胸の温もりが、わたしの凍りついていた全身を容赦なく溶かしていく。しがみついた腕から伝わる、レンの心臓の音。トクトクと、力強く、確かに刻まれるその鼓動が、わたしの鼓膜を、脳を、優しく支配していく。
その音が、わたしにこの世界で初めての深い安らぎを与えてくれる。それと同時に、わたしの中に眠っていた『弱さ』のすべてが、決壊したダムみたいに溢れ出した。
「う、あ、あああ……っ!!」
レンの胸に顔を埋めたまま、わたしはさっきよりも大きな声で、子供のように声を上げて泣きじゃくった。レンの服を掴む指先が、白くなるほど強張る。
レンのことが好き。どこにも行かないでほしい。ずっとこのまま一緒にいてほしい。
本当の父親の記憶がないわたしには、帰る場所がない。だからいつでも帰る場所がココであってほしい。
そんな胸を焦がすような熱い思いが、心臓の奥からドクドクと押し寄せてくるのに、涙と嗚咽に邪魔されて喉元で引っかかって、上手く言葉になってくれない。ただ、レンを失いたくないという本能だけが、わたしに彼の胸の音を貪り聞かせていた。
「レン……わたし……っ……レンのことが──」
その、あと一歩で言葉が形を成そうとした、まさにその刹那だった。
──轟ッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
鼓膜を、脳を、内臓を直接握り潰すような、この世の終わりを告げる凄まじい大爆音と衝撃波が、わたしたちの世界を完全に粉砕した。
爆風が、せっかくレンが再現してくれた鳥取しゃんしゃん祭りの風情を、高台の静寂を、一瞬で消し飛ばす。
あまりの衝撃に足元が激しく揺れ、わたしはレンの胸に抱きついたまま、石段の上を激しく転がりそうになった。いや、転がっていたはずだった。レンがその強靭な腕で、わたしの身体を壊れるほど強く引き寄せ、背後から降り注ぐ爆弾の破片と爆炎から盾になるように庇ってくれなければ。
ゴホゴホと激しく咽せ返るような黒煙と、強烈な硝煙の臭い。
さっきまでわたしたちがいたはずの公園の入り口は、巨大なクレーターのように無惨に抉れ、真っ赤な炎が夜の闇を不気味に照らし出している。
煙の向こうから、重苦しい、けれど冷徹極まりない足音が響いてきた。
ザッ、ザッ、ザッ……。
「……ふむ。王宮の監査の目を盗み、こんな地下の掃き溜めで不都合な『バグ』を撒き散らしているネズミがいると思えば。まさかそのネズミの首謀者である、お前だったとはな、レン。メストルによって始末されたと聞いたが……」
煙を割り、炎の逆光を背負って現れたその男の姿を見た瞬間、わたしの全身の血の気が一気に引いた。指先が、今さっきまでとは全く違う恐怖の拒絶反応でガタガタと震え出す。
十人の王が放った、最凶の処刑人。
王宮の絶対的な意志そのものである男──ムネセウス。写真でしか見たことがないけれど、間違いない。
「世界の因果を乱す不確定要素は、ここで一粒残らずデリートする。それが王宮の、そしてレプティリアンの絶対の秩序だ」
ムネセウスの冷徹な声が、夜の闇に鋭く突き刺さる。
レンはわたしを背後に庇ったまま、鋭い眼光で男を睨みつけ、バールを構え直した。その全神経は、いつでもフリーエネルギーのカウンターを叩き込めるよう、極限まで研ぎ澄まされている。
だが──ムネセウスが突き付けた巨大な武器の銃口は、レンではなく、その背後に隠れるわたしへと真っ直ぐに向けられた。
「……え?」
恐怖で思考が停止する。なぜ、わたしを狙うの?
偽インプラントを剥がされ、アクセス数(視認数)すら失いかけている、ただの不用ユーザーのわたしを。
「勘違いするなよ、レン。我々十人王が、監査のデリート枠を飛び越えて直々に『処分』を下しに来たのは、そこの『バグの塊』を回収するためだ」
ムネセウスの言葉に、レンの眉がピクリと跳ねる。
「……リンコを回収だと? 王宮はリンコを捨てたはずだろ」
「剥ぎ取られたのだろう? メストルが仕込んだ思想管理OSを。十人王の会議はすでに結論を出している。王宮の制御を離れたただの小娘など、この世界には不要。用済みだ」
ムネセウスは冷酷に宣告する。その瞳には、人間を人間とも思わない絶対的な選民思想が宿っていた。
「十人王の多数派は、その娘の身体を解体し、生体キメラとしてのベースにする方針で一致した。それが、王宮の総意だ」
「……っ、ふざけるな……!」
レンの奥歯が軋む音が聞こえた。
生体パーツ。その悍ましい単語に、わたしの全身の血の気が一気に引いていく。
「……もっとも、思想管理の王メストルだけは、未だに往生際悪く『その娘を生かして私の手元に戻せ』と会議で主張しているようだがな。現場の指揮権を持つのはこの俺だ。リンコ、お前をここで生きたまま王宮へ連行する」
ムネセウスの身体から、王宮独占の邪悪なフリーエネルギーがバチバチと音を立てて膨れ上がる。圧倒的なプレッシャーが、大気ごとわたしたちを押し潰そうと迫ってきた。
「……オレの目の前で、指一本触れさせるとでも思ったかよ」
レンはいつものようにバールを握り、激しく火花散らせて地を蹴った。
その速度は人間の限界を完全に超越していた。石段のコンクリートを爆砕しながら、最短距離でムネセウスの懐へと肉薄する。
「小癪な──往け」
ムネセウスが冷酷に命じた瞬間、彼の背後の炎の中から、人間を引き裂くような不気味な咆哮が轟いた。
──ギャリリリリリリリッ!!!!
黒煙を割って飛び出してきたのは、悍ましい異形の生物だった。
ベースは巨大な猟犬。だが、その頭部は不自然に肥大化した昆虫の顎を持ち、背中からは王宮のエネルギーパイプが肉に直接突き刺さっている。十人王のキメラ技術が産み落とした、生体兵器の軍勢──。
「しまっ──!?」
レンの視線が一瞬、背後のわたしへと泳ぐ。
三頭のキメラが、凄まじい跳躍力でへたり込むわたしへと牙を剥いて突進したのだ。
「よそ見をしている暇があるか、レン」
隙を見逃さないムネセウスが、巨大な武器の引き金を引く。
銃口から放たれたのは、大気をプラズマ化させるほどの高密度フリーエネルギーの奔流だ。直撃すれば肉体ごと消滅する白光のレーザーが、レンの頭部を正確に捉える。
レンは超感覚でエネルギーの軌道を見切り、手にしたバールの先端を、その狂暴な光の軸へと真っ直ぐに突き立てて弾いた!
──キィィィィィィィィィィィンッ!!!!
鼓膜を引き裂くような高周波の金属音が響き渡る。
激しい光化火花が夜の闇を白く染め上げ、反動でレンの浴衣の袖が消し飛び、腕から血が噴き出す。だが、レンは体勢を崩しながらも、叫び声を上げて地面を払った。
「リンコッ!! 伏せろォッ!!!!」
レンが弾いた光のレーザーが、軌道を変えてわたしの目の前に迫っていたキメラの頭部へと直撃する。凄まじい爆発とともに一頭が肉片となって吹き飛んだが、残りの二頭が、千切れた浴衣の膝を抱えて震えるわたしのすぐ目の前まで迫っていた。
キメラの生臭い唾液の臭いが鼻を突く。
ムネセウスが冷酷に口角を上げた。
「俺のキメラどもの牙は、その娘の四肢を優しく噛み砕く。十人王の会議の通り、生きたまま解体台へ運ぶために筋繊維だけをズタズタにな」
「……っ、この、クソ野郎が……ッ!!」
レンは歯を食いしばり、目の前のムネセウスを押し返そうとバールを軋ませるが、ムネセウスの圧倒的な質量に阻まれて身動きが取れない。
キメラの鋭い爪が、わたしの顔面に振り下ろされる──
恐怖で目を瞑ったその瞬間、わたしの胸元で、ずっと冷たく死んでいたはずの『懐中時計』が、レンの命がけの抵抗と共鳴するように、ドクン……と不気味な胎動を上げて震えた。
「──が、あぁッ!!」
直後、鼓膜を裂いたのはレンの悲痛な咆哮だった。
目を開けたわたしの視界に飛び込んできたのは、ムネセウスの強大なパワーを強引に跳ね除け、身を翻してわたしとキメラの間に割り込んできたレンの姿だった。
肉を切り裂く嫌な音が響く。
レンは自身の背中でキメラの爪を身代わりとなって受け止め、その凄まじい衝撃に血飛沫を上げながら、わたしを抱きすくめるようにして地を転がった。
「ガハッ、……ゴホッ……!」
「レン!? レン、嫌、背中が……っ!」
息を詰まらせ、激しく吐血するレン。浴衣の背は引き裂かれ、生々しい深手から止めどなく鮮血が溢れ出している。それでもレンは、震える手でわたしの身体を庇い、血で濡れたバールをムネセウスに向けようと必死に腕を伸ばした。
だが、その執念を嘲笑うように、重苦しい足音がすぐ目の前で止まる。
「無様だな、地下街の創造主。ただの一人の小娘のために、自ら牙に飛び込むとは。独善的な感情ほど、お前たちの行動を鈍らせる致命的なバグはない」
見下ろすムネセウスの銃口が、完全に倒れ伏したレンの頭部へと突きつけられる。
バチバチと、冷酷な白光のエネルギーが再び銃口に収束していく。
「やめて……! お願い、やめて!!」
わたしはレンに覆い被さるようにして、必死に叫んだ。
もう嫌だ。ライラも、セネカとの絆も、そして今、わたしに手を差し伸べてくれたレンまで奪われるなんて、そんなの世界が絶対に間違っている。
「ほう。身代わりになるか」
ムネセウスの赤く光る眼光が、わたしを冷徹に見据える。
ムネセウスは引き金から指を戻すと、歪んだ口角で冷たく言い放った。
「いいだろう。どのみちその娘は生かして連行するのが王宮の総意。ネズミの首領、お前の処刑は、その娘を解体台へ据えた後、アトランティス全土へパブリックビューイングで公開してやる」
ムネセウスが空いた左手をわたしへと突き出す。
その瞬間、ムネセウスの腕に埋め込まれた王宮の端末が怪しく発光し、わたしたちの周囲の空間がぐにゃりと不自然に歪み始めた。王宮直轄の強制転送エネルギー。
「が……あ、あ……ッ!!」
身体が、内側から粒子に分解されていくような凄まじい激痛が全身を襲う。わたしの身体が、足元から徐々に半透明の光の粒へと変わっていく。
「リン、コ……ッ!!」
レンが血を吐きながら、必死にわたしへと手を伸ばした。
わたしも、光に溶けかけていく手を、必死にレンへと伸ばす。
あと数センチ。指先が触れ合う、その寸前だった。
「レン──!!!!」
わたしの絶叫が夜空に響き渡ると同時に、世界が激しい白光に包まれ──次の瞬間、わたしの身体は、レンの届かなかった手のひらの前から、完全に消失していた。
残されたのは、抉られた公園の地面の穴と、炎の照り返し。
そして、わたしを目の前で奪われ、己の血の海の中で咆哮を上げる、レンの孤独な怒りだけだった。




